終幕
「結局、全てをたくらんだのは、毒味係だったコン・ジユってことで、決着するみたいだ」
数日後、呼び出された桂城君の私邸の庭先で、彼が低く落とすのを、ソルファは静かに聞いていた。
「本当の黒幕は、大妃様なのに……」
眉根に自然、皺が寄る。
その服装は、普段通り、捕盗庁の茶母としてのそれだ。
「悔しい……あの方の勝手な欲望の道具みたいに、ユクファは殺されたのに……たくらんだ方は手を下していないってだけで……この国最高位の女人だってだけで、罰せられずに、今も後宮の奥で、のうのうと暮らしてる」
あんまりだ。
王にすら知らされなかった真相は、今は廃妃となった先の王妃、ユン・ドンフィを陥れる為の策略だった。
『――わたくしは、何としてもユン・ドンフィをこの世から追い出したい。宮中からだけでなく、な』
問い詰められ、慌てるでもなく、大妃、ハン・ナリはうっすらと微笑んだ。
当年とって、五十六になる筈の彼女は、年相応に見えぬほど美しかった。
『あの者が、今以て外から指図し、宮中の女官を害しているということになれば、王もあの者を賜死にせざるを得ぬであろう。たとえ、世子〔皇太子〕の母であってもな』
そう言った大妃の顔は、少しも悪びれていなかった。
「そんな……そんな理由の為に」
腕に掛けた長衣の中にある手を、握り締める。
「ただの嫁姑戦争に人を巻き込むなってのよ!」
「煎じ詰めればその一言に集約されるから、俺も否定しない」
溜息に乗せて吐き出した桂城君の表情も、大方ソルファと似たようなものだ。
やり切れない。
「巻き込んだだけならまだしも、四人も殺してるのに……おかしいじゃない! 大妃様からは謝罪もなかったわ。あのあと、コン尚宮様が出て行って、自分が全てを計画しました、自分が毒を入れて、尚宮様達にお出ししました、大妃様にはご協力いただいただけですって言ったら、殿下もあっさりそれを認めたし」
「自分の父親だから弁護してる、とか思われるのも嫌だけど、父上は認める振りをするしかなかったんだろうぜ」
「どういう意味よ!」
確認する声が、キンと尖るが、どうしようもない。
上がり框に座り、片膝を立てた桂城君は、そこに頬杖を突いてソルファを見上げた。
「お前だって、知ってるだろ。この国の国是は、『儒教』だ。儒教では、親や君主を大事にするのが何よりの美徳だって教えてる」
「そうね。だから?」
「父上は、お祖母様の息子だ。儒教の教えでは、親を罰することはできない。けど、自分の目の前で真相が明らかになった以上、誰かを罰することなく終わりにもできない。民の父って立場なら尚更だ。父上には幸いなことに、コン尚宮には、先代王妃様を害する理由も動機もちゃんとあったし、毒を入れたのも彼女自身だから、犯人をでっち上げる必要もなく事件を収束できる訳だしな」
尚も反駁しようとして、ソルファは結局口を噤んだ。
反論の余地などない。その通りだ。
先代王妃は、ひどく嫉妬深い女性だった。そこまでは、ソルファも聞き及んでいたが、どんな振る舞いをしたかまでは、よく知らなかった。
王妃の座にあった頃、トンフィは、新しく女官が王の寝所に召される度に、承恩尚宮となった女性に毒を送ったり、呪いの人形を居所の傍の地面へ埋めたり、といったことを、日常的に行っていたらしい。
その魔の手は、今回、首謀者として処罰されることになったチユの親友にも及んでしまった。
懐妊した親友は、程なく淑媛の宣旨を受け、側室に昇格したが、ある時先代王妃が盛った毒で、赤子を流産し、自身も命を落としたという。
『許せなかった……! 親友を殺しておいて、王妃というただそれだけの理由で何の処罰も受けずにいるあの方を、どうしても許せなかった! 世子様の母君だという理由で、追放で命を長らえているあの方が、どうしても……!』
大妃の宮に呼び出され、泣き崩れたチユを、ソルファは頭から責めることができなかった。
立場が違えば、実行できる環境であれば、今頃ソルファだって大妃を殺している。
「……どうしたらいいの……」
いつしか、涙が溢れていた。
胸元を鷲掴む。
「こんなの全然、ユクファの仇なんて取れてない……コン尚宮様が処刑されたからって何になるのよ」
罰を受けるべき人間が、高い地位や身分を持っているという理由だけで、その罰を免れる。
そんな理不尽に対するもどかしさは、これまでにも味わってきた。しかし、今回ほど、身が焦げるような憤りを感じたことはない。
「悔しいッ……!」
絞り出すように言って、長衣に顔を埋めた直後。
温もりが肩に回って、ソルファは瞠目した。
「……分かる」
耳元に、優しい声音が落ちる。
「痛いほど理解できる。俺だって同じだ。できることなら、父上もお祖母様も殺してやりたい」
「桂城君、様」
「だけど、お前まで罪人になって殺されたら、俺がユクファに会わせる顔がない。怒りを忘れろとは言わない。けど、ユクファの為に、堪えてくれ」
「……何よ、それ。結局自分の為じゃない」
弱々しく反論しながらも、ソルファは桂城君を押しのけようと思えなかった。
「自分がユクファにいいカッコしたいってだけでしょ」
「否定しねぇよ」
クス、という小さい笑いと共に、頬に柔らかく何かが掠める。
瞬間、弾かれるように彼の胸を押すが、彼の手はソルファを離さなかった。
「ちょっ……急に、何、今……今の、って」
頬を掠めたものは、――もしかしなくとも、唇ではないだろうか。
そう意識した途端、涙は引っ込み、頬に熱が上る。
しかし、彼のほうも、どこか呆けた顔をしていた。
「……いきなり唇にするよりマシかと思って」
「そっ、そーゆー問題じゃないでしょ! やっぱり桂城君様、勘違いしてらっしゃいませんか!? あたしはユクファじゃない!」
「知ってるよ、言ったろ。顔見れば分かるって」
言われて、熱も照れも瞬間的に引っ込んだ。
「……なら、何ですか。それでもよく似てるから、身代わりにしようってことですか?」
「……俺も、今気づいたんだよ」
「何を」
「離したくない」
ソルファは、絶句した。唐突すぎて、付いていけない。だが、桂城君は構わず続ける。
「お前は寂しくないのか。ここで別れたら、同じ都に住みながら、永久に会えないかも知れないのに」
「それは」
端的に指摘され、思わず目を泳がせる。
それは、宮中を下がってからずっと必死で無視してきた、もう一つの感情だ。
出会ってから、およそ半月。一緒にいたのは、その内の、ほんの二、三日に過ぎない。
なのに、既に彼と離れがたい気持ちになっている自分が、ソルファには信じられなかった。
「ユクファとお前が別人だってことは知ってる。その上でお前を好きになったって、今気づいたと言ったら……おかしいか?」
「お、おかしいも何も、こんな短期間であたしの何を知ったって言うんです!?」
「気が強くて跳ねっ返りで王にでも反論する命知らずってトコか」
「欠点だらけじゃないですか!」
「全くだ。俺も自分に呆れるばかりだよ。でも」
離れてしまったソルファの身体を、桂城君は改めて抱き寄せる。
「このまま手を離したら、きっと後悔する。それだけは確かだ」
「だって、そんな……身分が……それに」
きっと、桂城君は、ソルファにユクファを重ねているだけだ。ソルファにしても、姉の想い人と、なんて、まるで姉から横取りするようで気が引ける、なんてものじゃない。
「身分なんて、気にする柄かよ。それに、お前のことは少し調べた。父親は、右捕盗庁の従事官ウォン・チ、だよな?」
「そ、そうですけど」
「なら、下級でも両班の姫だ。王子の妃になるのに不足はないだろ」
「カ、揀擇ってモンがあるじゃないですか。あたしが選ばれるとは限らないでしょ」
揀擇とは、王族の配偶者を選抜する試験のことである。
「それに、本当のあたしの父は、チョン・スユ様で」
「今の右議政〔副首相〕だろ。益々申し分ない」
「母は、私婢でした。つまり、あたしの生まれ持った身分は、賤民です」
「それは関係ない。王子の妃になるに当たって大事なのは、戸籍上の身分だからな」
「そんなの、分かりませんよ。王子様の姻戚になりたい誰かが、探り出すかも知れないし」
「とっくに王の眼中から外れてる次男坊に、誰が大事な娘を嫁がせたいかっての」
「桂城君様、あたしは」
まるで、容赦なく外堀を埋められていくように、反論がなくなっていく。
「……困ります」
「何が」
「だって……」
「言われなきゃ、分からないぜ。お前の気持ちは」
瞬時、唇を噛むようにして、そっと桂城君の胸部を押す。
今度は逆らわずに離れる彼と、おそるおそる視線を合わせた。
「……言っても不敬罪で罰しないって約束してくれます?」
「ああ」
「では、恐れながら申し上げます。桂城君様は、絶対にあたしに姉を重ねてます。身代わりが欲しいなら、あたしは構わないけど、いずれ姉との違いに桂城君様はズレを感じるようになるに決まってます。その時後悔しても遅いんですよ? あたしだって……」
言いさして、別の意味で涙が滲みそうになる。
「……何だよ」
「……ああ、やだ。どうしてこんなことになったの」
「一人で納得すんな」
「もう言えません、無理です」
再度、長衣に顔を埋める。
思ってもみなかった。
よりによって、姉と同じ相手を好きになる、だなんて。姉が亡くなってるならもういいじゃないか、と自分の中の『女』が囁くのに、思わず頷きそうになる。
「重ねてないって言えば、嘘だけどな」
相変わらず、ソルファの二の腕を掴んだままの桂城君が、口を開いた。
「お前とユクファは、全然違う人間だ。何度も言ってるだろ」
「それは」
「ソルファ」
初めて、ちゃんと名を呼ばれた気がして、反射で顔を上げる。待っていたかのように、上げた顔を彼の掌が捕らえた。
「悪いな、限界だ」
「な、何が」
「嫌なら突き飛ばすなり舌噛むなりしていい。不敬罪には問わない」
ほとんど言い捨てるように言うや、彼はソルファの唇を、自身のそれで塞いだ。
「ッ……!」
思わず目を閉じる。
彼の言った抵抗の手段を、実行できる訳がない。
身分云々は関わりなく、ソルファも、彼と同じ気持ちだったのだから。
(……ごめんね)
脳裏で一言、姉に詫びて、ソルファは彼の背に手を回す。
ソルファの手から落ちた長衣が、折しも吹いた風に飛ばされて、宙に舞った。
【了】脱稿:2018.06.03.
©️和倉 眞吹2018.
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