第五幕 業務日誌
翌朝、ソルファはあくびをかみ殺しながら、鏡を眺めていた。
準側室扱いでも、品階的に尚宮の位置づけである、承恩尚宮の朝は早い。
準側室扱いだから、特に何か仕事をする訳ではないが、起床は卯時の初刻〔午前五時〕だ。
もっとも、捕盗庁の出勤も大差はない。ない、どころか、下手をするともっと早い。武官たちの出勤が、女官の起床時間と同じだから、起きるのはそれより早くないといけない計算である。
それでも、身支度は自分でする必要がないところは、やはり準側室だ。まだどこかぼうっとした自分の顔の周りで、内人たちが忙しく髪型を整えてくれている。
承恩尚宮は、普通の尚宮より若干装いが派手になるから、できれば日中は、内人の格好で動きたい。だが、『チョン・ユクファ』としてここにいる以上、難しい。
それでなくとも、この顔はユクファと瓜二つだ。
今のところ、桂城君以外に、ソルファをユクファと違う人間と認識できる者はいない。それが宮中に入り込んだ狙いでもある訳だが、いざ入り込んでみると、厄介なばかりだ。
聞き込み一つ取っても、慎重に行わなければいけない。
(……面倒くさ)
あふ、と漏れるあくびを、もう一つかみ殺す。
「尚宮様。お支度が整いました」
「うん」
ありがとう、と付け加えそうになって、危うく呑み込む。
承恩尚宮なら、身支度は『して貰って当たり前』なのだ。軽々しく、下の者に礼を言ってはならない、というのはキョンフィの教えである。
(……でも、身分が上でも、下の人にお礼を言えば、却って親しみやすくって、感じもよくなるのにな)
だが、宮中にいる間は、とにかく疑われてはならない。
生え際を撫でつけて、ソルファは気持ちを切り替える。
今日中にやることを脳内で整理し、アンスンを呼んだ。
***
腕全体で円を描くようにして右手を上に重ね、肘を上げる。
左膝から先に床へ突き、続けて右膝を付ける。深々と礼をすると、藍色のチマの裾が、床を滑る。その様は、さながら水面に水滴が落ちた時にできる、波紋のようだ。
礼を終えて、一つ会釈すると、「座るがよい」と促される。
勧めに従い、腰を落としたソルファの前にいるのは、生まれて初めて会う現王妃、ユン・ヒャンスクだ。
「突然呼び出して、すまなかったな。そなたが宮殿へ戻ったと聞いたので、具合はどうかと思って」
「恐れ入ります、王妃様」
三代目の王妃であるヒャンスクは、見るからに優しげな女性だった。
形のよい、小振りの輪郭に、すっきりとした品位のある目鼻立ちは、一見たおやかで気弱そうにも見える。しかし、同時に凛とした気品に溢れていた。
薄桃色の唐衣には、王妃の証として、胸部と肩に、補と呼ばれる龍の意匠の縫い取りが施されている。彼女が身につけている薄緑のチマとの取り合わせは、まるで春の花だ。
それが、彼女の優しげな面立ちには、非常によく似合っていた。
「わたくしも、近い内に伺おうと思っておりました。承恩尚宮程度では、王妃様にお目通り願うのも異例とは思いましたが……」
「構わぬ。あれほどの騒ぎになったのだ。チョン尚宮の毒殺未遂事件は、今や内命婦のすべての者が知っておる。わたくしがそなたの立場であっても、同じようにするであろう。気にすることはない」
「恐れ入ります、王妃様」
その、騒ぎの部分を突っ込んで訊きたい。
そう思ったが、傍には王妃付きの尚宮もいる。親しくもないだろうに、人払いして二人きりで話したい、と言い出すのも、いきなり怪しまれる危険性が高い。
「それで、その後何か変わったことはなかったか?」
「と申されましても、わたくしも昨日戻ったばかりです。今のところは何も……」
「そうか。そうであったな」
鷹揚に頷いた王妃は、花がほころぶように笑った。何も――策謀など、何も感じ取れない、裏表のない笑顔だ。
先代の王妃がどんな女性だったか、ソルファは知らない。少なくとも、聞いた以上のことは何も。
だが、新たな国の母として、目の前にいる女性が選ばれた理由は、何となく分かる気がした。
親しみやすくて、気安く話しかけて、もっともっと何か話していたい。そう思わせる女性だ。
「どうした?」
思わずじっと見つめてしまった視線に気づいたらしい。王妃が首を傾げる。
「あ……あ、いいえ。失礼いたしました。つい……」
「よいのだ。ところでそなたは随分と若いようだが、年はいくつになる?」
「あ……はい。十六にございます」
「何。十六とな」
「はい、王妃様」
「何と若い……まだ見習いだったのではないのか? 何故、殿下のお目に留まった」
「あ……の」
「よい。咎める気はないから、正直なところを聞かせておくれ」
柔らかく、優しい微笑に釣られるように、ソルファは口を開いた。
「それでは、恐れながら申し上げます。わたくしは、桂城君様付きのカン尚宮様の元で、女官としての修行に励んでおりました。ある日、桂城君様の元へ来られた殿下とお会いする機会がありまして」
「なるほど。では、至密の女官見習いだったのだな」
「はい」
至密、というのは、内命婦にいくつかある女官の部署の一つだ。
王族の世話をする部署で、王族の衣装係である針房と並んで人気があるらしい。
「若くして殿下のお側に侍るには、苦労も多かろう。周囲の嫉妬にも耐えねばならぬこともあるやも知れぬ。何か困ったことがあったら力になる故、遠慮なく申すがよい」
「えっ?」
覚えず、瞠目すると、王妃はその柔らかな微笑を困ったように少し崩した。
「そう驚かずともよい。実は……ここだけの話だが、六年前に娘を亡くしたのだ。つつがなく成長しておれば、ちょうど今のそなたくらいの年だ。そう思うと、何やら他人と思えなくてな」
「……恐れ多いことでございます、王妃様」
本気で恐縮して縮こまると、「そう固くならずともよい」と苦笑混じりに声を掛けられる。
「思えば、此度の毒殺未遂事件も、行き過ぎた嫉妬が招いたことであろう。誰の仕業かはまだ分からぬのが、本当にもどかしい。早く、犯人が見つかればよいのだが……」
「あ、あの……王妃様」
「ん?」
「王妃様には、その……犯人のお心当たりはございませんか?」
話題がそちらへ行った時を逃さず言うと、「これ!」と王妃付きの尚宮に咎められてしまう。
「口を慎まぬか!」
「よい、ペン尚宮」
「ですが、王妃様」
「よいのだ。此度の件で、チョン尚宮は死にかけたのだ。誰が自らをそのような目に遭わせたか、突き止めたいのは当然であろう」
そう言われると、ペン尚宮と呼ばれた、四十代半ばの女性は、不承不承といった様子で口を閉じた。
それを確認すると、王妃はソルファに視線を戻す。
「さて。犯人の心当たり、だったな」
「はい」
「残念だが、わたくしにはない。もし、殿下の寵を得ている者の仕業であれば、側室の位にある者全員を疑わねばならぬ」
「ですが、王妃様。側室の方の中には、その……殿下のおいでが久しい者もあるのでは」
「これ!」
またもペン尚宮が口を挟むが、王妃が再度「ペン尚宮」と呼ぶだけで遮る。
「今、もっとも殿下の寵が厚いのは、チョン貴人とオム貴人だが、ホン昭容もまた殿下の覚えがめでたい」
「どういう意味でしょう?」
「桂城君付きでは知らぬのも無理はないが、ホン昭容は、殿下との間に、七男三女、合計十人もお子を産んでいる」
ちなみに、貴人は従一品、昭容は正三品相当で、どちらも側室だ。
「だからと言って、彼女ら三人を疑うに足りる証拠などはない。だが、案ずることはない」
「え?」
「今、一連の事件については、大妃〔皇太后〕様が監察尚宮を動かしてお調べになっている筈だ」
意外な言葉に、ソルファは目を丸くした。
「大妃様が……でございますか? なぜ……」
「内命婦のことなら、殿下よりも大妃様のほうがお詳しい。わたくしも、そなたを含めた四人の承恩尚宮が変死、もしくは変死寸前になった事件は知っておるが、王妃に立ったばかりで、後宮すべてを差配するにはまだ未熟だ。特に、此度の件に関しては、どちらかと言うとわたくしは補佐の一人に過ぎない」
「左様……ですか」
監察尚宮と言えば、全女官の素行を監視したり、働き振りを評価したりする担当の尚宮だと聞いている。
要は、内命婦における捕盗庁のようなものだ。
(なら……なぜ殿下は、捕盗庁に調査の命をお下しになったの?)
内命婦も大妃も、信用していない、ということだろうか。
「どうした? チョン尚宮」
「あ……いいえ、王妃様。何でもございません」
「そうか? 他にも何か、訊きたいことがあれば、いつでも訪ねてくるがよい。そなたは当事者で、被害者なのだから、すべてを知る権利がある。故に、遠慮することはない」
「恐れ入ります、王妃様」
***
このあと茶菓でもどうか、毒などは勿論入っておらぬから、との誘いを丁重に辞退して、ソルファは中宮殿をあとにした。
(側室全員が容疑者か……今ご側室って何人いるのかな)
眉を顰めながら歩いていると、「チョン尚宮」と前方から声が掛かった。
顔を上げると、桂城君が歩いてくるのが目に入る。
「桂城君様」
足を止めると、ソルファは頭を下げた。多分、あとから従ってくる女官たちも同様であっただろう。
「少し、構わぬか。話したいことがあるのだが」
今日も、王子としての正装で現れた桂城君の挙動に合わせて、幅巾の裾が翻る。女官たちの目があるからか、口調がよそ行きだ。
この口調と美貌が相俟ってしまうと、もう完璧に上品な王子様なのだから、始末が悪い。
まったく、この美貌と落差のありすぎるあの毒舌を、できることなら後宮中、いや、王宮殿中に晒してやりたい。王や重臣たちがどんな顔をするか、考えると少しおかしくなる。
「チョン尚宮?」
「いえ、桂城君様。分かりました。では、どちらで」
「そうだな……後苑に行かぬか。東屋で話そう」
「承知いたしました」
俯いたまま答えると、桂城君は踵を返し、先に立って歩き始めた。
それを確認し、頭を上げてソルファも歩みを再開した。
後苑と言えば、昨日ソルファもここへ来たばかりの時、輿から降りた場所に近い。だが、中を見てはいなかった。
そこは、王室の憩いの場だし、宮殿の奥まった場所にあるから、一般人は普通なら生涯見るどころか、足を踏み入れることもないだろう。
遊歩道として整備された道々には、名も知らない花々が咲き乱れており、ソルファは、ここへ来ている目的も忘れて、目を奪われた。
尚宮様、と小さく背後から言われ、足を止めてしまっていたことに気づく。
慌てて前方へ目を戻すと、桂城君の背中は、池のすぐ脇に設えられた東屋へ向かっていた。
小さな建物と表してもおかしくないそこは、四方に壁がきちんとあり、短い階を昇った先に出入り口があった。声を潜めれば、内緒話もできそうだ。
階の手前で足を止めた桂城君は、女官たちに待機と人払いを命じて、先に室内に姿を消した。ソルファも倣うように後を追う。
この時になって、ソルファは桂城君が何か、包みのようなものを携えているのに気づいた。形からすると、書物のようだ。
出入り口前の靴脱ぎ石に靴を脱ぎ、室内へ入る。
中は、本当に小規模な部屋だった。
「普通は、その出入り口も開けて、そこに腰掛けて茶菓子を頂くんだけどな」
先に室内に腰を下ろした桂城君が、素の口調で言う。
「もうすぐ、芙蓉の季節だからな。満開になれば、そこからの眺めは悪くない」
そう言われれば、池には蓮の葉が浮いていたような気がする。
「見頃には多分、わたくしはここにはいないでしょうけど」
皮肉でなく、残念な気持ちで答えながら、桂城君の向かいにソルファも座った。
「それで、お話というのは」
促すと、桂城君もそれ以上前の話題を引きずらなかった。
「お前に言われたことを、朝一で一通り調べて来た」
胡座を掻いた足の前に、人差し指をトンと突く動作を挟んで続ける。
「まず、ユクファの前に被害に遭ったらしい、尚宮たちの被害状況だ。第一の被害者、パク・ダヨン尚宮が死んだのは、三月二十日。年は、二十二歳。三月十五日頃に父上の寝所に召されて、承恩尚宮になってた。次は、四月五日、ポク・イェナ尚宮。年は二十七で、実際に父上の手が着いたのは、今から十年くらい前のことらしい」
「てコトは……やっぱり承恩尚宮になったのは十七の時ってコト?」
「そーゆーこったな。ったく、年甲斐もなく、十代後半から二十歳前後が守備範囲とか……恥ずかしすぎて、自分の父親だと思いたくないぜ」
はあっ、と重い溜息を吐くと、桂城君は話を戻した。
「で、三番目がユクファで、彼女についてはお前も知っての通りだ。そのあと、四番目の被害者、パン・ヨンスンが亡くなったのが六月二日、つまり三日前だな」
「それぞれの被害者の死因や、亡くなった時の状況は、お分かりですか?」
「それなんだが、結構皆口が重くてな」
「皆……というのは」
「その件に関して訊こうとすると、大体女官の反応は二つに割れた。一つは、『ただいま、大妃様がお調べになっています。桂城君様がご心配なさるコトではございません』って、大体満面の笑みのおまけ付きだ。但し、目が全っ然笑ってないけど」
「で、もう一つは」
「しばらく黙ったあと、『お許しください、どうか殺してください』だぜ? まあ、あーいう状況の『殺してくれ』は、身分が上の人間に対するお詫びの常套句だから、本気にすると命乞いが始まるんだろうけど」
「意訳すると、『喋ると殺されるから勘弁してくれ』ですかね」
「多分な」
「黒幕がいるってコトか……でも、誰が何の為に……?」
ソルファは、緩い拳に握った右手を、口元に当てて考え込む。
落ちた視線の先に、不意に冊子が数冊、ぞんざいに置かれた。
「これは?」
どうやら、彼が持っていた包みの中身らしい。その内の一冊を拾い上げて、題字を見る。
「水刺間と内医院からクスネてきた」
「はいぃ??」
あっさり言われて、思わず口を思い切り曲げてしまう。恐らく、外から見たら、四角くなっていただろう。
「ス、水刺間はともかく、内医院からって……やだ、全部業務日誌じゃないですか!」
床に置かれたほうの冊子を、すべて題字が見えるように手を滑らせる。
「何か問題でも?」
「おっ、大アリでしょ!」
「じゃあ、お前が取ってこれると思うか?」
「とっ、取ってって……だって、桂城君様、今『クスネて来た』って仰いましたよね?」
「言ったな」
「つまり、盗んできたってコトなんじゃ」
「俺なら、万が一見つかっても、どうとでも言い逃れできる。けど、同じコトがお前にやれるか?」
途端、ソルファはぐっと口を噤まざるを得なかった。
絶対に無理だ。
承恩尚宮とは言え、所詮、一女官に過ぎない。いや、たとえ側室だったとしても、正攻法では言い逃れも難しい。
「とにかく見てみろよ。被害者が亡くなった日付の記録もある」
言われて、桂城君を睨むように見る。だが、吐息と共に頭を切り替えた。
そもそも、こういう時に利用させて貰う為に、彼を引き入れたのだ。
手にした冊子は、水刺間のものだった。
水刺間は、王室の台所を担う部署で、その業務日誌には、日付と、誰に何をいつ供したかが、詳細に記されている。
「乙卯の年、三月二十日……あ、そう言えば、最初の被害者は、その日のいつ頃亡くなったの?」
「それが、はっきり記されてない」
自身も、診療日誌の一冊を手にした桂城君が、その日付の箇所を開いて、ソルファに示す。
「ここだ」
「えっと……“乙卯年三月二十日、承恩尚宮パク・ダヨン、死去”……え、嘘、これだけ?」
「見ての通りだ」
「嘘……こんな簡単でいいの? 仮にも、殿下の寵愛を受けた女官が亡くなってるのに?」
半ば詰るように言うソルファに、桂城君はまるで頓着しない。
「他の尚宮も同じだぜ、ホラ」
彼は、違う日誌を開いて、該当個所を示す。
「“乙卯年四月五日、承恩尚宮ポク・イェナ、死去”……」
ソルファは、奪うように他の日誌もめくった。
ユクファの亡くなった箇所は、“乙卯年五月二十日、承恩尚宮チョン・ユクファ、服毒。恵民署へ搬送”とだけ記されている。
最後の被害者のパン・ヨンスンのものも、同様の、ひどく簡素な記述だった。
「ちなみに、それぞれが亡くなった前後の調理日誌にも、特に怪しいものは書かれてない。まあ、犯人からしてみりゃ、書かれちゃ困るだろうけどな」
「日誌を書く人がいますよね。その人にどうにかして会えないでしょうか」
「それについちゃ、面白いコトが分かったぜ」
桂城君が、ニヤリと不敵に口角をつり上げる。
「はい?」
「内医院も水刺間も、業務日誌を書く人間は毎日違う。多分、当番制なんだろうな」
「でしょうね。捕盗庁だってそうですもん」
「ところが、だ」
言葉に続けるように、桂城君は、最初の被害者の命日の業務日誌を示した。
「これは、内医院のモンだけどな。この前日、見てみ?」
「……あれ、前日の日誌当番も同じ人だったんですね。キム・ビガン? これって偶然でしょうか」
「偶然な訳あるか。他の日は毎日違う奴が書いてるぜ。仮に、一日置いて同じ奴が書く日があっても、二日連続は絶対にない。でもって、次の被害者の日にちがこれ」
ソルファは、瞠目した。
「嘘、この日もキム・ビガン? じゃあ」
大急ぎで日誌をめくる。ユクファが亡くなった日も、パン・ヨンスンが死んだ日も、記録者は同じ“キム・ビガン”だ。
しかし、水刺間の日誌には、そういった規則性はなかった。
「どういうコト……まさか、内医院にはたまたま同姓同名の人が大勢いるとか」
「気は確かですか、捕盗庁の茶母サンよ」
「いちいち失礼ですね。確認してみただけですー!」
プン、と唇を尖らせたあと、改めて水刺間のほうの日誌を開く。
「でも……じゃあ、水刺間のほうはどう考えたらいいんだろ。日誌を書く人は、四人の承恩尚宮様が亡くなった日でもバラバラ……」
「てコトは、関わってる奴が、水刺間にはいねぇってコトだろ」
「でも、ユクファはお茶に入ってた毒物で亡くなってるんですよ?」
どう考えても、水刺間に関わった者がいるということとしか考えられない。
「……それに、食器も食べ物も、その日の内に処分されてます。大事な証拠品だっていうのに、ちょっとぞんざいですよね。それとも、王宮ってそういうモンなんですか?」
違う、という答えを期待したが、桂城君の答えは無情だった。
「多分、そーゆーモンだと思うぜ。王宮なんて、執政の場だ、とか言ったって、結局は権力の巣窟だからな。身分と権力を併せ持つ者ほど、保身と証拠隠滅に躍起になるモンだろ」
投げるように彼が言った、直後。
「――あの……桂城君様」
外から声が掛かって、名指しされた桂城君は露骨に顔を顰める。
「何だ」
よそ行きの声音で返した彼が、「気が利かねぇな、待機だって言ったのに」と、口の中でボソッと呟いたのを、ソルファは聞き逃さなかった。
「チョン尚宮様もお出ましください。殿下のおなりです」
「殿下?」
目を見開いて、ソルファは思わず桂城君を見る。彼も、大方似たような表情だ。
二人の間には、桂城君が(不法な方法で)持ち出した業務日誌が広げられている。
急いで簡単に片づけると、二人はどちらからともなく立ち上がり、出入り口へ向かった。下手に踏み込まれるよりは、自分から出たほうがいい。
尚宮としての立場上、ソルファは自分が扉を開ける。
先に桂城君が外へ出るのを待って、自分もあとから出た。
階を降りた先に、初めて会う王の姿がある。
顔は勿論見たことがない。だが、纏っている衣服が、誰が王であるかを示していた。
赤地に、王であることを示す龍の補の縫い取りが、誇らしげに胸部と背部、肩先で輝いている。
頭部には翼善冠をかぶり、足には黒い木靴を履いたその男は、悠然と後ろに手を組んで、東屋から出てきた桂城君とソルファを見上げた。面長の顔に、柔和な笑みを浮かぶ。
顎先と頬骨が出たような、角張った輪郭に、細い目元と長い鼻筋、その下には、豊かな髭を蓄えている。
考えてみれば、王は養父と一つしか違わない。
そして王妃は、亡くなった娘が、ソルファと同じ年頃だと言っていた。それを考えると、自身の娘ほどの少女を寝所に召し出すその思考は、ソルファにはやはり嫌悪すべきものでしかない。
必然、顔が歪みそうになる。堪えられたかどうかは、自信がなかった。
懸命に無表情を装いながら、桂城君のあとに続いて階を降りる。
王の手前で足を止めて、会釈するように頭を下げると、王はソルファに先に声をかけた。
「おお、チョン尚宮。そなたが宮殿に戻ったと聞いて、そなたの部屋に行ったのだが」
「……こちらまでご足労いただき、恐縮でございます。殿下」
声音も、自然硬くなってしまう。それを、王がどう取ったかは分からなかった。
(それにしても、息子より先にお手つき女官に声かけるって、何なの?)
俯いているのを幸い、思う様顔を顰めたくなる。しかし、実行したが最後、この場で元通りにならなくなる気がしたので、顔中の筋肉に力を入れて衝動をやり過ごした。
「それで、そなたはここで何をしているのだ。スンよ」
(スン?)
ソルファのことでないのは確かだから、桂城君のことだろうか。
街中では『スギョン』と名乗っていることからすると、『スギョン』は恐らく字だ。ならば、『スン』というのが本名なのだろう。
「……お久しゅうございます。父上」
やはり、絞り出すような声音で、桂城君が答える。まるで、問いの答えにはなっていなかったが。
「うん、久しいな。かれこれ一年も宮殿には顔を出さなかったようだが、元気そうで何よりだ」
「恐れ入ります、父上」
「で? 何をしているのか、と訊いたのだが」
「それは……」
「殿下!」
言いよどんだ桂城君を早々に見兼ねて、ソルファは口を開いた。
「ん?」
「恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」
「何をだ?」
「桂城君様は、わたくしを手伝ってくださっております」
「手伝う? 何を手伝うのだ」
「殿下もご存じの通り、先日わたくしは、茶に毒物を混入されました」
「そうだな。それで、もう身体のほうは大事ないのか」
「恐れ入ります。だいぶ快復したように思います」
「左様か。それはよかった」
うんうん、と頷いた王は、「では、今宵寝所へ参るように」とのたまった。
「もうかれこれ半月もそなたと夜を過ごしておらぬ故な」
「父上!」
激昂したように桂城君が叫ぶ。しかし、あとを引き取ったのは、やはりソルファのほうだった。
「恐れながら、お受け致しかねます」
「何。できぬと申すか」
「はい。確かにこうして宮殿へ戻っては参りましたが、わたくしはやっと動けるようになったばかりでございます。今しばらくは、静養致したく存じます。何卒お察しくださいませ」
ヒリつくような沈黙が落ちる。
「そなたは、何を申しているのか分かっておるのか?」
「はい」
「王の命を拒んだのだぞ。王に刃向かえば、側室……いや、王妃とて無事ではいられぬ。それを、分かっておろうな」
廃位された先の王妃、ユン・ドンフィのことを言っているのは察しがついた。
「はい」
「ならば、今宵寝所へ参るのだ。分かったな」
「では、いっそ死ねとご命じくださいませ」
凛と告げると、その場の空気は完全に凍り付いた。
「……今、なんと申した?」
「今宵、殿下のお側に侍ることは、致しかねます。わたくしの意思を尊重していただけないのでしたら、いっそあの夜に死んでいればようございました」
「チョン尚宮!」
「殿下のご配慮で、わたくしはこうして宮殿へ戻ることができました!」
カッと目を見開いて、王を見据える。表情を取り繕うことは、もはやできなかった。
「なのに、せっかくここまで快復したわたくしを、殿下は今宵すぐにもご寝所へ召そうと仰る。ならば、あのまま死なせていただいても、同じでございました」
涙が滲む。叫び出さないよう、必死で唇を噛み締める。
王も、その辺の頭が空っぽの両班と同じだ。この様子では、先代の王妃に、廃位となるべき非はなかったのかも知れないと勘ぐりたくなる。
政治的手腕など、知ったことではない。話す相手の意思も尊重せずに、何が王だ。どこが、民の父だ。
目をきつく閉じれば、溜まっていた涙が頬を伝った。
一つ深呼吸して、口を開く。
「……殿下。わたくしは、わたくしを害そうとした者を知りたいと存じます。犯人が捕縛され、宮殿がわたくしにとって安住の地となるまで……どうか、わたくしのことは死んだと思し召しください」
返ってきたのは、沈黙だった。目を伏せたままのソルファに、王がどんな顔をしているのかは、分からない。
「桂城君様は、その調査を手伝ってくださっている。それだけにございます」
「……調査なら、余が命じて行わせている。そなたが心配することではない」
こんな男に命じられて自分は――捕盗庁は動いているのか。
そう思ったら、衝動的に職務を放棄しそうになる。だが、無理だ。
百歩譲って、被害者が赤の他人ばかりだったら、そうしたかも知れない。
けれど、被害者の中には、ユクファがいた。
自分と同じ顔、同じ声の、言わばもう一人の自分。ここで逃げ出したら、ユクファが誰になぜ殺されたのか、殺されなければならなかったのか、なぜ、ソルファは半身を失わねばならなかったのか、すべてが分からず仕舞いになってしまう。
それに、仮に赤の他人ばかりが被害者であっても、事件を知れば、見ぬ振りはできなかっただろう。
「……では、わたくしは、自分で自分を守ることもできぬのでございますね」
クス、と覚えず漏れた微笑は、嘲りを含んだそれだった。
「何を言う。そなたは余が守っているではないか」
「では、あの夜のコトは?」
「あの夜、とは」
「わたくしが、毒物で倒れた夜のコトでございます。殿下が守ってくださっているのなら、あの夜、わたくしが毒物を口に含むこともありませんでしたでしょうに」
「チョン尚宮……」
王は、唖然とただ名を呼んだ。
「そなたは……本当に、チョン尚宮なのか」
一瞬、ギクリとした。が、平然と、「仰る意味が分かりませんが」と返す。
「当分の間、夜のお召しには応じかねます。参りましょう、桂城君様」
「あ、ああ」
半ば、斬り合うように王と言葉の応酬をするのを、呆然と眺めていた桂城君も、我に返ったのか、ソルファに続く。
「チョン尚宮!」
王の声が、背後から追いかけてきた。けれども、ソルファは無視して歩き続けた。
©️和倉 眞吹2018




