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第五幕 業務日誌

 翌朝、ソルファはあくびをかみ殺しながら、鏡を眺めていた。

 準側室扱いでも、品階的に尚宮サングンの位置づけである、承恩スンウン尚宮の朝は早い。

 準側室扱いだから、特に何か仕事をする訳ではないが、起床は卯時ウシの初刻〔午前五時〕だ。

 もっとも、捕盗庁ポドチョンの出勤も大差はない。ない、どころか、下手をするともっと早い。武官たちの出勤が、女官の起床時間と同じだから、起きるのはそれより早くないといけない計算である。

 それでも、身支度は自分でする必要がないところは、やはり準側室だ。まだどこかぼうっとした自分の顔の周りで、内人ネインたちが忙しく髪型を整えてくれている。

 承恩尚宮は、普通の尚宮より若干装いが派手になるから、できれば日中は、内人の格好で動きたい。だが、『チョン・ユクファ』としてここにいる以上、難しい。

 それでなくとも、この顔はユクファと瓜二つだ。

 今のところ、桂城君キェソングン以外に、ソルファをユクファと違う人間と認識できる者はいない。それが宮中に入り込んだ狙いでもある訳だが、いざ入り込んでみると、厄介なばかりだ。

 聞き込み一つ取っても、慎重に行わなければいけない。

(……面倒くさ)

 あふ、と漏れるあくびを、もう一つかみ殺す。

「尚宮様。お支度が整いました」

「うん」

 ありがとう、と付け加えそうになって、危うく呑み込む。

 承恩尚宮なら、身支度は『して貰って当たり前』なのだ。軽々しく、しもの者に礼を言ってはならない、というのはキョンフィの教えである。

(……でも、身分が上でも、下の人にお礼を言えば、却って親しみやすくって、感じもよくなるのにな)

 だが、宮中にいる間は、とにかく疑われてはならない。

 生え際を撫でつけて、ソルファは気持ちを切り替える。

 今日中にやることを脳内で整理し、アンスンを呼んだ。


***


 腕全体で円を描くようにして右手を上に重ね、肘を上げる。

 左膝から先に床へ突き、続けて右膝を付ける。深々と礼をすると、藍色のチマの裾が、床を滑る。その様は、さながら水面に水滴が落ちた時にできる、波紋のようだ。

 チョルを終えて、一つ会釈すると、「座るがよい」と促される。

 勧めに従い、腰を落としたソルファの前にいるのは、生まれて初めて会う現王妃、ユン・ヒャンスクだ。

「突然呼び出して、すまなかったな。そなたが宮殿へ戻ったと聞いたので、具合はどうかと思って」

「恐れ入ります、王妃様」

 三代目の王妃であるヒャンスクは、見るからに優しげな女性だった。

 形のよい、小振りの輪郭に、すっきりとした品位のある目鼻立ちは、一見たおやかで気弱そうにも見える。しかし、同時に凛とした気品に溢れていた。

 薄桃色の唐衣タンウィには、王妃の証として、胸部と肩に、と呼ばれる龍の意匠の縫い取りが施されている。彼女が身につけている薄緑のチマとの取り合わせは、まるで春の花だ。

 それが、彼女の優しげな面立ちには、非常によく似合っていた。

「わたくしも、近い内に伺おうと思っておりました。承恩尚宮程度では、王妃様にお目通り願うのも異例とは思いましたが……」

「構わぬ。あれほどの騒ぎになったのだ。チョン尚宮の毒殺未遂事件は、今や内命婦ネミョンブのすべての者が知っておる。わたくしがそなたの立場であっても、同じようにするであろう。気にすることはない」

「恐れ入ります、王妃様」

 その、騒ぎの部分を突っ込んで訊きたい。

 そう思ったが、傍には王妃付きの尚宮もいる。親しくもないだろうに、人払いして二人きりで話したい、と言い出すのも、いきなり怪しまれる危険性が高い。

「それで、その後何か変わったことはなかったか?」

「と申されましても、わたくしも昨日戻ったばかりです。今のところは何も……」

「そうか。そうであったな」

 鷹揚に頷いた王妃は、花がほころぶように笑った。何も――策謀など、何も感じ取れない、裏表のない笑顔だ。

 先代の王妃がどんな女性だったか、ソルファは知らない。少なくとも、聞いた以上のことは何も。

 だが、新たな国の母として、目の前にいる女性が選ばれた理由は、何となく分かる気がした。

 親しみやすくて、気安く話しかけて、もっともっと何か話していたい。そう思わせる女性だ。

「どうした?」

 思わずじっと見つめてしまった視線に気づいたらしい。王妃が首を傾げる。

「あ……あ、いいえ。失礼いたしました。つい……」

「よいのだ。ところでそなたは随分と若いようだが、年はいくつになる?」

「あ……はい。十六にございます」

「何。十六とな」

「はい、王妃様」

「何と若い……まだ見習いだったのではないのか? 何故なにゆえ、殿下のお目に留まった」

「あ……の」

「よい。咎める気はないから、正直なところを聞かせておくれ」

 柔らかく、優しい微笑に釣られるように、ソルファは口を開いた。

「それでは、恐れながら申し上げます。わたくしは、桂城君様付きのカン尚宮様の元で、女官としての修行に励んでおりました。ある日、桂城君様の元へ来られた殿下とお会いする機会がありまして」

「なるほど。では、至密チミル女官見習い(センガクシ)だったのだな」

「はい」

 至密、というのは、内命婦にいくつかある女官の部署の一つだ。

 王族の世話をする部署で、王族の衣装係である針房チムバンと並んで人気があるらしい。

「若くして殿下のお側に侍るには、苦労も多かろう。周囲の嫉妬にも耐えねばならぬこともあるやも知れぬ。何か困ったことがあったら力になる故、遠慮なく申すがよい」

「えっ?」

 覚えず、瞠目すると、王妃はその柔らかな微笑を困ったように少し崩した。

「そう驚かずともよい。実は……ここだけの話だが、六年前に娘を亡くしたのだ。つつがなく成長しておれば、ちょうど今のそなたくらいの年だ。そう思うと、何やら他人と思えなくてな」

「……恐れ多いことでございます、王妃様」

 本気で恐縮して縮こまると、「そう固くならずともよい」と苦笑混じりに声を掛けられる。

「思えば、此度こたびの毒殺未遂事件も、行き過ぎた嫉妬が招いたことであろう。誰の仕業かはまだ分からぬのが、本当にもどかしい。早く、犯人が見つかればよいのだが……」

「あ、あの……王妃様」

「ん?」

「王妃様には、その……犯人のお心当たりはございませんか?」

 話題がそちらへ行った時を逃さず言うと、「これ!」と王妃付きの尚宮に咎められてしまう。

「口を慎まぬか!」

「よい、ペン尚宮」

「ですが、王妃様」

「よいのだ。此度の件で、チョン尚宮は死にかけたのだ。誰が自らをそのような目に遭わせたか、突き止めたいのは当然であろう」

 そう言われると、ペン尚宮と呼ばれた、四十代半ばの女性は、不承不承といった様子で口を閉じた。

 それを確認すると、王妃はソルファに視線を戻す。

「さて。犯人の心当たり、だったな」

「はい」

「残念だが、わたくしにはない。もし、殿下の寵を得ている者の仕業であれば、側室の位にある者全員を疑わねばならぬ」

「ですが、王妃様。側室の方の中には、その……殿下のおいでが久しい者もあるのでは」

「これ!」

 またもペン尚宮が口を挟むが、王妃が再度「ペン尚宮」と呼ぶだけで遮る。

「今、もっとも殿下の寵が厚いのは、チョン貴人クィインとオム貴人だが、ホン昭容ソヨンもまた殿下の覚えがめでたい」

「どういう意味でしょう?」

「桂城君付きでは知らぬのも無理はないが、ホン昭容は、殿下との間に、七男三女、合計十人もお子を産んでいる」

 ちなみに、貴人は従一品チョンイルプム、昭容は正三品チョンサムプム相当で、どちらも側室だ。

「だからと言って、彼女ら三人を疑うに足りる証拠などはない。だが、案ずることはない」

「え?」

「今、一連の事件については、大妃テビ〔皇太后〕様が監察カムチャル尚宮を動かしてお調べになっている筈だ」

 意外な言葉に、ソルファは目を丸くした。

「大妃様が……でございますか? なぜ……」

「内命婦のことなら、殿下よりも大妃様のほうがお詳しい。わたくしも、そなたを含めた四人の承恩尚宮が変死、もしくは変死寸前になった事件は知っておるが、王妃に立ったばかりで、後宮すべてを差配するにはまだ未熟だ。特に、此度の件に関しては、どちらかと言うとわたくしは補佐の一人に過ぎない」

「左様……ですか」

 監察尚宮と言えば、全女官の素行を監視したり、働き振りを評価したりする担当の尚宮だと聞いている。

 要は、内命婦における捕盗庁のようなものだ。

(なら……なぜ殿下は、捕盗庁に調査の命をお下しになったの?)

 内命婦も大妃も、信用していない、ということだろうか。

「どうした? チョン尚宮」

「あ……いいえ、王妃様。何でもございません」

「そうか? 他にも何か、訊きたいことがあれば、いつでも訪ねてくるがよい。そなたは当事者で、被害者なのだから、すべてを知る権利がある。故に、遠慮することはない」

「恐れ入ります、王妃様」


***


 このあと茶菓でもどうか、毒などは勿論入っておらぬから、との誘いを丁重に辞退して、ソルファは中宮殿チュングンジョンをあとにした。

(側室全員が容疑者か……今ご側室って何人いるのかな)

 眉をひそめながら歩いていると、「チョン尚宮」と前方から声が掛かった。

 顔を上げると、桂城君が歩いてくるのが目に入る。

「桂城君様」

 足を止めると、ソルファは頭を下げた。多分、あとから従ってくる女官たちも同様であっただろう。

「少し、構わぬか。話したいことがあるのだが」

 今日も、王子としての正装で現れた桂城君の挙動に合わせて、幅巾ポックォンの裾が翻る。女官たちの目があるからか、口調がよそ行きだ。

 この口調と美貌が相俟ってしまうと、もう完璧に上品な王子様なのだから、始末が悪い。

 まったく、この美貌と落差のありすぎるあの毒舌を、できることなら後宮中、いや、王宮殿中に晒してやりたい。王や重臣たちがどんな顔をするか、考えると少しおかしくなる。

「チョン尚宮?」

「いえ、桂城君様。分かりました。では、どちらで」

「そうだな……後苑フウォンに行かぬか。東屋で話そう」

「承知いたしました」

 俯いたまま答えると、桂城君は踵を返し、先に立って歩き始めた。

 それを確認し、頭を上げてソルファも歩みを再開した。


 後苑と言えば、昨日ソルファもここへ来たばかりの時、輿から降りた場所に近い。だが、中を見てはいなかった。

 そこは、王室の憩いの場だし、宮殿の奥まった場所にあるから、一般人は普通なら生涯見るどころか、足を踏み入れることもないだろう。

 遊歩道として整備された道々には、名も知らない花々が咲き乱れており、ソルファは、ここへ来ている目的も忘れて、目を奪われた。

 尚宮様、と小さく背後から言われ、足を止めてしまっていたことに気づく。

 慌てて前方へ目を戻すと、桂城君の背中は、池のすぐ脇に設えられた東屋へ向かっていた。

 小さな建物と表してもおかしくないそこは、四方に壁がきちんとあり、短いきざはしを昇った先に出入り口があった。声を潜めれば、内緒話もできそうだ。

 階の手前で足を止めた桂城君は、女官たちに待機と人払いを命じて、先に室内に姿を消した。ソルファも倣うように後を追う。

 この時になって、ソルファは桂城君が何か、包みのようなものを携えているのに気づいた。形からすると、書物のようだ。

 出入り口前の靴脱ぎ石に靴を脱ぎ、室内へ入る。

 中は、本当に小規模な部屋だった。

「普通は、その出入り口も開けて、そこに腰掛けて茶菓子を頂くんだけどな」

 先に室内に腰を下ろした桂城君が、素の口調で言う。

「もうすぐ、芙蓉の季節だからな。満開になれば、そこからの眺めは悪くない」

 そう言われれば、池には蓮の葉が浮いていたような気がする。

「見頃には多分、わたくしはここにはいないでしょうけど」

 皮肉でなく、残念な気持ちで答えながら、桂城君の向かいにソルファも座った。

「それで、お話というのは」

 促すと、桂城君もそれ以上前の話題を引きずらなかった。

「お前に言われたことを、朝一で一通り調べて来た」

 胡座を掻いた足の前に、人差し指をトンと突く動作を挟んで続ける。

「まず、ユクファの前に被害に遭ったらしい、尚宮たちの被害状況だ。第一の被害者、パク・ダヨン尚宮が死んだのは、三月二十日。年は、二十二歳。三月十五日頃に父上の寝所に召されて、承恩尚宮になってた。次は、四月五日、ポク・イェナ尚宮。年は二十七で、実際に父上の手が着いたのは、今から十年くらい前のことらしい」

「てコトは……やっぱり承恩尚宮になったのは十七の時ってコト?」

「そーゆーこったな。ったく、年甲斐もなく、十代後半から二十歳前後が守備範囲とか……恥ずかしすぎて、自分の父親だと思いたくないぜ」

 はあっ、と重い溜息を吐くと、桂城君は話を戻した。

「で、三番目がユクファで、彼女についてはお前も知っての通りだ。そのあと、四番目の被害者、パン・ヨンスンが亡くなったのが六月二日、つまり三日前だな」

「それぞれの被害者の死因や、亡くなった時の状況は、お分かりですか?」

「それなんだが、結構皆口が重くてな」

「皆……というのは」

「その件に関して訊こうとすると、大体女官の反応は二つに割れた。一つは、『ただいま、大妃様がお調べになっています。桂城君様がご心配なさるコトではございません』って、大体満面の笑みのおまけ付きだ。但し、目が全っ然笑ってないけど」

「で、もう一つは」

「しばらく黙ったあと、『お許しください、どうか殺してください』だぜ? まあ、あーいう状況の『殺してくれ』は、身分が上の人間に対するお詫びの常套句だから、本気にすると命乞いが始まるんだろうけど」

「意訳すると、『喋ると殺されるから勘弁してくれ』ですかね」

「多分な」

「黒幕がいるってコトか……でも、誰が何の為に……?」

 ソルファは、緩い拳に握った右手を、口元に当てて考え込む。

 落ちた視線の先に、不意に冊子が数冊、ぞんざいに置かれた。

「これは?」

 どうやら、彼が持っていた包みの中身らしい。その内の一冊を拾い上げて、題字を見る。

水刺間スラッカン内医院ネイウォンからクスネてきた」

「はいぃ??」

 あっさり言われて、思わず口を思い切り曲げてしまう。恐らく、外から見たら、四角くなっていただろう。

「ス、水刺間はともかく、内医院からって……やだ、全部業務日誌じゃないですか!」

 床に置かれたほうの冊子を、すべて題字が見えるように手を滑らせる。

「何か問題でも?」

「おっ、大アリでしょ!」

「じゃあ、お前が取ってこれると思うか?」

「とっ、取ってって……だって、桂城君様、今『クスネて来た』って仰いましたよね?」

「言ったな」

「つまり、盗んできたってコトなんじゃ」

「俺なら、万が一見つかっても、どうとでも言い逃れできる。けど、同じコトがお前にやれるか?」

 途端、ソルファはぐっと口を噤まざるを得なかった。

 絶対に無理だ。

 承恩尚宮とは言え、所詮、一女官に過ぎない。いや、たとえ側室だったとしても、正攻法では言い逃れも難しい。

「とにかく見てみろよ。被害者が亡くなった日付の記録もある」

 言われて、桂城君を睨むように見る。だが、吐息と共に頭を切り替えた。

 そもそも、こういう時に利用させて貰う為に、彼を引き入れたのだ。

 手にした冊子は、水刺間のものだった。

 水刺間は、王室の台所を担う部署で、その業務日誌には、日付と、誰に何をいつ供したかが、詳細に記されている。

乙卯ウリョの年、三月二十日……あ、そう言えば、最初の被害者は、その日のいつ頃亡くなったの?」

「それが、はっきり記されてない」

 自身も、診療日誌の一冊を手にした桂城君が、その日付の箇所を開いて、ソルファに示す。

「ここだ」

「えっと……“乙卯年三月二十日、承恩尚宮パク・ダヨン、死去”……え、嘘、これだけ?」

「見ての通りだ」

「嘘……こんな簡単でいいの? 仮にも、殿下の寵愛を受けた女官が亡くなってるのに?」

 半ば詰るように言うソルファに、桂城君はまるで頓着しない。

「他の尚宮も同じだぜ、ホラ」

 彼は、違う日誌を開いて、該当個所を示す。

「“乙卯年四月五日、承恩尚宮ポク・イェナ、死去”……」

 ソルファは、奪うように他の日誌もめくった。

 ユクファの亡くなった箇所は、“乙卯年五月二十日、承恩尚宮チョン・ユクファ、服毒。恵民署へ搬送”とだけ記されている。

 最後の被害者のパン・ヨンスンのものも、同様の、ひどく簡素な記述だった。

「ちなみに、それぞれが亡くなった前後の調理日誌にも、特に怪しいものは書かれてない。まあ、犯人からしてみりゃ、書かれちゃ困るだろうけどな」

「日誌を書く人がいますよね。その人にどうにかして会えないでしょうか」

「それについちゃ、面白いコトが分かったぜ」

 桂城君が、ニヤリと不敵に口角をつり上げる。

「はい?」

「内医院も水刺間も、業務日誌を書く人間は毎日違う。多分、当番制なんだろうな」

「でしょうね。捕盗庁だってそうですもん」

「ところが、だ」

 言葉に続けるように、桂城君は、最初の被害者の命日の業務日誌を示した。

「これは、内医院のモンだけどな。この前日、見てみ?」

「……あれ、前日の日誌当番も同じ人だったんですね。キム・ビガン? これって偶然でしょうか」

「偶然な訳あるか。他の日は毎日違う奴が書いてるぜ。仮に、一日置いて同じ奴が書く日があっても、二日連続は絶対にない。でもって、次の被害者の日にちがこれ」

 ソルファは、瞠目した。

「嘘、この日もキム・ビガン? じゃあ」

 大急ぎで日誌をめくる。ユクファが亡くなった日も、パン・ヨンスンが死んだ日も、記録者は同じ“キム・ビガン”だ。

 しかし、水刺間の日誌には、そういった規則性はなかった。

「どういうコト……まさか、内医院にはたまたま同姓同名の人が大勢いるとか」

「気は確かですか、捕盗庁の茶母サンよ」

「いちいち失礼ですね。確認してみただけですー!」

 プン、と唇を尖らせたあと、改めて水刺間のほうの日誌を開く。

「でも……じゃあ、水刺間のほうはどう考えたらいいんだろ。日誌を書く人は、四人の承恩尚宮様が亡くなった日でもバラバラ……」

「てコトは、関わってる奴が、水刺間にはいねぇってコトだろ」

「でも、ユクファはお茶に入ってた毒物で亡くなってるんですよ?」

 どう考えても、水刺間に関わった者がいるということとしか考えられない。

「……それに、食器も食べ物も、その日の内に処分されてます。大事な証拠品だっていうのに、ちょっとぞんざいですよね。それとも、王宮ってそういうモンなんですか?」

 違う、という答えを期待したが、桂城君の答えは無情だった。

「多分、そーゆーモンだと思うぜ。王宮なんて、執政の場だ、とか言ったって、結局は権力の巣窟だからな。身分と権力を併せ持つ者ほど、保身と証拠隠滅に躍起になるモンだろ」

 投げるように彼が言った、直後。

「――あの……桂城君様」

 外から声が掛かって、名指しされた桂城君は露骨に顔をしかめる。

「何だ」

 よそ行きの声音で返した彼が、「気が利かねぇな、待機だって言ったのに」と、口の中でボソッと呟いたのを、ソルファは聞き逃さなかった。

「チョン尚宮様もお出ましください。殿下のおなりです」

「殿下?」

 目を見開いて、ソルファは思わず桂城君を見る。彼も、大方似たような表情だ。

 二人の間には、桂城君が(不法な方法で)持ち出した業務日誌が広げられている。

 急いで簡単に片づけると、二人はどちらからともなく立ち上がり、出入り口へ向かった。下手に踏み込まれるよりは、自分から出たほうがいい。

 尚宮としての立場上、ソルファは自分が扉を開ける。

 先に桂城君が外へ出るのを待って、自分もあとから出た。

 階を降りた先に、初めて会う王の姿がある。

 顔は勿論見たことがない。だが、纏っている衣服が、誰が王であるかを示していた。

 赤地に、王であることを示す龍のの縫い取りが、誇らしげに胸部と背部、肩先で輝いている。

 頭部には翼善冠イクソングァンをかぶり、足には黒い木靴モッカを履いたその男は、悠然と後ろに手を組んで、東屋から出てきた桂城君とソルファを見上げた。面長の顔に、柔和な笑みを浮かぶ。

 顎先と頬骨が出たような、角張った輪郭に、細い目元と長い鼻筋、その下には、豊かな髭を蓄えている。

 考えてみれば、王は養父ちちと一つしか違わない。

 そして王妃は、亡くなった娘が、ソルファと同じ年頃だと言っていた。それを考えると、自身の娘ほどの少女を寝所に召し出すその思考は、ソルファにはやはり嫌悪すべきものでしかない。

 必然、顔が歪みそうになる。堪えられたかどうかは、自信がなかった。

 懸命に無表情を装いながら、桂城君キェソングンのあとに続いてきざはしを降りる。

 王の手前で足を止めて、会釈するように頭を下げると、王はソルファに先に声をかけた。

「おお、チョン尚宮。そなたが宮殿に戻ったと聞いて、そなたの部屋に行ったのだが」

「……こちらまでご足労いただき、恐縮でございます。殿下」

 声音も、自然硬くなってしまう。それを、王がどう取ったかは分からなかった。

(それにしても、息子より先にお手つき女官に声かけるって、何なの?)

 俯いているのを幸い、思う様顔を顰めたくなる。しかし、実行したが最後、この場で元通りにならなくなる気がしたので、顔中の筋肉に力を入れて衝動をやり過ごした。

「それで、そなたはここで何をしているのだ。スンよ」

(スン?)

 ソルファのことでないのは確かだから、桂城君のことだろうか。

 街中では『スギョン』と名乗っていることからすると、『スギョン』は恐らくあさなだ。ならば、『スン』というのが本名いみななのだろう。

「……お久しゅうございます。父上」

 やはり、絞り出すような声音で、桂城君が答える。まるで、問いの答えにはなっていなかったが。

「うん、久しいな。かれこれ一年も宮殿には顔を出さなかったようだが、元気そうで何よりだ」

「恐れ入ります、父上」

「で? 何をしているのか、と訊いたのだが」

「それは……」

「殿下!」

 言いよどんだ桂城君を早々に見兼ねて、ソルファは口を開いた。

「ん?」

「恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」

「何をだ?」

「桂城君様は、わたくしを手伝ってくださっております」

「手伝う? 何を手伝うのだ」

「殿下もご存じの通り、先日わたくしは、茶に毒物を混入されました」

「そうだな。それで、もう身体のほうは大事ないのか」

「恐れ入ります。だいぶ快復したように思います」

「左様か。それはよかった」

 うんうん、と頷いた王は、「では、今宵寝所へ参るように」とのたまった。

「もうかれこれ半月もそなたと夜を過ごしておらぬ故な」

「父上!」

 激昂したように桂城君が叫ぶ。しかし、あとを引き取ったのは、やはりソルファのほうだった。

「恐れながら、お受け致しかねます」

「何。できぬと申すか」

「はい。確かにこうして宮殿へ戻っては参りましたが、わたくしはやっと動けるようになったばかりでございます。今しばらくは、静養致したく存じます。何卒お察しくださいませ」

 ヒリつくような沈黙が落ちる。

「そなたは、何を申しているのか分かっておるのか?」

「はい」

「王の命を拒んだのだぞ。王に刃向かえば、側室……いや、王妃とて無事ではいられぬ。それを、分かっておろうな」

 廃位された先の王妃、ユン・ドンフィのことを言っているのは察しがついた。

「はい」

「ならば、今宵寝所へ参るのだ。分かったな」

「では、いっそ死ねとご命じくださいませ」

 凛と告げると、その場の空気は完全に凍り付いた。

「……今、なんと申した?」

「今宵、殿下のお側に侍ることは、致しかねます。わたくしの意思を尊重していただけないのでしたら、いっそあの夜に死んでいればようございました」

「チョン尚宮!」

「殿下のご配慮で、わたくしはこうして宮殿へ戻ることができました!」

 カッと目を見開いて、王を見据える。表情を取り繕うことは、もはやできなかった。

「なのに、せっかくここまで快復したわたくしを、殿下は今宵すぐにもご寝所へ召そうと仰る。ならば、あのまま死なせていただいても、同じでございました」

 涙が滲む。叫び出さないよう、必死で唇を噛み締める。

 王も、その辺の頭が空っぽの両班ヤンバンと同じだ。この様子では、先代の王妃に、廃位となるべき非はなかったのかも知れないと勘ぐりたくなる。

 政治的手腕など、知ったことではない。話す相手の意思も尊重せずに、何が王だ。どこが、民の父だ。

 目をきつく閉じれば、溜まっていた涙が頬を伝った。

 一つ深呼吸して、口を開く。

「……殿下。わたくしは、わたくしを害そうとした者を知りたいと存じます。犯人が捕縛され、宮殿がわたくしにとって安住の地となるまで……どうか、わたくしのことは死んだと思し召しください」

 返ってきたのは、沈黙だった。目を伏せたままのソルファに、王がどんな顔をしているのかは、分からない。

「桂城君様は、その調査を手伝ってくださっている。それだけにございます」

「……調査なら、余が命じて行わせている。そなたが心配することではない」

 こんな男に命じられて自分は――捕盗庁ポドチョンは動いているのか。

 そう思ったら、衝動的に職務を放棄しそうになる。だが、無理だ。

 百歩譲って、被害者が赤の他人ばかりだったら、そうしたかも知れない。

 けれど、被害者の中には、ユクファがいた。

 自分と同じ顔、同じ声の、言わばもう一人の自分。ここで逃げ出したら、ユクファが誰になぜ殺されたのか、殺されなければならなかったのか、なぜ、ソルファは半身を失わねばならなかったのか、すべてが分からず仕舞いになってしまう。

 それに、仮に赤の他人ばかりが被害者であっても、事件を知れば、見ぬ振りはできなかっただろう。

「……では、わたくしは、自分で自分を守ることもできぬのでございますね」

 クス、と覚えず漏れた微笑は、嘲りを含んだそれだった。

「何を言う。そなたは余が守っているではないか」

「では、あの夜のコトは?」

「あの夜、とは」

「わたくしが、毒物で倒れた夜のコトでございます。殿下が守ってくださっているのなら、あの夜、わたくしが毒物を口に含むこともありませんでしたでしょうに」

「チョン尚宮……」

 王は、唖然とただ名を呼んだ。

「そなたは……本当に、チョン尚宮なのか」

 一瞬、ギクリとした。が、平然と、「仰る意味が分かりませんが」と返す。

「当分の間、夜のお召しには応じかねます。参りましょう、桂城君様」

「あ、ああ」

 半ば、斬り合うように王と言葉の応酬をするのを、呆然と眺めていた桂城君も、我に返ったのか、ソルファに続く。

「チョン尚宮!」

 王の声が、背後から追いかけてきた。けれども、ソルファは無視して歩き続けた。


©️和倉 眞吹2018

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