第四幕 思わぬ再会
カタン、と小さく音を立てて、折り戸が上に畳まれていく。
見え始めたのは、初めて見る石畳だ。
輿の持ち手の間に伸びた手が、そっと地面へ靴を置く。濃い桃色の地に、赤系の花の縫い取りがあり、爪先は黒か濃紺か判断できない色合いだ。
ソルファは、それに足を入れて、身を屈め、立ち上がる。
身に着けた、深紅の地の唐衣には、銀糸で小さな花の意匠の刺繍が踊っている。藍色のチマの裾が、優しく吹いた風に煽られ、はためいた。チマの裾にも、同じく銀糸で刺繍が施されている。
三つ編みを頭に巻き、更に鬘を継ぎ足し、髪の分け目の上に当たる部分には、濃い紅色の髪留めが付けられていた。
まだ嫁入り前なのに、と兄にはからかわれ、初めて会う実父には嘆かれた(ユクファとして宮中に出向く以上、生家へ一度帰らなければならず、生まれてから初めて実父に会ったのだ)。養父は、言うに及ばずだったが、本当に宮中入りするのではないのだから、とソルファ自身は割り切っている。
輿を降りたのは、景福宮の後宮にほど近い、後苑付近だった。後苑というのは、王宮内の庭園のようなもので、正殿である勤政殿を正面とすると、敷地の後ろのほうにあった。
「――お帰りなさいませ、チョン尚宮様」
「お帰りなさいませ」
先頭に立って言った尚宮に倣うように、出迎えた内人たちも斉唱する。
ソルファは、目を伏せて、軽く深呼吸した。今の自分は、もう『チョン・ユクファ』だ。しかも、尚宮の地位の。
「……長く宮を空けて済まない。留守中、変わったことはなかったか」
尚宮としての話し方、立ち居振る舞いは、修得するのに結局十日ほどかかってしまった。
十日前に迎えに来た内官のチェ・ミョンソクに、尚宮として振る舞えるかと訊ねられて、ハタと思考が停止した瞬間は、ちょっと忘れられない。
急遽、カン・ギョンフィ尚宮に指導を仰ぎ、彼女の実家で、にわか尚宮として、みっちりと仕込まれた。
そうして十日後、彼女のとりあえずのお墨付きを貰って、ソルファはこの後宮へ足を踏み入れたのだ。
「いえ、それが……」
言いよどむように口を開いたのは、アン・アンスン尚宮だ。年の頃は、四十前後だろうか。
小振りの輪郭の中に、小さな目と、比較的形のよい鼻筋と唇が、品よく配置されている。華やかではないが、端正な顔立ちと言っていい。
今回、ソルファが後宮へ潜り込む事情上、ミョンソク以外にどうしてもあと一人、女官の協力者を探さざるを得なかった。そこで、ミョンソクが白羽の矢を立てたのが、ユクファが承恩尚宮となった時に、お付きの筆頭尚宮になった、アンスンだった。
「……こちらではなんです。とにかく、お部屋へ」
ソルファは、頷いてアンスンに続いた。
***
案内されたのは、尚宮たちが寝泊まりする部屋が集まった建物だった。
承恩尚宮となれば、側室に準ずる扱いを受けると聞いていたので、てっきり個人の宮があるのだと思っていたが、どうやら違うらしい。
しかし、室内は、個人の宮と言っても差し支えないような、広々としたものだった。もっとも、今まで下級両班の姫として、小さな屋敷で暮らしていたから、そう思うだけかも知れない。だが、少なくとも、今ソルファが自宅で使用している自室の六倍はある。
ちなみに、ソルファの自室は、三間〔五・四メートル〕四方ほどだ。
アンスンが頭を下げる横を通り過ぎ、奥に用意された、小振りの布団ほどの大きさの座布団へ腰を落とす。山をかたどったような意匠の背もたれと、四方枕〔脇息のようなもの〕を一緒に使う仕様のもので、ソルファはこの先の人生で使う機会はなさそうだ。
「何があったんですか?」
人の目がなくなったことで、口調を普段のものに戻すと、アンスンは、立てた人差し指を唇に当てた。
「個室であっても、誰が聞き耳を立てているか分かりません。宮中におられる間は、くれぐれもお言葉遣いには、お気を付けくださいませ」
「あ……」
言われて、反射で掌で口を押さえる。
「……済まない。それで、何かあったのか」
改めて訊くと、頷いたアンスンは、「実は」とひそめた声で切り出した。
「チョン尚宮様が療養中に、新たにお二人、承恩尚宮様が召されたのですが」
嫉妬など、特に感じない。ソルファは、王に会ったこともないのだから。
ただ、呆れた。
確か、現国王は、齢三十七だったか。それで、ソルファと同い年のユクファを承恩尚宮にするだけでも、正直、好色おやじとしか思えない。
初めてキョンフィに会った時、先代王妃、ユン・ドンフィが廃位になった理由の一つが、他の側室たちに対する嫉妬だとは聞いている。しかし、こんなに次から次へと新しい女官に手を着けていくのでは、嫉妬するなというほうが無理難題というものだろう。いくら自身が正妃だからといっても、限度がある。
眉をひそめるソルファの内心には気づかず、アンスンは続けた。
「つい二日前、その内の一人、パン尚宮様が、急死されまして」
「……何ですって?」
ソルファは、現実に眉根を寄せる。
「……ちょっと待って。亡くなったそのパン尚宮様は、最近、承恩尚宮になられたの?」
「尚宮様」
お言葉遣い、とでも言うように、アンスンが再度唇を示す。
ソルファは、首を縮めて、言葉を改めながら、「で、どうなのだ」と水を向けた。
「はい。チョン尚宮様がご療養中に召されたのは、パン・ヨンスン尚宮様と、もうお一方、チャン・ドクヨン尚宮様です」
「どうして亡くなったのだ。死因は?」
「大体は明らかになりません。というより、宮中には知らされないのです。ただ、ご遺体がご家族の元へ戻されるだけで……チョン尚宮様の場合、たまたま殿下の御前だったもので、例外的に殿下のご命令で王宮の外へ運び出された次第で。診察結果などまで宮中に知れ渡るのは、稀な例でしょう」
(……どういうこと?)
ユクファから数えて、二人目の被害者が出た。彼女も、承恩尚宮になったばかりだったという。
(これって偶然?)
自問したそばから、いや違う、と否定する自分がいる。明確な根拠はない。
ただ、ユクファも承恩尚宮になったばかり、パン・ヨンスンも同じく承恩尚宮になったばかり。王の寝所に新しく召された女官が続けて二人、しかも半月という短い間に変死しているという事実を、捕盗庁の茶母としての経験則が、どうしても偶然で片づけることを拒否した。
「アン尚宮」
「はい、尚宮様」
「一つ訊くが、承恩尚宮となってすぐにおかしなことがあったのは、わたくしが初めてであったか?」
すると、アンスンは分かり易く、困ったように眉根を寄せる。
「話してくれ。知る必要があるのだ」
アンスンは、尚も迷うように、伏せた瞼の下で視線を泳がせていたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「ここだけのお話にしておいてくださいますか」
「無論だ」
「……お察しの通りです。チョン尚宮様の前に、ポク・イェナ尚宮様が亡くなられました。ポク尚宮様は、長らく承恩尚宮でいらした方なのですが、先頃ご懐妊なされて……」
「ご懐妊? では、側室に上がられていたのでは?」
「間もなく、淑媛として、宣旨を賜る筈でした」
淑媛とは、側室の位の中では最下位だが、尚宮のすぐ上の品階、従四品に当たる。
「ですが、その前に、急に亡くなられて……」
「それは、わたくしが倒れる何日前のことだ」
「四月五日でしたから、一ヶ月半前のことです」
「一ヶ月半……」
ユクファからパン・ヨンスンが亡くなるまでの間と比べると、若干開きすぎの感はある。
「他には」
「……その前に、……確か、三月の終わり頃、パク・ダヨン尚宮様が亡くなられました。やはり、お元気でいらしたのに急に……彼女は、数日前に、殿下の寝所へ召されたばかりでした」
「彼女が亡くなった、正確な日付は?」
「……申し訳ございません。パク尚宮様が初めの死者だったもので、あまり重要と思わず……」
「……そうか……」
仮に、三月末だとしたら、次の犠牲者のポク・イェナとはあまり日にちが開いていない。
しかし、三月末だとしても、それから二ヶ月と少しの内に、四人もの変死者が出て、それが全員承恩尚宮だというのは、異常だとしか言い様がなかった。
「パク尚宮様の前には、気になるような死に方をした者はいないのだな」
「はい」
「では、パク尚宮様が亡くなる直前……いや、直前でなくてもいい。その周辺の日にちに、何か王宮で変わったことはなかったか」
すると、アンスンは、先刻よりも更に顔色を暗くした。
「何か、あったのだな」
「それは……」
「……そう言えば、先の王妃様が廃位されたあと、新しい王妃様が立たれたのは、三月の頭であったな」
「尚宮様!」
思わず、と言った声量だった。しかし、室内に響いた声に、アンスンはハッとしたように、「申し訳ございません」と頭を下げる。
「ですが、そのような、恐れ多いお考えはお捨てください。まさか……まさか、王妃様が何かなさったとでも」
「そうは言っていない。判断を下すには、材料が足りなすぎる。もう少し、情報を集めてからでないと何とも言えない。それに……」
言いさしたところで、「チョン尚宮様」と外から声がかかった。
「桂城君様がお見えです」
「桂城君様?」
今日、何度目かで眉根を寄せたソルファに、アンスンが「殿下の王子様です」と説明する。
「それは存じている。二番目の王子様であろう。だが、その王子様が、こちらに何用であろう」
しかし、アンスンはその質問には答えず、ソルファが『いい』とも言わないのに、「お通しせよ」と勝手に返事をしてしまう。
ソルファも、ひとまず立ち上がって、上座を空けた。
桂城君、という名からすると、彼は恐らく側室の子だ。
王室では、王妃から生まれた王子は『大君』、側室から生まれた王子は『君』と呼ばれる。故に、名を聞けば、生母が王妃か側室かが分かるのだ。
余談ながら、王妃が生んだ王女は『公主』、側室が生んだ王女は『翁主』と呼ぶ。
ただ、それにしても、側室にもなっていない“ユクファ”より身分が上、しかも王族であることに変わりはない。上座を空けるのが、礼儀というものだ。
下座に立ち、唐衣の裾下に両手を入れ、頭を会釈するように下げる。
やがて、室内に現れた桂城君の、足だけが視界に入った。
「アン尚宮は、しばし席を外してくれ。私が呼ぶまで、決して誰も入れてはならぬ」
「はい、桂城君様」
(えええっっ!?)
ソルファは、現実に叫びそうになったが、危うくそれを呑み込む。しかし、そうこうする内、アンスンはしずしずと、後ろ向きに二、三歩進み、踵を返してしまった。
(ちょっ、ちょっ、ちょっとちょっと待って、アン尚宮様! 知らない人の前に一人で放り出さないでーっっ!!)
そもそも、そうならない為に、アンスンの助けを頼んだのだ。これでは意味がない。
というか、まさかアンスンは、ソルファを“ユクファ”だと勘違いしてはいないだろうか。
(……まあ、勘違いしても仕方ないけどさー、同じ顔だし同じ声だし)
「……ユクファ」
グルグルと脳裏で思考が渦を巻く内に、桂城君がなぜか傍に迫ってきている。
(……しかも、何か今、名前で呼ばれた?)
自問すると同時に、手を取られた。
「悪い。こんな所まで来たら、お前に迷惑がかかるのは分かってる。でも、どうしても元気な姿を確かめたくて……」
(それに、この砕けた口調に、何よりこの声……)
俯いたまま、瞠目する。しかし、桂城君と思しき人物は、こちらの戸惑いには気づかず、ソルファを抱き締めた。
「あ、の」
「すまない。俺が父上に紹介しなければ、ユクファはこんな目に遭わずに済んだのに……」
「ちょっ、ちょっと待って!」
抑えた声量で言いながら、相手の胸を押す。自然、つい上げた視線の先にあったのは、知った顔だった。
綺麗な、逆卵形の輪郭に、切れ上がった目、通った鼻筋に、薄く引き締まった形のよい唇。それらが、職人の手によって配された、人形のような涼やかな美貌――
初めて会った時に、前髪が隠していた額は、今は幅巾〔儒学者がかぶる頭巾の一種。頭部を覆い、背中に布が垂れる意匠〕をかぶっていることによって、全開になっている。だが、その整いすぎた顔だけは、見間違いようがない。
「う、そ……何で」
「お前……確か、ソル」
「きゃあ、シ――――ッッ!!」
覚えず、相手の口を手で押さえ、空いた手の人差し指を自身の唇に当てる。
相手が落ち着いたのを見計らって、ソルファはそろそろと手を外す。
「……何で、分かったの」
最初から断りを入れているアンスンでさえ、話す内に勘違いしたようなのに。
「そう言えば、あんた、初対面の時も間違わなかったわね。大体皆、区別なんて付かないのに」
「……さっきは俯いてたから、間違えたけどな。顔見れば分かる」
フイ、と、若干傷つくような素早さで離れたスギョン――桂城君は、空いた上座に腰を下ろした。
「ユクファと同じ顔なのに?」
「皆、観察力がねぇだけだろ」
投げるように言って、桂城君は膝に頬杖を突いた。
「それで? 何でお前がここにいるんだよ。ユクファは?」
「こっちのセリフよ。あんた、本当にその……」
「王子なのか、って?」
「だ、だって今だって言葉遣いも何かチンピラみたいだし、初めて会った時だって……そうだ、都事様の息子だって言ったじゃない。アレ、やっぱり嘘なの?」
「今頃確認するなよ。ってゆーか、裏取ってないのか、捕盗庁の茶母サンよ」
「しっ、仕方ないでしょ、あのあと色々忙しくって」
主には、尚宮になりすます修行でだ。
しかし、ソルファの反応には頓着なく、桂城君は目を伏せた。
「まったく血の繋がりがない訳じゃない。ソン都事は、伯父なんだ。母親の姉の嫁ぎ先でな。七歳までそこで育った」
「え? じゃあ、自分の宮を持ってるっていうのは」
「ああ。七歳で『桂城君』の宣旨を受けたから。同時に、正式に宮も下賜されて、そっちに移ったんだ」
「宣旨?」
宣旨を受けたら、どうして宮を賜るのだろう。その繋がりが、王室のことに疎いソルファには、よく分からない。
それを、こちらの表情から敏感に察したらしい。桂城君は、わざとらしい溜息を挟んで口を開いた。
「俺たちは……兄弟を含めての話になるから俺たちって言うけど、王の子だからって、生まれた時にいきなり王子名を付けられる訳じゃない。生まれた時に与えられるのは、本名と字くらいだ。王子としての名は……例えば、俺の場合は『桂城君』って名前だけど、もう少し大きくなってから授かることが多い。王子名を授かるってコトは、王子として任命されて、責任を与えられるってコトなんだよ。大体、冊封の式は十歳前後だけど」
「そう……なんだ」
「で?」
「え?」
「今度はそっちの番だ。ユクファはどうした? 快復したんだろ? 何でお前が宮殿にいるんだ?」
いつの間にか、伏せられていた視線が上がり、ソルファのそれを絡め捕るように捉えている。
鋭く、冷ややかに睨め上げる黒曜石に、視線が吸いついてしまったようで、外すことができない。代わりに、唇を噛みしめた。
「言いたくないのか? それとも、言えないのか?」
「……答える前に、聞かせて」
「何を」
「あんたは……いえ、桂城君様は、ユクファを……姉を、どう思っていらしたのですか?」
細く切れ上がった目元が、かすかに見開く。だが、それは一瞬のことだった。
冷ややか、という表情さえ殺げ落ちてしまったような瞳が、殊更堅く冷えて、ソルファを見据える。
「どうしてお前にそこまで言わなきゃならない」
「桂城君様が、敵か味方か、見極める為です」
その凍える視線を、ソルファはしっかりと捉えて、跳ね返すように見つめた。
どう言われようと、姉の死の真相を暴くことを、諦める訳にはいかない。
「婚約なさっていたということは……愛情があったと思ってよろしいでしょうか」
「当たり前だ」
硬い声音で、間を置かずに断じた彼は、素早く立ち上がり、まるでソルファを敵のように睨む。
「俺付きの女官見習いだったから……だから、父上には断りを入れれば許されると思った。だけど、父上は一目であいつを気に入られて」
そこまでまくし立てた桂城君は、唇を噛んだ。同時に、きつく握り込まれた拳が、小刻みに震える。
「後悔したさ。妻にしたいなんて思わなければ、あいつが父上に会うことはなかった。父上に会わなければ、父上の寝所に召されることだってなかったのに」
「……姉は、亡くなりました」
静かに告げると、桂城君は今度こそ瞠目した。
「……嘘だろ」
「嘘ではございません。そして、姉の死の真相を突き止める為、わたくしはここにおります」
そんな、と呟いた彼は、その場に膝を突く。
ソルファは、なるべく頭を空にするよう努めながら、続けた。
「ご協力くださいますか」
「……何だって?」
ノロノロと上がった端正な顔に、凛と告げ直す。
「いいえ。ご協力ください」
「は?」
呆然としていた表情が、唖然に変わる。しかし、ソルファは構わず畳み掛けた。
「この調査、正直申し上げて、チェ内官様とアン尚宮様だけが協力者では、少々心許ないと思っておりました。王族の方のご協力は、願ってもない僥倖です」
「え、ちょ」
「そもそも、姉が亡くなったのは、恐らく承恩尚宮として召されたことが、少なからず関係しているのです。もし、桂城君様が、姉の死に少しでも責任を感じてくださるのなら……ご助力いただけますよね?」
にっこりと笑ってとどめを刺す。
唖然としたままの桂城君の、整った顔立ちは、今この瞬間は妙に残念なことになっていた。
©️和倉 眞吹2018