第三幕 邂逅
「ユクファ!?」
そんな叫びと共に、不意に肩先を強く後ろへ引かれた所為で、ソルファは、後ろへ二、三歩たたらを踏むように下がった。
必然、背後を振り向いた先には、咄嗟に男女の判別の付かない容姿の人物がいた。
身長は、ソルファより若干高い程度だ。小柄で華奢な体躯が、余計に性別判断を難航させる。
逆卵形の輪郭に、切れ上がった目元と、長すぎず短すぎない鼻筋、薄く引き締まった唇が品よく配された様は、腕のいい職人が、持てる技術の粋を尽くした人形のようだ。
涼やかに整った容貌が、驚いたような表情を浮かべてソルファを見ている。
「え……?」
「あ……す、すまない」
言うなり、相手は、ソルファの肩から手を離した。
「悪かった。あまりにも、その……知っている女人に似ていたものだから」
声質からも、男女の判別は難しかった。
声変わりの来ていない少年のものとも、やや低めの少女のものとも取れる。
薄青い地に、肩先までの袖口と、襟元が濃紺に染められた、丈の長いチョゴリを身に着けている。下に着ている白いチョゴリの袖の前腕部は、布紐で纏め上げられていた。
下半身には白いパジ〔ズボン〕を穿いており、ふくらはぎには、やはり薄い青の布と濃紺の布紐を縛り付けてある。
格好からすると、非番の日の武官のようにも、ゴロツキのようにも見える。
腰に刀を帯びているところを見ると、男性だろうか、とも思うが、ソルファも、仕事内容によっては男装して刀を帯びることもあるので、一概には言えない。
年の頃は、十代半ばだろうか。だとすれば、ソルファとあまり変わらない。
「あの……」
「じゃあ」
何か言い掛けるソルファを無視するように、相手は小さく頭を下げると、ソルファの脇を通り過ぎようとする。
「待って!」
咄嗟に、ソルファは相手の腕を掴んだ。
振り返った相手の目は、またも驚いたように見開かれる。
「あの……今、ユクファって言った?」
「何?」
「ユクファを知っているの?」
相手は、相変わらず唖然とした表情で、しばらくソルファを見ていたが、やがて目を伏せて、顔を背けた。
「……やっぱり、ユクファじゃないんだな」
伏せた瞼から伸びた長い睫毛が、白い頬に陰を落とす。
「やっぱりって、どういう意味?」
「別人なんだろ? 俺を知らないってコトは」
「……そうだけど」
それ以外に、ソルファを『ユクファでない』と断じた理由がありそうだった。こちらが何か言う前に、相手は言ったのだ。
『すまない』と。
『知っている人によく似ていた』と。
一つ吐息を挟んだソルファは、「初めまして」と頭を下げた。
「は?」
唐突な挨拶に、唖然とする相手に構わず、ソルファは続ける。
「あたしは、ウォン・ソルファと言います。あなたの言う、『ユクファ』というのは、承恩尚宮のチョン・ユクファのことだと思って、間違いはない?」
何度か瞬きした相手は、「……そうだが」と答えて、ただソルファを見つめている。
「……ねぇ、ちょっと。こっちが名乗ったんだから、そっちも何か言うことがあるんじゃないの?」
「言うことって?」
訳の分からない苛立ちが、たちまち沸点に達した。
「あんたの名前! それに、ユクファとはどういう知り合い?」
「……答える義務はないと思うが」
「答える義務はない!? それ、本気で言ってるの?」
「じゃあ訊くけど、何で俺があんたに名乗らなきゃいけない?」
「あたしが名乗ったからよ」
すると、相手は切れ長の目を細めた。形のよい目元に縁取られた黒曜石には、呆れたと言わんばかりの色が湛えられている。
「勝手に名乗ったんだろ」
「名乗らなかったら、あんたが何も話してくれそうにないからでしょ」
「だから、どうして俺があんたと話す義務があるんだって訊いてんだよ」
「ユクファはあたしの姉だからよ」
瞬間、相手の顔色が僅かに動いた。
「……姉?」
「そう。双子のね」
「……双子……」
呆然と言ったあと、相手は、さっと周囲に視線を走らせる。そのあと、「来てくれ」と一切の前置きを抜きに、ソルファの二の腕を掴んだ。
「え、ちょっ」
「黙って歩け」
まったく一方的だ。
内心、憤慨するソルファの思考を置き去りに、相手はズンズンと歩を進めた。
***
西大門を出て、市場街に入ると、ソルファを引きずった相手は、市場街にある一軒の店の前で、一度足を止めた。店先に並べられた商品からすると、書物を販売する店だろう。
「ヒョク、いるか?」
店内に声を掛ける間も、相手はソルファの腕を放さなかった。
「おう、ちょっと待ってくれ」
中から応じる声がし、程なくその声の主が出てくる。
顔を見せたのは、がっしりした体型の、これは明らかに男だった。
年の頃は四十代半ば、横長の四角形の角を取ったような輪郭に、小さな目と、(こう言っては失礼だが)つぶれたような鼻と、分厚い唇が配されている。
頭部は、網巾〔鉢巻のような布〕が巻かれ、髪は髷に結い上げられていた。
「おう、スギョンじゃねぇか。どしたい」
「ちょっと母屋借りたいんだけど」
スギョン、と呼ばれた人物が言うと、店の主人らしい男は、ソルファに目を留めた。
「……ウチは妓楼じゃねぇんだがな」
「そんなんじゃねぇよ、ちっと話するだけだ」
呆れたように答えたスギョンの肩先が上下する。
「本当かぁ?」
「ホントだっつの。とにかく、断りは入れたからな」
また一方的に言うと、スギョンはソルファの手を引いたまま、踵を返した。
市場街を外れ、店の裏手に回ると、どうやらそこが母屋らしかった。
「邪魔するぜー」
勝手知ったる他人の家というやつなのだろう。誰にともなく宣言して、スギョンは沓脱石に靴を脱ぐと、母屋に上がり込んだ。
手を捕まれたままのソルファは、慌てて自分も靴を脱ぐ。
「お、お邪魔します」
スギョンの声を聞いたのか、顔を覗かせた女性に、申し訳程度の挨拶をしながら、ソルファは奥の間に引きずられるようにして進んだ。
「――さてと」
部屋に入って扉を閉じると、スギョンはようやくソルファの腕を離した。
「あんたは、ユクファについて何が訊きたい」
「それは、あんたが何を知っているかによるわよ。ユクファとはどういう知り合い?」
「……元・婚約者」
「婚約者?」
鸚鵡返しに言ったソルファは、思わず思い切り眉間に皺を寄せて首を傾げる。
「……てことは、あんた男なの?」
問うなり、スギョンは眉根を寄せた。
「失礼だな、見りゃ分かるだろ」
「分からなかったから訊いたのよ。それに、婚約なんていつから婚約?」
「去年」
「嘘ね」
「はあ?」
スギョンの声は、徐々に不快げに尖っていく。
「何で嘘だなんて決め付けんだよ」
「だって、ユクファは女官だったのよ? いくら、外に住んでる王子様付きだからって、女官は皆、殿下の女でしょ?」
「あ」
「対してあんた、どう高く見積もっても……そうねぇ、下級武官の次男以下って感じだし、女官と婚約どころか恋仲になることだって不可能そうじゃない?」
「……黙って聞いてりゃ、本気で失礼だな、お前」
スギョンは、整いすぎた顔を、不快感全開に歪めた。
「失礼だと思うなら、自己紹介くらいしたら?」
腰に手を当てて、相手の胸先に指を突きつけると、スギョンは一瞬言葉に詰まったようだった。
「……ソン・スギョン。年は十六。父親は、義禁府の都事だ。次男以下ってのは当たってるけど」
「ふうん」
義禁府の都事というと、品階としては従五品相当だ。
品階というのは、最下位の従九品から始まり、正九品、従八品、と上がっていく。最高位・正一品まで、十八段階だが、途中の正三品に、堂上官と堂下官があることを考慮すると、従五品は中の下、といったところだろうか。
「ふうん、じゃねぇよ。そういうお前はどうなんだよ。カッコからすると、お前だって下級両班の姫ってトコじゃねぇの?」
「否定しないわ。養父様は、右捕盗庁の従事官だし」
ソルファは、肩を竦めた。
とは言え、従事官は従六品相当だから、都事と比べてもどっこいどっこいだ。
「それにしたって、嘘つきってんならお前だって嘘つきだろ」
「何がよ」
「確かに顔はよく似てる。けど、ユクファとお前、双子だって割には苗字が違うじゃねぇか」
「こないだも別の人に説明したけどね。あたしだけ養女に出されたのよ。あたしの苗字は養父のモノなの」
「……あ、そう」
気が抜けたように言ったスギョンは、力まで抜けてしまったように、床に腰を落とす。
その挙動を見ながら、ソルファも言葉を探した。
「まあ、婚約者って言葉は話半分に差し引いても、外でたまたま知り合って、許されざる恋でもしてたってトコ?」
「……好きに取れよ」
ふてくされたように答える様に、ソルファはその辺りを追及することは放棄した。この場で確認したいことは、別にある。
「分かった。で? そもそも、何であたしをユクファと間違えて……ああ、違うわね。えっと……間違ってたらごめんなさい。もしかして、ユクファに何があったか、知ってる?」
探るようにスギョンを見ながら言うと、彼は、再度視線を外すようにして目を伏せる。
「……まあ、その……」
間を誤魔化すように、スギョンは前髪を掻き上げた。その様は、無造作なようでいて、妙に優雅に見える。
「静養中だって聞いてたから……寝てなくて平気だったのかって、思って……」
「誰から聞いたの?」
「誰だっていいだろ」
「よくない! 相手は承恩尚宮様なのよ? その療養の情報が、こんな簡単に……両班とは言え、一般に流布するなんて、考えられないんだけど!」
少年は、もう何度目かで息を呑むようにして、唇を噛んだ。しかし、今度は答えない。
沈黙がどのくらいか続いたあと、ソルファは吐息と共に「分かった」と言った。
「なら、あんたは……あんたが、ユクファに毒を盛ったの?」
「そんなこと、するわけないだろ」
「じゃあ、なぜ承恩尚宮様の健康状態を知ってるの? 自然に聞こえて来たんでないのは明らかだから、調べたのよね?」
すると、スギョンは膝を立てて、頬杖を突いた。
「お前に関係ないだろ。あいつの双子の妹だからって、何でそんなに追及したがるんだ」
ソルファの答えは、言葉ではなかった。
捕盗庁の茶母としての身分証を、彼の目の前に下げる。切れ上がった目元が見開かれた。
「……ある方から密命を受けて、尚宮様の食事に毒が混入された件を調べてるの。あんたが、何か関係してるの?」
「してない」
その答えが、嘘か本当か分からない。それ以前に、少年は頑なだった。こちらの欲しい情報を、何一つ漏らそうとしない。
(……出直したほうがよさそう、か)
小さく吐息を漏らして、ソルファは身分証を懐へしまう。
「……連絡先は、この書店でいいの?」
「え?」
「それとも、義禁府のお父様を訪ねる? ソン様でいいの? 都事様で『ソン』姓の方はお一人?」
矢継ぎ早に訊ねるソルファを、スギョンは瞬時見上げる。が、また鈍い動作で、元通り顔を伏せるように、頬杖を突き直した。
三分の一刻〔五分〕ほど辛抱したが、室内に落ちた沈黙は変わらない。
これ以上、何か答える気はない、という意思表示だろう。
この短い間に、ソルファも数え切れないくらい吐いた溜息を、もう一つ漏らし、無言で踵を返す。
扉を開ける前に、チラと視線を投げるが、スギョンももうこちらへ視線を戻すことはなかった。
©️和倉 眞吹2018