第二幕 行動開始
ふと気付くと、ソルファは戸外でぼんやりしていた。
戸外と言っても、遺体安置室のすぐ外だが。
地面へしゃがみ込み、建物の壁にもたれて、空を見上げている。
ひとしきり泣いて、涙が収まった頃、ソルファは誰かに抱えられて安置室の外へ連れ出された。その誰かが誰だったのか、よく思い出せない。
今、室内では、ユクファの検死が行われているのだろう。
頭の中が、白くなってしまっている。空っぽ、というか、ひどい空虚感と言ったほうが、適切だろうか。
はあ、と一つ吐息を漏らして、額を立てた膝に埋める。
顔がまだ熱っぽい。
「ソルファ」
不意に、頭上から声が掛かって、ノロノロと視線を上げた。
目の前には、手拭いがある。
その手拭いを持っている手から腕へと這わせた視線は、最終的に相手の顔で止まった。どこか疲れたような顔をしている、兄だった。
ソルファは、黙って手拭いだけ受け取り、自身の顔に当てる。
ひんやりとしたその温度が、泣きすぎで火照った顔に気持ちいい。
「……ごめんね」
「ん?」
「兄様だって……本当は……」
本当は泣きたいでしょうに。
と言い掛けて、ソルファは口を噤んだ。
そのまま言っては、あまりにも兄をバカにしている気がして、誤魔化すように手拭いに顔を埋める。
兄は、訊き返さなかった。ただ、沈黙を挟んでソルファの横へ腰を落とすのが、気配で分かる。
「……ソルファ」
ふと、探るように兄が口を開いたので、手拭いで顔を覆ったまま「何?」と答えた。
「訊いてもいいか」
「……何を?」
「内官様に言ったコトだ」
「……内官様に?」
「ああ。チョン尚宮様は快方に向かわれてると殿下にお伝えしろ、だなんて……お前……何をするつもりだ」
言われる内に、ソルファは手拭いから顔を浮かせて、目を見開く。
「……兄様」
ガバリと頭を起こし、兄に向き直った。
「ん?」
「内官様はもう帰ってしまった?」
「いや、まだだが……検死の結果を持って、宮殿に戻られるだろうから」
兄が、言い終わるか終わらないかの時、遺体安置室の扉が開く。
内官を先頭に、医官と医女達がぞろぞろと出てきた。
「チェ内官様」
兄は、立ち上がって医官に頭を下げる。ソルファも、兄に倣った。
「結果のほうは」
一瞬、医官に視線を投げた兄は、チェと呼んだ内官に向き直る。
「その場で、茶や茶請けの菓子にも何か入っていないかは、調べたのでな。毒殺だと分かってはいたから、確認程度だ」
「左様ですか……」
「ところで、そのほう」
「え」
チェ内官に視線を向けられて、ソルファは目を瞬いた。
「あたし……いえ、わたくしですか?」
「左様だ。名は、何と申したか」
瞬時、兄を見ると、兄は小さく頷いて見せる。ソルファは、小さく首肯して、チェ内官のほうへ顔を戻した。
姿勢を正し、腹部に手を重ねて、会釈するように頭を少しだけ下げる。
「ウォン・ソルファと申します」
「ここの茶母なのか」
「はい」
しばらく、沈黙が続いた。
俯いているので、チェ内官の反応は分からない。
「……見れば見るほどそっくりだな……」
感嘆したようにそう挟み、チェ内官は続ける。
「チョン尚宮とはどういう関係だ」
「尚宮様は、わたくしの双子の姉でございます」
「双子? なのに、姓が違うのは何故だ」
「故あって、わたくしだけ余所に養女に出されたのです。わたくしの姓は、養父のものでございます」
「左様か……」
再度、先刻と同程度の沈黙を挟み、チェ内官は医官たちに、「そなたたちは、もう仕事に戻れ」と促した。
「本日の検視の結果は、沙汰あるまで当分どこにも口外せぬよう。分かったな」
「はい、チェ内官様」
医官たちが一礼してその場を辞すると、チェ内官はソルファに視線を戻す。
「ソルファと言ったか」
「はい」
「先刻、そなたはわたしに申したな。チョン尚宮の死を伏せるようにと」
「はい」
「チョン尚宮と酷似したその容姿を利用して、何かするつもりか」
一瞬、伏せた目を見開くように動かす。やがて、元通り伏し目になったソルファは、「お察しの通りです」と答えた。
「ソルファ!?」
ギョッとしたように兄が名を呼ぶ。だが、チェ内官が兄を宥めるように「よい」と手を挙げた。
「ですが、内官様」
「この者には、何か考えがあるのであろう。申してみよ」
「――では、僭越ながら申し上げます。わたくしを、チョン・ユクファとして宮中へお連れください」
「何?」
それまで揺れなかったチェ内官の声が、初めて動揺の色を帯びる。だが、ソルファは構わずに続けた。
「チョン尚宮様に毒を盛った者を突き止めよ。これが、王命だと伺いましたが、誠ですか?」
「……誠だ」
「では、もう一つお訊ねします。その王命は、公に発せられたものでしょうか?」
チェ内官は、唇を引き結んだ。
「……やはり、内密の命なのですね」
「……なぜ分かった」
「公に発せられた王命ならば、管轄はこの捕盗庁ではなく、義禁府になる筈だからです」
呻くように、「なるほど」と言ったチェ内官に、ソルファは畳み掛ける。
「宮中で起きたことなら、宮中を調べねばなりません。ですが、密命であれば、大っぴらに捕盗庁が調査に出向くこともできません」
「それは……そうだが、しかし」
「ところで、内官様。事件当時、殿下と尚宮様が飲食したものや食器は、そのまま保管されていますか?」
急に話題が転じたように思ったのだろう。やはり、一瞬の間を置いて、チェ内官は「いや」と首を振った。
「毒が入っていると分かった時点で、食器ごと処分してしまった。誰かが……特に、王族の方々が二度と使用しては危険故」
ソルファは、思い切り舌打ちしたいのを、寸前でどうにか堪えた。
「……では、やはりわたくしが尚宮様になりすまし、宮中へ潜り込みます」
「ソルファ」
兄が、苛立ちと戸惑いをない交ぜにしたような口調で名を呼ぶ。
「何?」
首だけを捻って、兄に視線を返すと、彼はやはり泣き出しそうな表情をしていた。
「何、じゃない。そんなことをして、お前にまで何かあったら」
「何もない、とは言わないけどね。でも、大丈夫よ。ダテに小さい時から兄様にくっついて、事件に首突っ込んでないわ」
「大丈夫なモンか! てゆーか、自慢になるか、そんなコト! それに、単純に身の危険だけのことを言ってるんじゃない。殿下を欺いた罪にでも問われたら……それ以前に、殿下とその……床入りする覚悟はあるのか」
現実問題を指摘されても、ソルファは動じずに肩を竦める。
「体調が戻らないってことで、遠慮していただくわ。捕盗庁の援護がないなら、宮中での調査にだってそんなに時間を掛けられないだろうし……それに、チョン尚宮様を殺した人間が本当に宮中にいるなら……もし、殺した筈の相手がひょっこり戻ってきたら、犯人はどうすると思う?」
兄は、息を呑んだように押し黙る。
右に同じく、目を瞠ったチェ内官に視線を戻し、ソルファは口を開いた。
「当然焦って、もしかしたら思わぬ証拠まで向こうが出してくれる可能性もあります。ですから、わたくしが宮中へ赴くその時まで、殿下以外には『チョン尚宮様の生存』を黙っていてください」
「……分かった。準備にどのくらい時間が要る?」
「準備には、さほど時間は必要ございません。ただ、殿下に『チョン尚宮様が快方に向かわれている』と報告される以上、解毒治療で静養しているというコトで、それらしく間を空けたほうがよろしいかと存じます。そして、殿下にも、『チョン尚宮様の生存』は、伏せていていただけるようにとお願いしてください」
「何故だ」
「簡単にしっぽを出しそうにない犯人には、不意打ちが効果的です。ですが、前もって『チョン尚宮様』がいずれ戻ると分かったら、犯人は見えているしっぽまで隠してしまうでしょう。殿下には特に、真相を知りたいのなら絶対に黙っていてくださるようにと、念を押していただけますか」
ソルファは、ヒタとチェ内官に視線を据える。
チェ内官も、静かな瞳で、ソルファを見つめ返した。何かを探るように、こちらを見据えていた内官は、やがて短く「分かった」と答えた。
***
「失礼いたします。お待ちの方がお見えです」
「お通しして」
数日後、ソルファは、雲従街の甘味処『ミソン』で、ある人物を待っていた。
先日、ユクファが亡くなった日に会ったチェ内官、ことチェ・ミョンソクを通じて、連絡を取って貰った相手だ。
程なく現れた待ち人を、下座に座っていたソルファは立ち上がって迎える。
待ち人は、女性だった。
彼女は、薄桃色の地と、襟、袖口と結い紐は小豆色のチョゴリ、小豆色のチマを身に着けており、それらは絹で仕立てられているのが分かる。
結い上げられたオンジュモリを見れば、既婚女性であることは一目瞭然で、両班の夫人にも見えた。
彼女が上座に腰を下ろすのを目の端で見ながら、ソルファは、女性を案内してきた女給に、小さな巾着を握らせる。
「注文はしばらくいいわ。呼ぶまで決して誰も寄越さないで貰える?」
女給が、巾着を開けた。彼女の目には、高価な指輪や棒簪、房飾りが数種類入っているのが見えた筈だ。
それらをしっかりと確認したのか、女給は神妙な顔で「お任せください」と頷いた。
彼女が扉を閉じるのを見届けると、ソルファは上座に座った女性に向き直り、右手を左手の上に重ねた。肘を上げ、左膝を先に突き、右膝も突いて深々と頭を下げる。
目一杯よそ行きの装いをしてきた深紅のチマが、ソルファの挙動に合わせて衣擦れの音を立て、フワリと美しく広がった。
礼を終えて立ち上がり、腹部に手を当てて小さく頭を下げる。
「座るがよい」
「はい」
女性に従って、ソルファも下座に腰を下ろした。
「……誠、よく似ておる」
女性が、感慨深げに呟く。
「恐れ入ります」
「名は、ウォン・ソルファと言ったか」
「はい、尚宮様」
「ユクファ……いや、チョン尚宮のことは、チェ内官から密かに聞いた。本当に……残念だ」
女性の言葉に、ソルファは眉根を寄せた。あれほど内密にと言ったのに、何と口の軽いことだろう。
すると、こちらの表情に気付いたのか、女性が「チェ内官を責めないでやってくれ」と言った。
「もとより、わたくしは今、王宮殿に勤めてはおらぬ。故に、チェ内官も話してくれたのであろう」
「……尚宮様は、宮殿の外に宮をお持ちの、王子様付きであられるのですよね」
「左様だ」
「ユクファから、カン尚宮様のお話は、時々聞かされておりました。宮中での、お母様のような存在だと……」
「そうだな。たいてい、見習い女官は、幼くは四、五歳で宮中へ上がる。教育係の尚宮と同じ部屋で寝起きする故、自然そうなろう」
「では、宮中でのユクファを……よくご存知なのでしょうか」
「ああ、よく知っている」
鷹揚に頷いた尚宮の、優しげな目が殊更細められた。
「あれは好奇心旺盛で、ちっともじっとしておらず、何でも知りたがる子だった。探検と称しては桂城君様の宮の中を駆け回り、木に登ったり……そうそう、柿を採ろうとして登ったはいいが、降りられなくなったコトがあってな」
「嘘……そんなコトが?」
思わず目が丸くなるのを感じる。
ソルファの知る限り、ユクファはおとなしい少女だ。
「室内で刺繍をしたり、読書をするのが好きなんだとばかり」
「刺繍も不得手ではなかったし、書を読むのも確かに好きであったな。しかし、活発な面もあった。まあ、外を駆け回ると言っても、あくまで桂城君様の宮の庭先だけのことであったが」
昔を懐かしむ顔をしていたカン尚宮、ことカン・ギョンフィは、「それで」と改めてソルファを見た。
「チェ内官から、何かわたくしに話があると聞いた。チョン尚宮の思い出話か?」
「いえ」
小さく首を振って、ソルファも居住まいを正す。
「では、本題に入らせていただきます。カン尚宮様は、ユクファの亡くなった件については、どこまでお聞きですか?」
「そうだな……亡くなったのが五日前であることと、死因が毒殺らしいことくらいしか聞いておらぬが」
「カン尚宮様から見て、ユクファは何か……人に恨まれるようなコトは」
「あり得ぬ」
キョンフィは、即座に首を横に振った。
「あれは、人がよくて優しく清廉潔白で……親代わりの欲目と思って貰っても構わぬが、公平に見ても他人に恨みを買うような娘ではない。何故毒など盛られたのか……」
半ば独白のように言うキョンフィの眉間に、皺が寄る。
「ただ、宮中……特に内命婦〔朝鮮王朝版大奥〕となると、妬みそねみは当たり前だ。殿下の寵愛を受けた承恩尚宮ともなれば、特に内人階級の女官に妬みを買うのは当然かも知れぬ。人柄云々は関係なくな。だが、いくら競争相手とは言え、あろうことか、殿下の御前で毒殺を実行に移すような、無謀な真似をする者がいようとは……」
キョンフィは、立てた膝の上に肘を突き、手を額に当てた。
「では、カン尚宮様には、犯人のお心当たりも、ユクファの殺されるようなお心当たりもないのですね」
「ああ。すまぬな。どうやら役には立てぬようだ」
「いえ……」
ソルファは、小さく首を振った。
「ユクファの亡くなった理由には、まったく進展はありませんでしたが……お会いできてよかったです」
「どういう意味だ?」
「あの子の、意外な話が聞けました」
自然、笑みが浮かんだ。だが、同時に視界が歪む。慌てて俯いたが、そうすることで、却って滴がパタリと音を立ててチマに落ちてしまう。
「ッ……申し訳、ありません、不作法を」
慌てて涙を拭うが、一度涙腺が緩むと、なかなか止まらない。
巾着から手巾を取り出して顔に当てていると、キョンフィは「よい」と鷹揚に言った。
「むしろ……どこか安心した」
「え?」
口元を手巾で押さえながら、目を上げると、キョンフィが柔らかく微笑んでいるのと視線が合う。
「双子の姉を失って間もないというのに、この冷静な仕事振り……もちろん、捕盗庁の茶母という職務から来る責任感故であろうが、何やら薄情なようにも思っていたのだ。だから、そなたの涙するのを見て、少しホッとした。普通の娘らしいところも、ちゃんとあるのだと……」
シュス、と衣擦れの音を立てて、キョンフィが立ち上がり、ソルファの前に腰を落とした。そして、そっとソルファの肩先に手を当てる。
「尚宮様……?」
「わたくしも、そなたに会えてよかった。久し振りに、ユクファと話しているような気分になれた」
「あ、あの……恐れ入ります」
「これから、どうするつもりだ」
優しげな瞳が、どこか凛と、言い逃れを許さない強さで、ソルファを見つめる。
ソルファには、母の記憶はまったくないが、危険なことをしようとする娘を諭す母親とは、こんなものなのだろうか。
「調査とあらば、宮中へも立ち入るのであろう?」
「……はい……」
畳み掛けるキョンフィに、誤魔化すことを早々に放棄する。
「『チョン・ユクファ』として、宮中へ入り込みます」
涙腺を意地で締め、顔を上げた。出てしまった涙を手巾で拭うと、決然とキョンフィを見つめ返す。
ソルファの視線を受け、目を瞬いたキョンフィは、諦めたような苦笑を浮かべた。
「止めても無駄なようだな。やはり、双子だ」
「え?」
「あれもそうだった。こうと決めたら、意地でも曲げぬ。芯が強いと言えば聞こえはいいが、要するに頑固なのだな」
「……はあ」
「分かった。何か困ったことがあれば、いつでも連絡するがよい。わたくしにできることがあれば、力になろう」
「尚宮様?」
突然、何を言い出すのだろう、この女性は。
そう言いたげだったのは、すべて顔に出たと思う。しかし、キョンフィは動じず、退くこともしなかった。
「そなたも申したであろう。ユクファが、わたくしのコトを、宮中での母のようなものだと言っていたと。わたくしも同じだ。今も、あの子を我が子と思っている。遺体も確認しておらぬ故、亡くなったとは未だ信じられぬ思いだが……」
言われると、途端に締めた筈の涙腺が、勝手に緩んだ。
「ソルファ」
「……確かに……あの子はもういないんです」
みっともない涙声で続けながら、手巾ごとチマを握り締める。
「冷たかった……まるで氷のようだった……けど、目の前に遺体があったって、信じられなかった……もしかして、王宮に行ったらまた会えるのかもって……あたし」
「ソルファ」
いたわるように名を呼んだキョンフィは、そっとソルファを抱き寄せた。
優しい温もりに包まれれば、今度こそ涙腺は元通りにならなかった。温かい掌に、宥めるように背中をさすられると、涙腺は余計に刺激されてしまう。
キョンフィの腕の温かさは、見も知らぬ母のもののような錯覚に陥る。ソルファは結局、涙腺が崩壊するまま泣き崩れた。
***
「……本っ当に、お見苦しいものをお見せしました」
涙が収まって落ち着くと、ソルファは恐縮しきりでキョンフィに頭を下げた。
ほとんど土下座の体で、身体を縮められるだけ縮めてしまう。
恥ずかしくて消え去りたいと人が思うのは、こんな時なのだろう。もっとも、今のソルファは、ユクファの無念を晴らすまで、消え去ることはおろか、死ぬこともできないので、何とも言い難い心境だが。
「気にするコトはない。身内を亡くしたのだから、涙を制御できずとも、むしろ当然だ。頭を上げて楽になさい」
「ですが……あの、尚宮様もお仕事があったのでは……」
「構わぬ。少し帰りが遅れたとて、お咎めになる桂城君様ではない」
小さく笑うキョンフィに、ソルファはノロノロと上体を上げた。しかし、まだ顔だけは上げられない。
「あの……桂城君様と仰る方は」
先刻、ユクファとの思い出話にもその名が出てきた。桂城君というのが、ユクファも仕えていた王子なのだろうか。
「ああ。現国王殿下の、二番目の王子様だ。御年、十六であられる」
「十六……」
自分と同い年だ、とぼんやりと思う。
「ただ、ここだけの話、先の王妃様とご生母のハ淑儀様の折り合いがあまりよくなくてな。その関係から、早々に宮殿の外へ出られたのだ。だから、王宮外に宮をお持ちとは言っても、まだご結婚はされておられぬ」
「左様……ですか」
淑儀、というのは、王の側室の位の名だ。品階は、従二品と言い、側室の中では上から四番目の地位である。
「まあ、先の王妃様と折り合いがよくなかったのは、何もハ淑儀様だけには留まらぬが……」
「あの……尚宮様」
「ああ、すまぬ。余計なコトを言ったようだな。忘れてくれ」
「いえ。差し支えなければ、もう少し詳しいところをお話いただけませんか?」
「え?」
ほど近いところであった目は、びっくりしたように瞬いた。
「どういうコトだ?」
「宮中の事情を、できる限り知っておきたいのです。あの……勿論、尚宮様がご存知の範囲で構いません。長いこと本宮においででなかったのなら、ご存じないコトもあるかと思いますので」
「そう……だな」
呆然と呟いたあと、数回瞬きしたキョンフィは、「分かった」と言って居住まいを正した。
***
それから、半辰〔一時間〕ほども話し込んだのち、ソルファはキョンフィとは別に甘味処を出た。
無意識に頬に手を当て、ホッと息を吐く。もうほぼ、泣いたあとの熱は引いたようだ。
手には、長衣〔女性が外出時に頭から羽織る外套〕と、甘味処で売っている菓子を持ち帰りに包んで貰い、持っていた。
場所だけ借りて出るのもなんだったので、帰り際に申し訳程度に購入したものだ。
(……そういえば、ユクファ、甘いものも好きだったなぁ……)
そう思うと自然、また涙がこみ上げてきそうになって、ソルファは慌てて思考に蓋をする。
(危ない)
こんな公衆の面前で泣き崩れたら、始末が悪い。
当分、ユクファのことは極力考えないようにしなくては。
(……って、無理よね。捜査内容は、肝心のユクファのコトなんだから……)
今、この時ほど、捕盗庁の茶母という仕事が辛いと思ったことはない。
これまで、この仕事には、それなりにやりがいを感じていた。
両班・王族主体の法律の所為で、間違っていると分かっているのに処罰できないもどかしさを覚えることも多々あったが、大概は、困っている身分的弱者を助ける為に、仕事をしていたと思っている。
けれど、今回は被害者が身内で、しかも、自分の半身のように思っていた双子の姉だ。
この先、幾度、理性と感情の狭間で折り合いをつけなければならないのだろう。それを思うと、ソルファは若干気が重かった。
しかし、この仕事を降りるつもりもない。
どんなに苦しくとも、自分の手で真実を暴きたいというのも、紛れもない本心だ。
目を伏せ、吐息と共に感傷を閉め出す。嘆くのも泣くのも、あとでいくらでもできる。
思考を切り替え、歩を踏み出したその時。
「――ユクファッ……!!」
という叫びと共に、肩を強く後ろへ引かれた。
©️和倉 眞吹2018