第一幕 欠けた片割れ
「貴様、何をする!」
派手な音と共に、そんな叫びが響き渡り、雲従街〔都の真ん中にある繁華街〕を行き交う人々は、そろって叫びの元へ視線を向けた。
食事処の庭先で、他の客の膳に背中から飛び込んだ男は、どうやら両班〔特権階級〕のようだ。
細面に、細い目元、長い鼻筋と薄い唇を持つ男は、笠を被り、絹の中致莫〔普段着〕を身に纏っている。年の頃は、四十前後だろうか。
「バカ言ってんじゃないわよ、こっちの台詞だわ」
応じたのは、十代半ばに見える、細身の少女だ。
白い上衣の上に、袖のない濃紺のチョゴリと、薄青いチマ〔くるぶし辺りまでの長さがあるスカート〕を身に着けている。うなじの辺りに、三つ編みにした髪を纏め、テンギ〔リボン〕で結い上げていた。
切れ上がった目元に縁取られた、黒目がちの瞳には、相手への軽蔑の丈が込められている。
通った鼻筋の下にある、桜の花弁のような唇が、その匂やかさとはほど遠い、冷え切った声音で続けた。
「きょうびの両班諸氏は、みーんなおめでたい勘違いしてるみたいだけどね。強姦を罰する法律はちゃんとあんのよ」
真っ昼間から、食事処の庭先で、当たり前のように嫌がる女性を組み敷いている男を見るなり、少女――ウォン・ソルファは、その襟首を掴んで放り投げていた。
男が、全力で被害者面するのへ、呆れたように断じながら、パンパン、と小気味よい音を立てて、両手を払うように叩く。
その間に、地面へ倒れた男は、肘だけを突いて上体を半端に起こした。
「何を言っているのだ! 女給ごとき、手を出したとて、責められる謂われはないわ! むしろ、わたしに抱かれることを光栄に思うべきだろう!」
その女給本人はといえば、上に伸し掛かっていた男が投げ飛ばされた直後には、そそくさと店の中に逃げ込んでいる。
しかし、ソルファは別に、被害女性の感謝が欲しかった訳ではないので、構わなかった。
「あたし、あんたみたいな男、この世で一番嫌いなのよね。身分を笠に着てんのか、女をバカにしてんのか、身分が低い女は人間と思ってないのか、はたまた全部なのかは知らないけど。身分が低かろーが女だろーが、自分の意思ってモンがあるのよ。男と同じ人間なの! そこんとこ、理解してる?」
腰に手を当て、立てた人差し指をこれ見よがしに振りながら、手前勝手な理屈をこねる男の鼻先に突きつける。
男は、たちまち真っ赤になった。勿論、怒りでだ。
「ぶっ、無礼な! おい! 捕盗庁の役人を呼んでこい!」
男は、唾を飛ばして喚くと、自身が連れてきた私奴〔個人所有の男の奴隷〕らしき男に命じる。
「は、はい、旦那様」
と一礼して、私奴が踵を返す。ソルファは、「はい、ちょっと失礼」と言いつつチマを絡げ、鮮やかに私奴の足を引っかけた。またしても食事処の庭先に派手な音が上がり、今度は私奴がひっくり返る。
「貴様! 重ね重ね何をする!!」
ようやく立ち上がった男に、ソルファは身分証を掲げた。
掌大の縦に細長い板切れには、ソルファの名と、左捕盗庁に所属する茶母であることが刻まれている。
「見ての通り、一応捕盗庁の茶母なんですけど。何かお困りですか?」
茶母とは、各官庁に属する下働きの女性を指す。
治安維持機関である捕盗庁に属する茶母は、その官庁の性質上、事件捜査に携わることも多い。特に、男女の別の厳しい儒教社会のこの朝鮮では、女性が絡んだ事件となると、どうしても茶母の手が必要になる。
ニヤリ、と不敵に唇の端をつり上げたソルファに、私奴は、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。
しかし、男は怯まない。
「タッ、茶母ごときが捕盗庁を笠に着て偉そうにするんじゃない! 生意気な! 一言訴えれば、お前など捕盗庁から妓楼に移ることになるんだぞ!」
「身分を笠に着て、食事処を妓楼と勘違いしてる愚か者に言われたくないけどね、やりたきゃやればぁ?」
「なっ、何だと!?」
「訴えたいなら、一緒に左捕盗庁まで来たらどう? って言ってるの。妓楼に移る前に、あんたが今ここでしようとしてたこと、一切合切ぶちまけてやるわ。そしたら、非はどちらにあるかは明らかになる筈だもの」
「こっ、のっ……!」
ますます頭に血が上ったらしい男は、正面から掴み掛かってきた。
ソルファは、呆れたように目を細めると、半身になって男を避けながらチマを絡げ、膝を男の鳩尾へ食い込ませる。
短く、みっともない呻きを漏らして、男は地面へ崩れた。
「さっきの今で迂闊に真っ正面から掛かってくるなんて、バカじゃないの?」
ふん、と鼻を鳴らして、崩れた男の両手を、捕縛用の赤い縄で手早く拘束する。
「ちょっと、そこのあんた」
「ヒッ!」
ポカンと口を開けていた、男の私奴に声をかけると、彼はビクリと大仰に身体を震わせた。
怯えきったその様に、ソルファは苦笑する。
「……別に、取って喰いやしないわよ。左捕盗庁までこいつ連れてくの、手伝って欲しいんだけど」
「じょっ、冗談じゃない! あんただって、不告律は知ってるだろ!?」
不告律とは、奴婢が主の(謀反・反逆以外の)犯罪を訴えてはならない、という規定である。もし、それを破れば、奴婢のほうが罰せられるという、何とも理不尽極まりない法律だ。
ソルファは、自然苦笑して、肩を竦めた。
「勿論、知ってるわよ。仮にも捕盗庁の茶母だしね。でも、あんたは訴え出る訳じゃないわ。あたしが伸した荷物を運ぶのを手伝うだけよ。何だったら、あたしに脅されたんだって言ってもいいから」
「で、でも……」
「あ、そう。じゃあ、面倒だから、あんたにも寝て貰っちゃおうかな。ここから左捕盗庁はそんなに遠くないから」
ソルファは、にっこりと笑いながら、ポキポキと指を鳴らした。
笑顔と、胸元で作る拳の、あまりの落差に、私奴はまたも「ヒッ」と言いながら後ずさる。
「今なら選ばせてあげる。気絶か、手伝いか。まあ、気絶でも心配しなくっていいわよ、痛いのは少しの間だから」
心配しなくっていいわけあるか。
そう顔全体で訴えた私奴は、程なく白旗を揚げた。
***
「――ソルファ!」
左捕盗庁へ到着するなり、怒鳴るように名を呼ばれて、ソルファは首を縮めた。
現在、時刻は巳時の正刻〔午前十時〕。
一日の業務は始まったところだし、でも巡察に出る前にはちゃんと捕盗庁へ顔を出したし、他に雷を落とされるようなことをした覚えはない。
といったことを、脳内に巡らせること、およそ数瞬。
程なく視界に現れた声の主は、チョン・ジオンだった。少々事情があり、ソルファとは姓が違うが、腹違いの兄である。
今年、二十三になる彼は、左捕盗庁で譏察軍官〔聞き込みなどの捜査担当。譏校とも言う〕として働く武官だ。
「えええっと、兄様、お疲れ。あの、今日はまだ何もしてないわよ? あのおっちゃんは、強姦未遂の現行犯で」
立て板に水と、何に対する言い訳か分からないそれを並べ立てるソルファに構わず、チオンはいきなりソルファを抱き締めた。
「えっ、ええっ? 兄様?」
何々何、と事態についていけずに混乱する。チオンは、安堵の吐息と共に、「お前は無事だな」と耳元で囁いた。
「……何?」
ソルファは、眉根を寄せる。
チオンの声音が、聞いたことがないほど深刻だったからだ。
「いったい何が」
「ソルファ」
問い返すのを遮るように、チオンが名を呼んだ。
腕の力を緩め、ソルファの二の腕を掴むと、ゆっくりと身体を離して目線を合わせる。
「……兄様?」
「……落ち着いて聞いてくれ」
そういう言い方は、何かあると言っているようなものなのに、なぜ人はこんな時、『落ち着いて聞け』なんて言うんだろう。
そうぼんやりと思いながら、ソルファは兄を見つめ返す。
今日、初めてまともに見たような気がする兄の顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
「……ユクファが……チョン尚宮様が、亡くなられた」
声が、出なかった。
何を言われているのか、分からない。ソルファは、ただ目を瞠った。
「ついさっき……宮殿の内官〔宦官〕が、ご遺体を運んできて……誰が尚宮様に毒を盛ったのか、突き止めよとの王命だと……」
「……嘘……」
ようやく、それだけが口を突く。
それをきっかけにしたかのように、今度は言葉が口から溢れ出た。
「嘘よね、そんなコト」
「ソルファ」
「兄様。冗談でしょ? ユクファが死んだなんて」
「一緒に来てくれ」
そっと肩を抱き抱えられて、ソルファはそれ以上言葉を紡げなくなる。
頭の中は、真っ白だった。
何を考えることもできずに、ただチオンに支えられて足を交互に動かす。雲の上を歩いている心地とは、こういうことを言うのだと、どこか冷静な部分が呟いた。
ついさっきまで、いつもと何も変わらない日常を送っていたのに。
(……ううん。そんな筈ない。聞き間違えたんだ)
ユクファが――姉が死んだなんて、そんなことがある筈がない。
だが、チオンに導かれて行き着いた先は、死亡事件が起きると時折入ることもある、死体安置所だった。
安置所の建物内に併設された、検死を行う為の部屋には、内官一名と医官二名、それに医女数名が立っている。彼らが囲んでいる寝台には、人が横たわっていた。
白いチョゴリとチマを身に着けているところを見ると、明らかに女性だ。
ソルファとそっくりな容貌の女性は、まるでただ眠っているだけのように見える。――胸元が、血でどす黒く汚れてさえいなければ。
「……ソルファ」
気遣うように名を呼んだのは、過去の事件捜査の際に知り合った医女の一人、ソン・ジョンユンだ。
「……何があったの」
呆然と呟くと、チョンユンが「あたしたちにも詳しいコトはまだ……」と申し訳なさそうに言う。
「でも、チョン尚宮様が恵民署へ運ばれて来たのは、未明だったわ」
恵民署とは、民間向けの医療機関だ。
「待ってよ。宮中にだって王族向けの医療機関が……内医院があるじゃない。なのに何で恵民署に?」
「チョン尚宮は、殿下の寵愛を受けた承恩尚宮の地位にはあるが、側室ではないのだ」
ソルファの疑問に答えたのは、初めて会う内官だった。彼が、ユクファを運んできたのだろう。
「よって、チョン尚宮はまだ王族ではない。王族でない女官の地位である以上、宮中で果てることは許されない」
「そんな……ユクファが死ぬって決めつけてたってコト!?」
カッとなって、考えることもなく、言葉が口を突く。
ソルファの問いに対する答えを、誰も持っていなかった。ただ、沈痛な顔つきで、それぞれが俯く。
沈黙が支配する室内で、ソルファは姉の横たわる寝台へ歩を進めた。
「ユクファ……」
姉の顔の横に手を突き、丸みを帯びた輪郭に掌を這わせる。
鏡に映したように、自分と同じ曲線を描いた頬は、信じられないほど冷え切っていた。それが、ソルファに否応なく現実を突きつける。
「何で……こないだまで元気だったのに……」
呆然と言いながら、ユルユルと首を振る。
ユクファと最後に会ったのは、つい先日のことだ。
訳あって、離ればなれに育った双子の姉と再会したのは、十歳の頃だ。その時から、年に一度――自分たちが同時に生を受けた誕生日には、必ず会うのが習慣だった。
普通、見習い女官は、そうそう宮殿の外に出る許可は下りない。だがユクファは、宮殿の外に宮を持っている王子付き尚宮に教育を受けていた為、時折なら、ソルファと会うことができていた。
特に、最低でも、誕生日だけは必ず会おうというのが、双子の間の決めごとだった。
今年も数日前、十六歳の誕生日に顔を合わせたばかりだった。その時には、ユクファは髪型が変わっていた。
それ以前は、三つ編みにした髪をうなじの辺りで纏め上げる、セアンモリという髪型だった。それが、先日会った時には、後ろでひと纏めに三つ編みにした髪を、頭部の輪郭に沿うように巻き付ける、オンジュモリという髪型になっていた。
オンジュモリは通常、既婚女性の髪型だが、宮中では尚宮となった女官がその髪型になる。
急にどうしたのかと訊ねると、承恩尚宮に昇格したのだと話してくれた。
承恩尚宮とは、特別尚宮ともいい、女官が王と床入りすると、その地位に昇る。厳密には尚宮、つまり最高位の女官であって側室ではないが、それに準ずる待遇を受けるのだ。
特に、女官の最下位・内人であれば、尚宮に昇格するまでの十数年を一挙に短縮できる、いわば出世の道筋である。
(……でも、ユクファは……あんまり嬉しそうじゃなかった)
ソルファは、唇を噛みしめた。
そう思ったままを訊くと、ユクファは悲しげに微笑んだだけだった。
「……ユクファは……自殺したの?」
誰にともなく言うと、いや、と兄が口を開く。
「俺もさっき聞いたんだが、どうも毒殺らしい。夜食に出された茶を、殿下と一緒に飲んでいて、急に苦しみだしたんだとか……」
「それでどうして毒殺だなんて決めつけるのよ!」
叩きつけるように叫んで、ソルファは兄を振り返った。
「毒殺……ううん、他殺だなんて、どうして断定できるの? 自分で毒を呷ったかもしれないのに?」
「お前は、自殺であって欲しいか」
兄に、静かに問われて、頭に上った血が、引き潮のように静まるのを感じる。
「……分からない……分からないけど」
「チョン尚宮は、確かに他殺であろう」
ここまでユクファを運んできたという内官が、また口を開いた。
「自害の理由がない。殿下の寵愛を受けて、まさに幸せの絶頂であっただろうからな」
ソルファは、唇を噛むようにして言葉を呑み込んだ。
そんな筈がない。もし、承恩尚宮となったことを幸せと思っていたなら、ユクファがあんなにも悲しげな微笑を浮かべる筈がない。
けれども、それを口にすることは、一歩間違えば王への反逆と取られてもおかしくなかった。
王に寵愛を受ける。それは、女官にとって、この上ない栄誉でなければならないのだ。
その栄誉を、幸せでない、などと思うことは、王への反逆に他ならない。
そして、この国では犯罪、特に王室へ逆らうことは親類が連座の罪に問われる。自分だけならともかく、兄や養父を巻き添えにはできなかった。
「あの……内官様」
「何だ」
ふと、思い付いて顔を上げると、ソルファは言葉を継ぐ。
「王宮へはその……ユクファが……チョン尚宮様が亡くなられたと、すでに報せを?」
「いや、まだだ」
「ならば、王宮へは……いえ、殿下には、尚宮様は快方へ向かっているとお伝えください」
「何?」
「ソルファ?」
兄も、眉根を寄せた。
「いったい、何を考えてる?」
問いただす兄の声は、耳を素通りした。
ノロノロと振り返り、ユクファの寝顔を改めて見下ろす。
彼女が、目を開くことは、もうない。ない、と分かっているのに、実感が沸かなかった。
目の前に横たわる姉の身体は、本当に冷たかった。嫌でも、彼女はもう生きていないと理解できる。
無意識に指先で触れた頬から、再度、冷え切った体温が伝わる。
その瞬間だった。
鼻の奥が、キュウッと締まるように痛んで、視界が霞む。
(嫌だ……ッ!)
唇を食いしばった途端、熱いものが頬を伝った。
(ユクファ……ユクファ)
無言で身をかがめ、もう息をしていない姉に抱きつく。
噛みしめた唇から、嗚咽が漏れる。人の目も、気にならなかった。
彼女に落ちた滴が、氷のように強張った彼女の身体を溶かしてくれないか。抱き締め続けたら、温まって息を吹き返さないだろうか。
愚かな、あり得ないことだと分かっていても、願わずにはいられない。
「起きてよ……ねえ、返事してよ……こんなのって、ない……」
あんまりだ。あんまりだ。
もう、ずっと一緒だと言っていたのに、なのに、どうして――
いつの間にか、室内に二人きりになっていたのにも気付かず、ソルファはユクファの遺体にしがみついて、啜り泣いた。
©️和倉 眞吹2018