序幕
「アン尚宮! アン尚宮はいるか!」
「はい、殿下。御前に」
「急ぎ、御医を呼んで参れ、今すぐにだ!」
「はっ、はいっ!」
頭上で、慌ただしい会話が交わされる。
それを、どこか遠くに聞きながら、ユクファは激しくせき込んでいた。
押さえた胸元とも、胃の腑ともつかぬ場所から、何かがせり上がる。口から吐き出した熱いモノは、明らかに鉄錆びた臭いがした。
目の前は、すでに薄暗い。
いや、最初から、室内の明かりは落ちていたのか。
頭が、朦朧としている。
このまま、死なせてくれればいいのに。
ユクファは、そう願った。
助かりたくなど、ない。
図らずも、王と床を共にさせられた今、恋い慕う相手と一緒になる未来は消えた。これからも、意に添わぬ相手と――それがたとえ国王であっても、身体を重ねなければならないのなら、死んだほうがマシだ。
そこから逃れる為の自害すら、王への反逆として、残された家族が罰せられると厳しく言い渡されている。他ならぬ、王自身から。
ならば、ちょうどいい機会だ。
床へ入る前の茶に、何か苦いモノが混ざっていると分かっていて、敢えて飲み下したのは、予感があったからなのか。
それも、ユクファにはもうどうでもよかった。
(ただ)
心残りは、愛しい妹と兄、そして愛した男性だ。
彼らが、ユクファの死の報せを受けて、どんなに悲しむか。立場を逆にすれば、その悲しみは想像も理解もできる。
けれど、想いの宛のない相手に身体をまさぐられる苦行を思えば、そこから解放される安堵感のほうが、遙かに大きかった。
(ごめんね)
脳裏にまず浮かんだ、妹の幻影に呟く。生まれる前から共にいた、自身と同じ顔を持つ、愛しい片割れ。
ユクファを失う彼女の嘆きは、誰よりも深いだろうことも分かっている。
でも、もう限界だった。
今夜で、王の寝所に侍るのは二度目だったが、ユクファは早くも気が違いそうになっていた。
(申し訳……ございません。桂城君様……)
「ユクファ! しっかりするのだ、今医官が参るぞ!」
恋しい男への別れを邪魔するように、声の主が丸めた身体を抱き起こす。
(放っておいてよ、死ぬ前くらい……)
愛する男性との未来を、永遠に阻んだ存在を、最期に見たモノにしたくない。
相手を突き飛ばすこともできない代わりに、ユクファは、きつく目を閉じた。
©️和倉 眞吹2018