転がる坂の先が見えない
最初は壁だと思った。
それは真っ黒なごわごわとした毛で。
視線を上に向けていくと所々斑に濡れていて。
胸の前に両手で丸いナニカを大事そうに抱えていて。
見上げた口許はぐちゃぐちゃに濡れていて
クチャクチャとナニカを租借する音だけが耳に届いていて。
振り向けば、目の前に熊がいた。
頭の中が真っ白になった。声も出せず、さりとて体を動かす事もできず、ただ熊がその手に持つモノだけを食い入る様に見ているだけだった。
どれだけ見ていたか。それは一瞬だったかもしれないし、長い時間だったのかもしれない。
動いたのはリンだった。アイツもきっと気づいたんだろう。熊が持っているモノを。両手を伸ばしフラフラと熊に近づいていく。
それに気づいた熊は、リンと手に持ったモノを交互に見比べて小首をかしげた後、リンにそれを差し出した。
それはまるで近所のおばちゃんが、「たべる?」と子供におやつを与えるように。
リンは、『スズ』を受け取った。
熊はなぜか「うん、うん」と何度も頷いている。
リンが吠えた。いや、俺が吠えたのか。もうどっちでもいい。この熊野郎をぶちのめして、その膨らんだ腹の中からスズの体を取り返すんだ。リンと視線をかわす。その目は血走って真っ赤に染まっていた。俺は一つ頷き右手のこんぼうを強く、強く握りしめた。
「いくぞリン! スズの敵を取るんだ!」
「……オマエ ガ イケ」
ドンという背中からの衝撃と共に脇腹がひどく熱くなった。
俺はバランスを崩しそのまま熊の前に躍りでて、力の乗らない振り上げたこんぼうを熊の胸に叩きつけた。
”ダメージは0です”
どこからかそんな空耳が聞こえたような気がしたが、次の瞬間には俺は中を舞っていた。体ごと回る視界の中にスズを抱えて走り去るリンの後ろ姿と、地面に落ちている血に汚れた槍の穂先。俺は……刺されたのか? 後ろから、リンに……?
闇に落ちていく意識の中で、最後に浮かんできたのは心配顔のアヤだった。
ごめんよ、アヤ……
……
…………
………………
『……いね?』
『……きなかも?』
『死んだかな?』
『死んじゃったかも?』
『魔法効かなかった?』
『遅かったかも?』
……誰かの話し声がする。俺は生きてるのか?
『動いた?』
『気のせいなの?』
『……寝た振り?』
『確かめてみるなの?』
『どうやって?』
『心臓にナイフを刺したらわかるかもなの?』
『じゃあ早速』
『殺るなの~?』
「待って! 死ぬから。心臓刺されたら死んじゃうから」
微睡んでいたら物騒な話になっていた。慌てて目を開けると、銀髪のちっこい生き物が背中の4枚の翅を世話しなく動かして浮いていた。
『起きた?』
『生きてたなの?』
『あーあ、残念』
『夕飯お肉なしなの?』
「いあいや、なんで助けたのに食べる方向に話がいくのさ」
『ネタ振りは大事』
『ネタ振りは妖精の存在意義なの?』
「君たちが何をいっているのかさっぱりだよ!」
この後延々と中身の無い会話に付き合いながら、どうにか事情を把握することができた。
俺は熊の一撃を受けて吹き飛ばされた後、木の枝にぶら下がっていたらしい。偶々果物を探しにきたこの銀髪の『あ、私は銀じゃなくてアルミなの』……銀髪とアルミ(?)髪の妖精が見つけて、ここ妖精郷に運んで治療をしてくれた、と。これだけの事を聞き出すだけでどれだけの時間が掛かった事か。
ここまで運んだのはあの場じゃ助からないと判断したと、たしかに俺の左腕は肘から先を失う程だったからな。命が有るだけ有りがたいってもんだ。
『骨がぐちゃぐちゃで腐った大根みたい?』
『治すの面倒くさかったから切り取ったなの?』
……うん、命が有るだけ有りがたいってもんだ。ほんとだよ?
十二分に妖精たちの看護を受け、万全に近い体調まで戻った俺は村に戻りたいと告げた。恐らく役立つだろうとアルミ(?)髪の妖精が、その翅の鱗粉をひと纏めくれた。この鱗粉を吸い込めば、他種族の言葉が理解できるようになるとか。何の役に立つかわからんが、くれるというのでもらっておく。そして別れの言葉を交わし、俺は村へと急いだ。
村に着いた俺を迎えたのは、リンの仔を身ごもったアヤだった。
あの日、スズが殺された日からもう、半年が経っているらしい。訳がわからず呆然とする俺に、アヤは淡々と説明をしてくれた。
スズを抱え、傷だらけのリンが村に戻ってきた事。
俺が熊の注意を引き付けて、リンに村へ助けを呼びに走らせた事。
村に残っていた男衆が総出で武器を取り、俺を助けに向かった事。
その全ての男衆が帰って来なかった事。
山の石碑を中心とした熊のテリトリーを立ち入り禁止にした事。
必然的に行方不明の俺を含む、男衆達の捜索ができなくなった事。
村民の激減による対策として、適齢期の男女を強制的に番にすると決まった事。
スズを失ったリンに、俺を失ったアヤがあてがわれた事。
所々に嗚咽をまぜ、涙ながらに語るアヤを俺は、ただじっと聴く事しか出来なかった。ただ、アヤの嗚咽だけがこの空間を占めていた。かける言葉さえでない俺を責めず、泣きじゃくるアヤを見るのが辛かった。逃げ出したかった。語る言葉もなく、手を伸ばそうとした俺を止めたのは良く知った声だった。
「生きてたのか……ノゾム」
「……リン」
言いたいことも、聞きたいことも、沢山あったはずなのに何も言葉にすることができなかった。その目に感情が見えなかった。怒りも、悲しみも、喜びも、嘲りや、怯えも……路傍の石をみるような目で俺を見ていた。……いや俺だけじゃない。傍らで泣きじゃくるアヤを見てもそれは変わらずに、そのまま何事も無いように俺の向かいに座る。お互い黙ったまま、どれ程経ったかリンが重い口を開いた。
「……この村にお前の居場所はないぞ。あの事件の切っ掛けを作ったお前をゆるさぬ村の者は多い。見つからぬ内にさっさと何処へでもいけばいい。村を出たかったのだろう、丁度いいじゃないか」
「でないとお前が扇動するか? あの熊はどうするんだ。スズの仇討ちはほったらかしかッ!!」
「……俺が扇動するまでもない。その様子ではまだ親父さんに会ってないようだな。会えば俺が言っている事がわかるさ。スズの仇か……現実を見ろよ。村総出で討てなかったんだぞ? さらに減った人数でどうやって倒す。お前はそうやって何時も夢ばかりをみて……振り回される回りの者の事を少しは考えろ」
「そう……か。済まなかったな。オヤジに会ったらその足で村をでるよ。だが俺は仇討ちを諦めたりはしないぞ。他の村に掛け合ってでも人を集めれば……」
「そしてその村人も熊に殺させるか? それ以前に俺たちに協力してくれる者が居るわけがないだろ……俺達がなんでこんな辺鄙な場所に隠れる様に住んでいる? 夢ばかり見ていたお前は知ろうともしなかったからな。俺達はな、忌み種なんだよ。隠れる様にじゃない、隠れなきゃ生きていられないからだよ。そんなお前が他の村に顔をだしてみろ。袋叩きにあって殺されるのがオチさ」
「そうだとしても話が通じる奴は必ずいるさ……長居をしたな」
腰をあげ傍らのアヤを見る。アヤなら……俺が生きている事を知ったいまのアヤなら……
「アヤ。いっし「アヤは渡せない」ょに……」
感情の籠らない、だが力強い声でリンが遮る。……アヤも顔を伏せたままでその表情を見ることができない。
「お前はもう死んでいるんだ。死人なんだよ。だから死人が……もう生者を連れていくな。……連れていかないでくれ」
初めて感情が籠ったその言葉は懇願だった。俺は何も言えないままアヤのすすり泣く声を背に自宅へと足を向けた。
家は有った。いや有ったといってもいいものか、屋根は所々落ち、壁は至るところに穴があきそれ以外は見るに耐えない誹謗中傷の文字が埋め尽くすように書かれていた。うち壊された扉を寄せ室内に入るとオヤジが背を向けて座っていた。記憶にある戦士長の大木のような姿はなく、ただ朽ちゆく枯れ木のような老人がいた。
「オヤジ……帰ってきたよ。話したい事がありすぎて何から話したらいいのか……」
「………………」
何も、何も反応がなかった。オヤジの目にはもう何も映らず「……スズ……ノゾム」と俺たち兄弟の名を繰り返し呟いて、手にした……スズのモノだろう骨を撫でているだけだった。オヤジの心も死んでしまったのか。自然と頭が下がった。俺は一体何をしたんだろうか。あぁまた雨が降ってきたな、屋根も穴だらけだから床がぬれちまってるよ。早く止まないかな。
一頻り降り注いだ雨が通りすぎ、家を出た俺を待っていたのは村の衆だった。その目には憎しみがあった。恨みがあった。ただ何もいわずじっと見つめるだけ…… 俺も何もいわず頭を下げる事しかできなかった。暫くして左肩になにかが当たった。俯く視界の中にはいってきたのは小さな石だった。それが呼び水だったのか次々と石が飛んできた。俺にはそれが、嬉しかった。これは逃げだと分かっていても、責めを受ける事で心の何かが軽くなる気がしたからだ。やがて石は途切れ、顔を上げたときには村の衆は誰もいなかった。
俺は村を後にした。
もう帰る事のない故郷。
古武村の臨。
この名ももう名乗る事はできないが、せめてもの情けにこう読み方を変えた名を名乗る事を許して欲しい。
古武臨は今日、正式に死んだ。
これから俺は……
俺の名は……
” コブリン ” だッ!!
妖精はイタズラ好きな、なまものです。