p.16 洞穴
ナーダルの魔法により、二人を襲わんとしていたアルマベアの集団は痕跡を一切残さず姿を消した。妙に静かな湖の中にルーシャとナーダルは取り残されたようだった。水中にいながらも揺蕩う水を感じ、この世界の中に自分たちがいるのだと自覚する。台風一過のごとく湖底に訪れた静寂は心地よくも、どこか異様な雰囲気を漂わせる。
どこまでも透明な世界は青く美しい。湖底の砂塵や岩場も、湖に住む生き物も、何もかもが湖と一体化して美しく感じられる。ルーシャはアルマベアや水草のこともあり、近くを泳ぐ魚ですら襲ってくるのではないかと警戒するが、魚達や岩場に生える草は何も仕掛けてくる気配がない。ナーダルは湖の魔力がアルマベアの凶暴化に加担していたと言っていたが、他にもなにか要素があるのではないかとルーシャは頭をひねる。襲ってくるものとそうでないものを見分けることが出来れば、早めに回避することも出来るだろう。
だが、ルーシャがなにか思いつく前にナーダルがすぐにルーシャのもとへやってくる。
「行こうか」
ルーシャのもとに追いついたナーダルは静かに水中洞窟をのぞき込む。光が差し込まず暗闇に支配されたそこは、中に何がいるのかも検討がつかない。何が襲ってくるのかわからない状況下で、何がいるのかも分からない暗闇に足を踏み入れることは危険な気がする。
「マスター」
今にも水中洞窟に吸い込まれていきそうなナーダルに声をかける。
「危険すぎます」
ついさっき襲われていたことなど忘れているのかのように、ナーダルは何の躊躇いもなく先の見えない場所へ進もうとしている。出来れば危険を回避したいルーシャは師匠に待ったをかける。知識も経験も豊富なナーダルの判断が間違っているとは言えないが、あまり先に進みたくないルーシャはごねる。
「たぶん何もいないし、いても僕らを襲う確率は低いよ」
洞窟に一歩足を踏み入れたナーダルは招くようにルーシャに手を差し出す。ナーダルについて行くしかないと分かっていても、その手をとることが躊躇われる。彼ほどの知識も経験もないルーシャにとって、現状は常に緊張感が張り詰めていて油断すれば怪我どころか命を落とすこともあるだろう。
「魔力に多少なりとも感受性があるなら、どの魔力を避けるべきか分かるからね」
にこりと笑うナーダルのその態度にルーシャは鳥肌を感じる。アルマベアとの戦闘において、ナーダルは瞬時にいくつもの魔法を使いこなしていたし、それ以外の場面でもその技術が光ることがあった。大魔導士の弟子であり一介の魔法術師ではないだろうとたまに思っていたが、今はそんなこと云々よりもナーダルのもつ空気が怖い。
何も言えずルーシャは師匠に鳥肌を感じながら、その手を取り洞窟内に足を踏み入れる。吸い込まれるほどの暗闇が目の前を支配する世界が広がる。
ナーダルは光魔法で洞窟のなかを照らしながら、その奥へと躊躇うことなく足を踏み込む。洞窟内は思ったより広く、ルーシャとナーダルが二人並んでも余裕のあるほどの幅がある。天井もほんのりと光る魔法で照らされているが、二人が頭をぶつけるほどの高さではなく、優しい光でほんのりその高さを目で確認できるほどだった。横並びでも広さは問題ないがルーシャが怖いため、ナーダルの後ろをついて進む。
光の届かない暗闇は純粋に怖い──、そうルーシャは思う。光もなければ物音もほぼしない。目の前を歩くナーダルと、彼の灯す光だけが頼りの世界だった。同じ湖の水なのに冷たく恐ろしく感じてしまい、まだ洞窟に入ってそう時間は経っていないが出来れば引き返したい。
「マスター」
前を躊躇なく進む師匠を呼び止める。最初は何かいるのではないか、それが襲ってくるのではないかという恐怖がルーシャのなかにあった。
「このまま進むんですか?」
その暗闇の奥へ行かなければならないのだろうか、今はそんなに不安と恐怖がルーシャのなかに渦巻く。ナーダルを信じて入ってみたものの思いのほか暗い。光が差し込まないからか、妙に冷えきって感じてしまう。光魔法で行く先を照らすとはいえ、光の届く範囲には限界があり、進んだ分だけ背後の闇も増えていく。前に広がる闇にも、自分の後ろにあらわれる闇にも怖い。先が見えないことが、後ろがこんなに暗いことが不安になるなんて・・・。
「目的地に繋がってそうな気がする」
ルーシャの不安をよそに軽い調子でナーダルは口を開く。そんな根拠もなく──と少し思うが、ナーダルのように主の魔力を感じられないルーシャはその後ろを素直について行くしかない。それにこんな状況下でナーダルとはぐれることは避けたい。未知の地でさえ不安なのに、真っ暗な場所に取り残されることだけは絶対に嫌だった。ルーシャも本で光魔法の簡単なものは構造を読んだことはあるが、実践したことは無い。
しばらく進むと、徐々に登り坂になっていたのか洞窟と天井との間に空気の層が見え始める。進んでいる感じでは登っている気配は一切なかった。はじめは僅かだったその空気の体積は奥へ進むごとに増していき、やがて二人は水面に顔を出すことができるようになっていた。
「湖から山まで、この洞窟が繋がってるみたいだね」
「主って山にいるんですか?」
「うん、山のほうから魔力を感じるからね」
湖に入る前に対岸を見据えながら、ナーダルの瞳が悠然たる山を見据えていたことを思い出す。
進んでいくと更に水かさが減っていくため体が水から出ていく。水中にいたときは浮力が優位だったため、バランスをとることは難しかったが泳ぐように歩くことができた。だが、地上に体が出ることで重力が優位となり体が重く感じてしまう。保護ノ羽織のおかげで髪や衣服が濡れることは一切なく、分かっていたとはいえ改めて自分の手足や髪、衣服に触れて濡れていないと確認すると違和感があった。何度か体や服に触って確かめるが、やはり濡れていない。
(魔法って便利!)
不安を感じていたルーシャだったが、魔法の効果を実感して今はそっちに気を取られる。これならば、衣服を洗濯する必要もない──なんて画期的なのだと心から魔力の活用方法を絶賛する。
黙々と歩いていき、やがて水は一切引いた。水中では水を媒介に音を聞くため妙な静けさがあったが、今は音を聞くのに媒介するものがない。重力の妙な気だるさと、ひとつひとつの音がスッキリ聞こえる開放感が身体中を駆け巡る。
二人はそのまま進み、暗闇にいるため時間がどれだけたったのかもわからない。まだ1時間くらいしかたっていないのかもしれないし、実は数時間も経っているのかもしれない。ただただ、ごつごつとした岩場が広がる暗闇を歩き続ける。水中から続く洞窟だからか、随分と湿度が高い。日の光が届かずひんやりとした湿った空気が二人を取り巻く。
「マスター」
「ん?」
「たしか、呼ばれたって言いましたよね?」
前を歩くナーダルは「そうだよ」と軽く答える。無言を貫くナーダルにルーシャは言葉をかける。
「呼ばれたなら、どうして・・・主が向こうから現れないんですか?それに・・・」
呼ぶなら、それなりの理由があるのだろう。だが呼んだであろう本人は姿を現さず、ルーシャたちはここ数日ひたすら主を目指して歩き、そして果てにはアルマベアや謎の湖で命の危機にさえ遭遇した。野宿ひとつをとっても食料や水が確保出来なければ、獣に遭遇して襲われれば死んでいたかもしれない。アルマベアとだって、ナーダルが撃退できたから良いものの、それは結果でしかなく下手をすれば死んでいたかもしれない。そもそも、湖の水の魔力に影響されて水草やアルマベアが二人を排除しようとしたということは、湖の魔力は二人を敵と見なしていたのだろう。
主ならここら一体を支配なり統治なりしているはず。それならば何故招いた自分たちが殺されかけているのに、止めようともしなかったのだろうか。痛めつけるため、殺すために呼んだのだろうか。それともただの主の戯れのためなのだろうか。
「いろいろ事情があるんじゃないかな」
命の危機を感じたというのに、ナーダルは落ち着いている。呼ばれたことへの理不尽さや、見えないゴールへの焦りもないようだった。いや、ナーダルにはゴールが見えているのかもしれない。
「呼ばれたのかもっていうのもひとつの可能性で、いろんな可能性はあるけど・・・いずれにしても大丈夫だよ」
こちらを振り返り、ナーダルは笑顔で答える。何が大丈夫なのか問いただしたくなる。どんな状況下でもわりとマイペースなナーダルとは反対に、ルーシャは少しでも早く事態を何とかしたいと思う。
ルーシャは優しい笑顔と声のその言葉を納得できない。ナーダルの言葉に一理あるとは思うが、だからといって素直に首を縦に降ることは出来ないルーシャだった。
「まだ死ぬわけにはいかないからね」
どこか不貞腐れたルーシャにナーダルは一言それだけを言う。それが凛と強く響き渡り、ナーダルの言葉が真意なのだと、彼の覚悟なのだと感じられる。死ぬわけにはいかない──だから、そのためにはどうやったって生き延びるのだと、言葉にしていない思いまでも感じ取れてしまう。
ナーダルの言葉で場に緊張感が走り、ルーシャはそれ以上何かを言うことはなかった。無粋だった──と心の中で反省する。マイペースでのんびり屋に見えるが、師匠は一人前の魔法術師で大魔導士の弟子だ。余計な心配などせず、彼について行けばいいのかもしれない。分かっていたが、現状がルーシャのなかの不安を主への不満へと変えていっていた。
暗闇の洞窟は長く、歩いても歩いても一向に景色が変わらない。周囲の岩はごつごつとしており、岩以外のものは見当たらない。肌寒いなか歩いていると、今まで森では程よい気候と陽光に恵まれていたのだと痛感する。日の光が届いていない様子だが岩場には小さな苔が自生している。
「ひゃっ!」
ふと何気なく洞窟の天井を見上げルーシャは悲鳴をあげる。進んでいく事に少しずつその幅や天井が広く高くなっていっており、ナーダルの魔法はほんのりと天井を照らす程度だった。だが、そんな淡い光でも天井のそれらを見るのには十分だった。
(見るんじゃなかったー)
そんな後悔を抱えて上を見ないようにする。しかし一度見てしまえば気になり、見なかったことにはできない。気になるが見てしまえば再び後悔するだろうという葛藤を繰り返す。
「うわっ!」
ルーシャの声につられて天井を見上げたナーダルも悲鳴をあげる。光魔法でほんのり照らされるそこには、ある生物が小さく揺れながら身を寄せ合う。その数は数百匹はいるだろう。彼らは悲鳴をあげ、そちをおどおど見る人間に対し一切関心を示すことなく仲間とともにその場にとどまり続ける。
「蝙蝠は苦手だなぁ」
「私も無理です」
ぶるっと身震いするナーダルと両腕を抱えるルーシャ。蝙蝠に恐れをなす二人の歩みは彼らを目にしてから格段と早くなる。田舎育ちで野生動物に慣れているルーシャだが、普段見ることのない蝙蝠は苦手だった。数匹だけなら気にならないが、集団でゆらゆら揺れているところを見ると鳥肌が立つ。ナーダルに関しては基本的に野生動物と関わらずに生活しているため、見慣れぬ動物は見ること自体が苦手だった。
気になるが、気にしないようにしようと黙々と上を見ないように歩く。蝙蝠がいなくなっていないか確認したいが、見て存在を確認してしまえば後悔しかない。その存在に気づいたことに後悔しながらルーシャは早足になったナーダルに急いでついていく。
暗闇のなか進みながら徐々にルーシャは大きな力──魔力を感じる。今までは魔力探知で何かの魔力を感じることはあったが、何もせずに魔力を感じられることは無かった。それだけ周囲に漂う魔力が大きいということであり、主の存在を意識せざるを得なくなる。
「マスター」
徐々に強くなっていく魔力に不安を覚えながら歩いていくと、ひとつのものに辿り着く。
巨大な扉が忽然と洞窟内にあらわれる。洞窟の壁から天井までを人為的な長方形の二つ扉が隔て、その存在感は圧倒的だった。今まで手付かずの自然が広がっていたなか、突然現れた人工物は異物のように感じられる。扉には見たことのない言葉と幾何学的な模様が羅列されており、それだけでこれが何か特別なもののように感じられる。
ナーダル曰く主の魔力は山の方から感じたようで、圧倒的なこの魔力と突如現れた扉から、ここが目的地なのだろうということは容易に推察できる。
(封印扉か・・・)
ゆっくりと扉に近づき、そこに秘められている魔力とその構造を解析するナーダル。扉には魔力で厳重に幾重もの封印の神語が刻まれている。それにも関わらずルーシャでさえ安易に感じられるほどの強大な魔力が漏れ出ている。
そっと扉に手を触れる。何かを探るよう、瞳を閉じてその神経を集中させる。重厚で巨大な扉はそれだけでも開けることは困難に思えるが、単に大きくて重いだけなら魔力を使えば簡単に開く。問題なのは扉に幾重にも施された封印だった。魔力が漏れでることを極力抑えるために施されているそれらを解くことは、あまり良いこととは言えないが封印を解かなければ中へ入ることは出来ないだろう。
「・・・!」
封印の解析に没頭する後ろ姿を見守っていたルーシャは、ハッとなにかに気付く。何かの音が小さいが響き渡り、それは徐々に大きくなっていく。風の──何かの羽音と無数の鳴き声が聞こえる。扉の存在で一瞬忘れていたが、この洞窟には彼らがいた。
「マスター!」
ルーシャは魔力を解析中のナーダルの背中を遠慮することなく叩く。
「ん?」
「蝙蝠です!」
ルーシャの激しい殴打に対し随分とマイペースに反応するナーダルは後ろを振り返る。もともとここに来るまで目にした生物は限られているし、小さな羽音と独特の鳴き声をするものは蝙蝠しかいない。
とっさに何かの魔法か魔術を使おうとしたルーシャだが、蝙蝠の大群の猛威は一気に二人を襲う。通り過ぎた時は一切こちらを構うことのなかった蝙蝠だが今は違う。小さい体、爪、牙だがそれでルーシャたちを襲う。
「うわっ」
突然のことにナーダルも魔力を構成する余裕がなく、身を庇うことで精一杯のようだった。
(・・・さっきは何ともなかったのに。扉に触れたから?)
先程までは下を通ってもこちらを気にする様子もなかったが、今は二人を排除しようという勢いだった。大型熊のアルマベアとは違い一撃で致命傷なわけではないが、さすがに大群で襲われるとなると対応に困る。
蝙蝠たちが襲ってきたのは扉に手をかけてからであり、ナーダルはこの洞窟の番人のような存在ではないかと推察する。ルーシャのほうを見ようにも、視界に入るのは蝙蝠だけだった。小さな痛みが身体中にはしり、浅い擦過傷が身体中にできる。
状況を打破しようとナーダルはひとつの魔法を発動させる。目にも見えず、耳にも聞こえないが超音波を感知できる蝙蝠には何よりも有効な魔法がある。ナーダルがそれを発動させた途端、蝙蝠は逃げるように一斉に二人の元を飛び去る。
「大丈夫?」
浅い傷をいくつも負うナーダルはルーシャを見る。
「なんとか・・・。ありがとうございます」
同じく浅い傷をいくつも負ったルーシャはげんなりとした表情で頭を下げる。身体中に小さいながらも痛みが広がり、小さな番人の厄介さを感じる。おそらく擦過傷だけではなく牙で噛まれた咬創もいくつかあるだろう。
ナーダルは小さな番人が再び来ないうちに急いで扉を開ける準備に取り掛かるのだった。
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偶然なのか、水中洞窟が山へと繋がっていた。まっすぐの道しか見当たらなかったけど、地上からもどこからか繋がってたのかな?目的地まで迷わずに行けて良かったけど・・・。
蝙蝠に襲われたのはほんとに最悪。今のとこ人生ワースト一で最悪な出来事かもしれない。一刻も早くお風呂に入りたい!
前話でナーダルが熊との戦闘でいくつかの魔法を一気に構成・発動していましたが、あれは私たちで言えばサボらずにバスケしながら、数学の関数解きながら、わりと長文の英文を和訳しながら、古文を現代語訳している感じです。そう思えばナーダル凄いですね・・・。




