王女様、それが力というものだから(Black Market)
真夜中、日曜日へと日が変わった瞬間、マーゴは目覚めた。
夜になったのだから、眠らなければならないという気はしたけれど、やはり時差ぼけはすぐに治るものではないし、しかしそれ以上に多分、夜の中に彼女が起きなければならない理由があった。縁側に出てみて、空を見上げるとぽっかりと穴の開いたような満月を見た。
子供たちの質問には答えられなかったけれど、少し前にテレビで見たニュースはぽっかりとマーゴ自身の心に穴を開けた。彼女はこう思った。もしかして自分の国を自分が改革し得たとして、果たして平和な国というものは実現したのだろうか。
夜の中でふと先ほどまで子供達や悠と笑って遊んでいた自分のことを思い出すと、その、どうにもならないのかもしれない。
何かを成功させても問題は絶えないかもしれない。
幸せを人々が勝ちうる分、不幸な人々が現れるのかもしれない。
という不安を自分は隠していただけなのだという風に思えた。なにを悠や子供達のせいだと言うわけではなかったけれど、この夜だけは、楽しいということってひどくずるいなと思った。
結局離れ離れに寝たマーゴと悠だった。
マーゴは布団から出る時に悠が家の中にいないことを確認した。眠たい目をこすりながら、誰のものかも知らないサンダルを履いて、藤の町の通りへ出ると遠くに二輪車両特有のエンジン音を聞いた。近場にある海のさざ波の音だけがこだまして、エンジンはエンジンなのだから尾をひくように響くことはなかった。
田舎町特有の照明では、周りになにがあるかすらわからず、なにかあるなということしか感じなかったけれど、マーゴはどこかへ行きたいと思ったので歩き始めた。もう周りの家の照明も軒並み落ちていた。
彼女は疲れを体の中にものすごく感じていたのだが、また必ずどこかへ行けば何か起こるというふうに信じていなかったが、焦点の合わない目で周囲の風景をよそに固いコンクリートの道路を見つめ続けた。
そして歩き続けた。
まず、マーゴはさざ波の音を頼りにして海へ出た。
何か海中にぽつりぽつりと輝くものを見たので何だろうと思っていると、遠くの堤防の先に明かりを持った人の群れが騒いでいるのを見つけたので、何かの生き物なのだとわかり海を後にした。
この生き物についてはどうして日本の人々が興味を持って集まっているのかわからなかった。
少し木の家の香りを嗅ぎながら通りをまた進み始めると、海岸の方で花火が上がる音を聞いた。
マーゴはこれまた、空にも光る生き物がいるかと驚いたが、人々の歓声が響いて、空に上がった光は尾を引いていたので、人工的なものだと知って悲しくなった。マーゴはまた人工的ということと自然ということの狭間で云々と考えたが、なんのことだかすぐに忘れた。
夜にはこういう、すぐにやってきたり去ったりする思考の波が吹くものである。特に秋や冬には顕著である。ただ、今は夏を待つ春の時分。マーゴの中にいろいろな考えが浮かび上がっては消えたのは、季節の風や香りのせいというより満月の影響が強かったろう。
こんな風に朦朧とした意識の中で歩いていたマーゴを我に帰らせたのは神社の鳥居の姿である。
マーゴは遠い街灯に照らされて薄ぼんやりと、緑色に見える鳥居を見て、初めて自分はここに来るために歩いていたのだったなと悟った。実際、マーゴは真夜中にここへ来れたら素敵だなと、悠と隣の公園でベンチに座って弁当を食べた時から考えていたのだった。
彼女は顔をほころばせて、境内までの道を駆け上がった。
それで、マーゴは朝とは違う無数の真っ赤な鳥居をくぐり進んでいることに気がつかなかった。
こうして周囲の風景は一転する。夜の中に確かな、変化の雫が一滴落ちた。
ーーー
神社の本殿があるべきところには、真っ白な狐が一匹佇んでいた。
「お嬢さん!」
「狐…さん?」
「へへへ…お嬢さんは運がよろしか。ここはぶらっく、まあけっと。満月の夜にだけ開かれる秘密の市場なんですわぁ。そら、周りをごらんさい。」
静かな夜が一瞬のうちに、繁華街で聞くような賑わいの声に包まれた。
あと、どこからともなくぽよよーんという電子ピアノの電子音や、チェロを爪弾いたような重低音が聞こえる。
辺りには無数の土偶のような生き物がはしゃぎつつ、買い物をしながら怒ったり喜んだりをしきりにしている。
「んにゃにゃー!ぷよよよよよよ…とぅぱっ!」(「おいあんた、そんな値段で売れるわけないだろ!あのなぁ…出直せ出直せ!」)
「ふげっ。からんころん。」(「特製のナイフだよ、ああそうだって、特製さ。憎いあの子がどうしたって?ああ殺せるさ、簡単にね…あの子にはまばたきだってさせないぜ、このナイフ!)
「しゃらーん。ぽろーん。」(畜生あのオヤジ。こんな錆びた銃器で人を殺せるわけないね、生まれたての臍の緒つけた赤子だって殺せるか知らん。)
時々土偶のような風貌の生き物たちは、マーゴの服の裾を引っ張ると丁寧にお辞儀をしていった。
「なんなのですか…?この人?いえ、者たちは。」
「なんだっていいじゃないですかお嬢さん。あのねえお嬢さん、ここには言語やお金なんてものはないんだよ。要はあんたがどれだけ自分に素直かってことさ、あんたが求めてるものが見つかるよ?
それにこいつらが何を言ってるのかわかるのが不思議って顔をしてまっせ。あっしには分かります。それはお嬢さんの中に奴らと同じ気持ちが、どこかにあるってことなんですわ。」
「私が求めてるもの?」
とりあえずマーゴは言語の問題を棚に置いた。
「何かぶっ壊すための道具さ。ここの奴らはみーんな礼儀を知ってる、あんたを騙したりしないよ、あんたがあんた自身を騙したりしない限り。へへ…今自分、結構いいこといいやしたね。」
「こんな場所が世界にあっていいの?」
「はっ!あっていいかどうかだって?あるからあるんだよ、あんたらの世界に。狐は人を騙すっていうだろ?化けるって言わないかい?でもね、あっしらから言わせてもらえりゃ、お前ら騙されてると思った時にゃどこかで既に騙されてるもんですぜ。ってね!」
「よく分からないですわ。それで、私はどうすればいいんですの?」
「歩いてみんしゃい。きっと素敵なものが見つかるから。言った通り、ここの奴らはみんな礼儀を知ってる、礼儀ってもんが何か知らないからね!気に入ったものがあればあっしの名前を出せばいいですぜ。めふ。めふ、ですわぁ。メフィストフェレスのめふ。」
「分かりました…すこし、見て行くこととします。」
めふは履いていた木の靴をコツコツと鳴らして、走って去っていった。マーゴは帰る術もわからなかったので、仕方なく言われた通りにしてみることとした。
「あのぅ…」
「ぱふー!ぱふー!」(「ごめんなさいお嬢さん、今はちょっと忙しいから後にしてね。」
マーゴは矢継ぎ早に道行く人々に声をかけてみたものの、なんだか皆急いだ調子でどうしてもどこへ行けばいいのか聞けるような者を探し出すことができなかった。
行って仕舞えば皆同じようにしかマーゴには見えなかったので、同じ人を追跡して助けを請うのは困難だった。
もう帰りたいなと考えることは不思議となかったが、なぜかちょっと涙が出そうになっとき、一人マーゴに話しかけてくれるものがあった。
「ぺむ?ぺむ!」(「お嬢さん、お困りでしょう。うちは銃器売り。いいもの売るよ!さあ何が欲しいの?」)
「めふ。めふの紹介で…その、私何が欲しいかわかりません。」
「うにー…」(「めふ?めふかい!あの小悪党だね!でもあいつの紹介とあればうちも何か売らなきゃね。」)
「私は王女で…突然ここへも、ここの外へもやってきたんですの。」
「ぽんむ!」(「王女様!それじゃあこいつでも持ってきな、きっと役に立つよ。ブラック・マーケット随一の銃器商人の私が選ぶ、特上もんだ。なんだってできるよ、こいつぁ裁きの銃だ。あんた、人が憎いって思ったらこいつで撃つんだよ…安心しな、殺しやしない。まぁ、撃ってみな。」)
「へ…?は、はぁ…」
マーゴはその銃器商人とやらから一見普通に見える拳銃をしぶしぶ受け取った。
「ぱぁーふぅー!」(「大丈夫、あんたが考えてる不安全部、うまくいくから。ところでここに長居するといくら王女様だってあたしらみたいになっちまうよ!ほれ、行った行った!」)
マーゴは拳銃を握ったまま、突然現れた地下鉄風の蒸気機関車に押し込まれ、謎の市場を後にすることとなった。
カタコトと、古い汽車の立てる、線路を擦る音がマーゴの頭の中に響き、こだまし、やがて消えていった。
市場の喧騒や、絶えず響いていた不思議な楽器の音色も全て、だんだんと遠くなった。