死の顔、その香り
ここは月に最も近い場所。一体、どこなのか。晶子には分からない。
「あの、ここは一体…?」
「月が一番綺麗な場所さ、俺にもどこかは分からない。」
男爵にも、ここがどこか分からないようだった。彼のお面はとても大きく、輝いていて今にも涙が流れたっておかしくない。そういう美しさに染まっていた。
崖。風は強く、足元を見れば吸い込まれてしまいそうだ。三人はなぜか、手をつないでいる。もしかしたら、これでブラックマーケットという場所へ行けば消えた京介にも会えるかもしれない、期待と恐怖が同時に晶子の胸を覆っている。
「それじゃ、1、2、の3で飛び降りるからな。大丈夫、死にゃしないさ。それで行けるんだ。黒の商店街へな。」
これにはさすがに晶子も驚きを隠せなかった。
「は、はぁい!?死にますよ、確実に!」
「ふふふ、若いですねえ…死ぬってなんだと思ってるんですか?ああ、あなたは感じませんか、死というものに酷いエロティシズムを…!さぁ、身を委ねて。」
「いち、にの、さん!」
少年が言うと飛び降りる、晶子はその手を離してしまおうかとも思ったがすぐに男爵も飛び降りた。晶子は、落ちる。
世界が反転する、自分の体が空中で反対になると、月の光が自分の目に痛いほど焼きついた。月の像は晶子の目に肉薄する。
その時、晶子の目の中で月は伸びきった巨人のお化けのように、ぽよよんとしていてびよーんとした顔に見えた。シニカルに笑っている、黄土色の巨人の巨大な顔。少し、えくぼの辺りに硬い岩石のような感触を残している。
晶子は手を伸ばした。すると、遠い銀河の遠心力によって吐き出した屑に、ちょっぴり触れたような気がしたのである。
理解した、これが男爵の言っていたエロティシズム、すなわち芸術の本質、宇宙との官能的な交配の形であるということ。それが、死だ。
しかしそれは一瞬、見えてすぐに消えたのである。晶子は結局、月には触れることのできる気がしなかった。それは目の前まで迫っていて、晶子に皮肉な笑いをかけているというのに。
それでもその時、晶子の感動するものがあった。周りの、ここは地球だっただろうか、土の感触。そして夜空にきらめく無数の星。水彩画で彩ったかのように、視界の中で溶けては晶子の心の中へ染み込んでくる。その圧で、体から涙が溢れ出したような気がする。感触としては、身体中から塩気のある涙を流したようだ。
その涙が宙を満たしたのだろうか。
晶子の体は海のような水たまりに沈んでいた。晶子は息ができなくなる、溺れる。意識はすぐに晶子の体を飛び出した。
泡が、晶子の体を、覆う…
その、触れていないようで触れているという感覚が、優しかった。人魚姫が死ぬ時は、こんな感じを覚えたのだろうかと思う。
やがて、晶子は嫌になって口を大きく開けると、塩の味の濃い海水が体を満たした。周りを虚ろな目で見渡すと、きらびやかな珊瑚や魚の群れが息づいている。青やオレンジ、虹色の鱗。晶子のことなど気づいていないように、自由に泳いでいる。
やがて、その魚の群れを虫のような、生物が噛みちぎって殺すと海水は真っ赤に染まる。現れたのはアノマロカリス。
晶子は、海の中で宙に浮いた感覚のまま死を間近に感じた。意識が飛んでも、死はまた月の顔のように確かに迫ってくる。
暗転。反転。
ーーー
気づかぬ間に立っていた晶子の目の前に広がったのは、奇妙な声と音の満ちる商店街である。すぐに晶子には、ここがブラックマーケットと呼ばれる場所なのだと分かった。チェロの弦を爪弾く音に、電子ピアノの歯がゆい音も聞こえている。
土偶のような人間の声。
側を見渡したが、男爵も少年も見当たらない。
「めぷぷぷ!ぷおお!」(おいおい!ありゃ人魚姫じゃねえの!?)
「ぱぷぷん、ぺぇーっぽ。」(お前の目は節穴か、ありゃお姫様気取りの人間だよ。)
「ぽっぽろぴー!ぴみゅー、ぴぴみゅー。ぱうっ!ぱうっ!」(ほら、香水の匂いがまだ奴の体からしてるだろ。まだ生きてた時の、生きてた記憶が残ってる、地球からだよ…今。死んだんだ!死んだんだ!)
三匹の、土偶みたいなふにゃふにゃの小人が晶子をまじまじと見つめ笑っている。晶子にはそれが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
なんだか、その声はサクソフォンのカデンツァみたいだ。
その土偶の群れが去ると、晶子の目の前に立っていたのは真っ白な狐だった。
商店街の提灯の淡いオレンジ色の明かりに、まだ晶子の目は慣れていない。
「お嬢さん!ようこそ、ブラックマーケットへ…ありゃりゃ、しかしあんさん、日本人ですなあ。他の場所で死んだ風なのに。旅人さん?」
「あの、ブラックマーケットって一体…?」
とりあえず、晶子は現状を理解して、現場でうまく生きるためにこの質問を投げかけた。この場所のことを知っているように話したら、不自然だろう。
「ここはあなたの望むものを渡す場でさあ!さて、あんさん何が欲しいんで…?本気で死んだようですな、それじゃあ、来世に生きる力のために…ブラックマーケットは助太刀いたしましょ。」
「私は…」
「水!Pannonica!」
メフィストフェレスは晶子の言葉を、そう言って遮った。
自分の中に、確かな何かが入ってくるのを感じた。水の音が心の底で聞こえたと晶子は思う。
メフィストフェレスが遠ざかっていこうとすると、遠くから少年の声が聞こえる。
「晶子!晶子!」
ああ、そうだ。自分の目的は単純にブラックマーケットに来ることではなかったな。このままでは死んでしまう。どこか、知らない場所へ行ってしまう。
その恐怖心を抱いて、安心したくて少年の声の方へ走り出してみた。
ーーー
晶子はやがて、ブラックマーケットの音と光加減を抜けて、どこか知らない国に降り立つ。




