大聖堂と小さな勇気
ラケルに否応なく連れられ、たどり着いたのは街の中心にある巨大な教会だった。どうして、ラケルにとって夜の悪い視界の中で、新生児の頭でここにたどり着けたのかはわからない。京介も知らない場所だったし。
教会は、街頭に照らされて金色に光る街路と同じ色をしている。教会というより、街中に忽然と屹立する聖堂。
その大きさに見合った扉を、ラケルには力がなかったので京介が開ける。外は土砂降りの雨だった、京介が見た夢と似ている。
傘もなかったのでずぶ濡れて、聖堂の中へ入ると無数の雫が二人の服から一つ一つ、こぼれ落ちた。京介はそれを気にかけて、何度も綺麗に落とそうと試みていたが、ラケルは気にせず足を進めた。
もしかして、聖域の雰囲気というのは自我の芽生えや、社会に生きる人間でないと感じることができないかもしれない。雨をなんだか喜んでいたり、こんなところでラケルの幼児性が感じられる。
随所に現れているそれに、付き合うのは少し気が重かったけれど、ラケルを可愛いと思っていた心がそれを打ち消す。
木造の扉を持っているのにも関わらず、外見と同じく内装も黄金色で派手に思われた。
中は綺麗に整備されている、木造の扉が軋まなかったところからも、それがうかがわれた。また、とりわけてステンドグラスはまるで多くの清掃員を雇って毎日拭き掃除でもしているかのように輝いている。黄金色の、反射だったのかもしれないが、まず整備されていないとしたらカビの一つでも生えるものだろう。それがない。
聖堂の中は電気の明かりも感じられたけれど、多くの明かりが蝋燭によるものだった。まるで煩悩でも払う日本の大きな祭りの、クライマックスかと思われるほど無数の蝋燭が灯っている。しかし、聖堂の大きさのせいで、眩いほどの明るさみたいなものは感じない。
蝋燭は風に揺れた。今にも消えそうだ。扉を開けた時、幾らかの蝋燭が消えた。
夜灯すのだろうか、あまり溶けていない蝋燭だ。消えてすぐの、蝋が垂れるのを見て京介は感動した。
内部の光加減は、嵐の夜で月の出ていないせいか荒廃した廃墟のよう。その雰囲気と、整備された目の前の雰囲気は心のうちに一抹の気持ち悪さを残す。
大きな空洞。
遠い天井。
ぽつんと、奥に見える一つの影。
ーーー…アルルカン?
宇宙の真ん中に身投げしたような気持ちだ。
会わなければならない人の影が遠くの遠くに見えている。
しかし、遠い天井が恐ろしい。途方もなく広い空間に、数名だけでいるのは、なんだか悲しいし、怖い。アルルカンの能力、Night at the Operaの記憶が京介の脳裏を掠める。
そんな広大の世界の内の悲しみを内包した能力の形だったろうか知らん、京介は考える。
天井は今にも落ちてきて、膨大な数の小さい、牙を持つ口を開けて京介を貪ってもおかしくはないのである。
小さな、奥の方の影はこちらに気づいていないのか、依然と動こうとしない。
その人に話しかけるのは、無限の道のようだ。
教会の中央に敷かれた長すぎる赤いカーペットがその感を強調している。そして、蝋燭の明かりがそこへ落ち、揺れる様。星屑を集めてできた、川の中の小石を跳び回っていかなければならないようなカーペット。
一生かかっても、あの影の元へは届かないかもしれない…
この聖堂は記憶と、夢の本質。
雷が鳴って、京介は感覚の海から脱した。稲光が黄金色を一層輝かせる、京介の視界に焼き跡を大きく残した。
ずぶ濡れの、京介から手を離して歩き始めたラケルは不思議と怯えていない。京介の手を離れたラケルは、歩く姿に勇気の色を帯びて見えた。ゆっくりと、一歩、一歩、聖堂の奥へ足を進めていく。さきほど感じた幼児性と、この歩調の間にラケルという人間の本質が隠れている。
それは、怯えない赤子というシュルレアリスムの現実。
そんなものを見るということは、京介はもう夢の中へ深く迷い込んでしまって抜け出せないのかもしれない。
それで、京介はラケルの風貌に初めて気がついた。あり合わせの、大きい女性服をスカーフのようにまとわせてやっていたが。
白髪。赤い目。ラケルは明らかにアルビノだ。京介が父親や、兄弟であるはずは決してない。
泣き顔。勇気。
神聖さ。脆さ。
不自然である。
京介は努めてラケルの肌に触れることをしなかった。それは、人の肌と触れて仕舞えば崩れてしまうような気がする。あんなにも、力強く嵐の中を走り回っていたのに関わらず。
京介はラケルの足取りに誘惑されるようにして、聖堂の奥へ少し足を踏み入れた。もう一つの、開け放たれていた扉を越える。
その時、大きな雷が落ちた。強い風が吹いて、すべての蝋燭は消え、街灯や教会の中の少ない電球も消えた。停電が起きた。
真っ暗。
時折落ちる雷の光だけを頼りに、京介は服の裾を強く握りしめたラケルを今度は導くように、慎重に歩いた。そうして、祭壇の前へたどり着く。
その時の京介は、ラケルに言葉を一つかける余裕も持っていなかった。そして、荘厳で閑散とした静寂の中、声を発するのは無粋だとも感じていた。
二人でかがみ、膝をカーペットにつけて、祈る。目をつむって二人は祈祷の時間にふけった。
途中で、衣服の擦れる音がしたので、やっとアルルカンの元へ自分はたどり着いたのだと悟った。
「アルルカン…?」
目をつむったままで囁く京介だ。
「分かってる…そのままで…」
確かにアルルカンの声だ、彼女がどこにいるか、遠目から見て知っていたはずなのに、今横にいる彼女の存在は驚くべきことだ。
その掛け合いで、間ができる。ゆっくりと三人、目をつむってカーペットの上に跪いていた。京介には能力があるので、特に心配することはなかった。今は攻撃されたりしないこと、きちんと理解した。周りの空気は落ち着いていた。
「ラケル…?」
今度はアルルカンが囁く。
「お母さん…?」
「ううん、いいえ…」
少し、まぶたの裏でも明かりが見れた。蝋燭が何本か、残っていた火の粉を頼りに灯ったのだろう。
「なんでぇ、お母さん…?」
「お母さんだよ…」
京介が付け足した。
目を開けると、部屋の中は明るかった。目を開けないままのアルルカンに、そっとラケルが寄り添った。アルルカンが目を開いて、ラケルを静かに抱きしめる。その光景を、京介は傍で見ていた。
聖堂の中はとても静かで、静かと言うより本当の静けさに近かったけれど、その時雨脚が途絶え始めたのが聞こえていた。




