妹:ラケル。思い出せぬ思い出よ。(記憶の固執)
「こん…にち、ワ…お兄さん?」
新生児にしては体が大きすぎる、しかしアルヘンティーナが能力者であることを考えても、謎の柔らかい容器から出てきた命は能力者にしては小さすぎる。
そんなことを考えて、京介は警戒した。
ゆっくりとその生命体は動き始めると、体にまとっていた薄い粘着質の膜を破ろうとした。しかし、破けない。もがいているのを見るに耐えず、京介は手に持っていたナイフでその半透明の膜に切れ目を入れてやった。その穴から膜を破り、それは出てくる。
出てきた瞬間、京介はそれにナイフを突き立てた。
「お前、なぜ喋れる…?能力者か?何者だ、いったい。」
「お母さんはぁ…?」
それは目に涙を浮かべた、大声で泣きわめく。お母さん、お母さんとしきりに泣き叫んでいる。
「あ、いや!お母さんはいないけど、ここにお父さんがいる!」
「お兄さんぢゃない…?」
「兄貴ぃ?いや、違うよ。お前をここに出してやったんだよ。ラケル。お前はラケルだ。」
咄嗟に、容器に書いてあった文字を名前だと思い込んで言った。名付け親、これでいいのだろうか。よく、どういう言葉で目の前の人間に接していいのかわからない。しかし、お父さんがいると言ったところでそいつは泣き止んだ。
親が、必要なんだ。
居る?居るよ。と言った。京介は。けれど、要るよね。そういう言葉でもある。くだらない言語の命題について、考えるべきだと京介の思考は巡る。体つきは赤子に見えず小学生くらいだけれど、きっと赤子だ。
赤子の対応は難しい。
きっとその両方なのだろう、居ることには、要ることが必要とされるのだから。それをどちらか、拒否してしまうことはとっても汚い。それくらいのことは京介にも分かった。
例えば居るだろう、要らない自分を居ると思う人間。そして要る自分を居ないと思う人間。考えた、吐き気がした。
京介の中で記憶が乱雑に交錯する。この感覚は、どこかで覚えがある。
水野晶子。文字が頭の中に浮かんだ、後者だ。そう思ってその考えはスッと消えた。その名前を忘れた。
「ラケル!私、ラケル!」
「あ、ああ…」
ところで、この部屋は赤ん坊が生まれるのに適した場所だった、血の匂いがするし、緑の匂いもする。何より、京介が目の前にいる。もしも意図的に作られた環境だったとしたら、作者のはずのアルルカンは天才だ。よく、命というものを理解している。
「でも、あなたお兄ちゃん。お兄ちゃんって呼んでいい?」
「別に…呼びたいように言えばいいんじゃないか。」
ラケル…ラケル…懐かしい響きだと思う。でも、思い出せない。ラケルという名前は、一体なんだ。
突然父親になった京介は挙動不審だ。
突然ラケルは高らかに笑い出して、裸のまま真っ白いテーブルの上のウィスキーの瓶を手に取る、テーブルを蹴り飛ばす、瓶を投げると何かの標本の当たった。瓶が割れる、そこから流れ出た液体に向けて、零れ落ちていた香水の元の瓶を手に取ると、流れ出たウィスキーに向かって落とした。床に落ちて割れた標本を覗き込む。
今の一瞬で、嫌な香りが消えた。いい香りが部屋に満ちていく。
子供の感覚は素晴らしい、京介にもそれが分かる一瞬だった。
ラケルは割れたガラス張りの標本箱の中から、何かを取り出したようだ。それを持ってまた、幸せそうに踊り出す。
「ラケルのお人形!お兄ちゃん!ラケルのお人形!」
京介はハッとさせられた。
ラケルが高らかに掲げ上げているのは胎児の標本だ、まだ母親の体にいてできかけの体。という形を持った標本がラケルの手の内にある。
それが、お人形…?断じて違う。京介はその標本をラケルから奪い取った。
ラケルはまた大声で泣きわめく。
「取ったぁ…!とったぁ!お兄ちゃんがラケルのにんぎょ、とったあ!」
「違う!違うんだ、ラケル…これはな、人だ。死体だ。人形じゃない。」
柔らかい感触が京介の指に食い込んでくる。明らかに胎児だ。そして、死体だ。
「でも動かないもん!おにんぎょさんだもん!」
さん付け…この赤子じみた少女は明らかにおかしい。人形趣味で女だと思っているけれど、男かもしれない体つき。そして、赤子同然の頭で人の言葉も聞かずに、人形にさん付けすることを覚えている。明らかに、気が違っているか人外。宇宙人だったりしてもおかしくない。
または、生まれつきの能力者。
しかし、死体と人形って何が違うのだろうか。京介はまたしても考えさせられる。
「わ、分かった。ごめんよ…」
京介は訳も分からないまま、胎児の標本をラケルに返した。
「うん…あれ、でもこれおにんぎょさんじゃないね。
ごめんなさい、お兄ちゃん。ラケル、悪いことした。」
「え、そう?なのかい?」
「うん。この人、泣いた顔してる。だから、生きてたから、おにんぎょさんじゃない。」
そうだ、生身の肉体には胎児と言えども必死に生きようとした跡が刻まれている。それに、ラケルは気づいた。それが京介には、なんだか嬉しかった。赤子の心の方が、京介の考えよりよく分かっている。
「ところでラケル、お母さんはどこか分かるか?」
もちろん、お母さんというのはアルルカンのことだ。この店で、なんの目的かはわからないがラケルを生み出したのはアルルカンだろう。だから、アルルカンがお母さん。
一連の会話で、きっと母親のことは自分で探すより子供に聞いた方がいいのだと思う。それに、ラケルは子供じゃない。記憶は残している、体が成長しているように。ただ、魂の形が赤子なだけだ。
ラケルのことは人間なのかすら理解できないが、生きていることは事実。それを突き詰めて聞いても、きっと泣かせるだけだと思って聞かない。
今は、すべてアルルカンに聞けるのなら聞いた方がいい。夢の話から、目の前のラケルのこと、自分の記憶のことまで。きっと、何か手がかりがつかめる。
「お母さんはね!分かるよ!ラケルがお兄ちゃん案内したげる!」
「え、あ、ああ…あ…!」
ラケルが京介の服の裾を引っ張った。惹かれるようにして、京介はラケルと共に店を出る。上品な香水の匂いが入り混じったものは、扉を開けて外へ出ると浄化された。
店の中が、混沌としていたがために外へ出るととてもすっきりとした気持ちになった。
古都の路地へ二人は出て行く。
「いいのか…?」
京介はつぶやいた。カランコロン、ドアの脇につけられた鈴の音がする。




