One Summer's Day(罪と罰の肖像)
朝早く出かけて、買い物を済ませた晶子と少年は帰路を歩く。今やっと隣町のスーパーから帰ってきて、藤の町へ入ったところだ。
「釣りでもしてくか。あんた、磯の香り大丈夫?」
「大丈夫ですけれど。いいんですか、お仕事とか…」
「いいや、今はそうそうないよ。だからこの町でのんびり暮らしてんだ。こっちの方が性に合ってるかも。」
少年は笑った。確かに、少年にとってこの頃仕事がないというのは事実だ。主人が留守で、今はどこにいるのかもわからない。時々入るメールだけが続く、そんな状況がかれこれ半年ほど。だから町のボランティアをしたりする少年の傍、男爵がパートタイムの職をやって金を繋いでいるのだと少年が説明する。
「主人さん、帰ってこられないんですね…」
それじゃあどうしてマーゴ・ジニエステをそんなに気にかけるのか。それを聞こうとして、寸前のところで止めた。そういう、込み入った話をするために釣りに誘ってくれているのだと悟ったからだ。
晶子は少し頷いて、少年について行くことにした。
すぐに釣り具を海岸沿いの小屋で借りると、堤防の先の方へ二人は歩いていく。夏の日差しに輝く海がとてつもなく綺麗だった。少年が、ほらと言って日傘を差し出してくれた。晶子は真っ白な日傘をさして、少年とともに歩く。
家計の困難な状態で、日傘を用意してくれることや会話の場を設けるために釣りに誘ってくれることなど、少年の優しさがうかがえる。
ただ、まだ晶子はそれが単に目的のためのことだと疑う気持ちを拭い去れなかった。
凪いている海が、よく潮の香りを運んでくれる。やっぱり、それは懐かしく感じられた。少年はその香りで、寂しく俯いた。
少年が直射日光の元で釣り糸を垂らす横、晶子は魚を釣ろうとするのではなく同じ動作をしなければならない気持ちから、日傘の下で体育座りをして糸を垂らす。糸についた浮きの水面に落ちる音が印象に残った。
浮きは、風や波の動くたび忙しそうに揺れる。
三、四匹くらい魚を釣った後で。またもう一匹、その魚が堤防の上でピチピチともがいていた時だった。
「おい、晶子!おいってば、それ潰して、踏んで!毒!毒!」
晶子は釣れたばかりの魚を、うまくハイヒールの先で海へ蹴り返した。晶子は女性がスニーカーを履くというのが、どうしても気に入らなかった。
「あ…すまん、あんた、ハイヒールなんだ。変な匂いつけちまったな。」
「いいえ、自分の服装まで考えて釣りに来ているのですから。」
荷物まで持って少年と男爵の家に入った晶子は、今日、ちょっとオシャレだ。真っ白で片方の肩のあたりに真っ赤な花の形を繕ったワンピースを着ている。
少年はこの後、晶子から少し距離を置いて体育座りした。魚を蹴るために立ち上がった晶子も体育座りに戻る。その時、日傘が海に落ちた。
「あ。すまん!いま、俺とってくるよ!これ持ってて!」
少年はすぐにシャツを脱ぎ捨てて海に飛び込もうとする。しかし晶子はそのシャツを手に取る前に、少年の腕をとった。風が吹いて、脱ぎ捨てられたシャツも海に落ちる。
晶子に蹴り落とされた魚が、音を立てて跳ねる。
「あ…あの、いいのか。日に焼けるぞ。あんた、肌、真っ白だから…」
晶子は首を左右に振った。少年は頭をちょっぴり掻くと、目をつむって元の体育座りに戻る。二人で、堤防の先っちょに座っていた。
お互い、何か言うタイミングを探っているようだった。元より餌を付けていなかった晶子の釣り針とも合わせて、ただ二人は釣りをするふりをすることになる。少年も餌を付け直すことはなかったのである。
「海が、嫌いですか…?」
晶子が、時折見せる少年の寂しげな顔を知っていて問いかけた。もちろん、晶子から話しかけることで、日傘もシャツも気にしなくていいよという意もある。
「ああ、その、好きだけど…嫌いというか。」
「この景色が好きでも、好きでも好きでも憎むことって、あります。よく、分かります。」
「あんたも…そうだったのか?」
「はい。中学校の頃、とっても好きだった男の子。気づけば燃えるほど憎んでいました、でも気づいたんです。その人に一刀のナイフを突き立てた時、やっと。でも殺しはしませんでしたよ、一滴の温かい血が手のひらを転げた時、感じたんです、はっきりと、愛の形を。」
「俺も。一国の王子だった、海と一緒に暮らしてた。でも、その海に国は滅ぼされたんだ、怒りを買って。ここに来てから、少し海を許せるような気がする。そういう、好きと嫌いだ。
なあ、あんたにも分かるんだろ。誰がどこから生まれてきたのか分からない、もしかしたら目の前で話してる人間は火星人が転生してきたのかもしれない。そういう、命と運命の形が。それでも、人間はそれを許せるんだろ、そのために、人間は奇跡の惑星に生まれ落ちたんだろ。」
「あなたのお話は、ただの人間の私には分かりません…ごめんなさい。
ごめんなさい。」
また、しばらくの間が置かれる。お互い、お互いの境遇に同情をかけることもしなかったし、ねぎらいの言葉に甘えようともしなかった。それが、失礼なことだと知ったいた。
磯の香りが、また二人の鼻を掠める。
「俺たちは、ブラックマーケットを潰そうと思ってる。憎しみは、人間だけで乗り越えたほうがいい。神の力を借りられるあそこは、害悪だ。」
ブラックマーケットを滅ぼすという目的を忘れかけていた晶子に、その感覚を戻したのは少年の方だった。
「それじゃあどうしてマーゴさんを…?」
やっと、この質問が晶子の口から出た。
「異世界から来た分子も、排除しなきゃならない。俺や男爵、マーゴ・ジニエステにその姉、ローラ・ジニエステ。俺たちの主人は、この世界にいちゃならない。
どこから歯車が狂ったのか、よく分からないけれど。かぐや姫が地球に来た時代?それくらい古く、延々と続く歴史なのかもしれない。
芸術家は現代に、異世界から迷い込んだボヘミアンだ。
だから、芸術の力はこの世から消えなきゃならない。ブラックマーケットと共に。」
「でも、そうやって地球は育まれてきたのでしょう!異界や宇宙、その懐かしさと一緒に、社会から逃れるため芸術の力を借りて!
あなたは…あなたを責めないで…人間は、そういう生き物だから…」
「いいや、でも今変わるのさ。人間は、知恵の木の実を食べる前の世界に戻れる。今からでも遅くない、それがマーケットと、転生した人間の義務なんだよ。楽園に、戻す、人間を。今がその時なんだ。
見てみろ、憎しみや愛に喘ぐ人々を!猟奇的な犯罪の数々…あれが幸せなのか、どうしたって幸せにはたどり着けない!自然の中へ、芸術と社会の概念を崩し切って!戻るんだ!」
少年は晶子の顔を両手で乱雑に持ち、言葉を吐き出した。晶子は少年の言葉が終わった後で、その両手を跳ね除ける。
「違います!違います!」
晶子は真っ赤な目をしている。少年は少し頭を抱えると、帰ろうとつぶやいた。晶子の髪を優しく撫でる。
でも、自然の中でも、きっとまた会えるから。
それでも、また会えたことの喜びはないでしょうね。
二人は叫んで、掠れた声で会話した。釣り具を全てまとめて、大きく距離をあけたまま堤防の先端から歩き去っていく。
もう一度、晶子の海へ返した毒の魚が跳ねた。潮風が吹く。海がまた凪いだ。夏の太陽に照らされて、海は黄金色に宝石をちりばめたようで、輝いている。また風に、波が揺れるとその粒子は散っていく、また形を戻す。それが繰り返される。
夏は、地獄の季節だ。




