水野晶子の肖像
線香の香りがするし…
時々、気がつけば耳に入っている水の音ももう慣れっこになっていた。
ぽとん、ぽん、ぴん。ぽで。ぇ。より。
例えば真っ白な水の中に墨の一滴を真っ黒く垂らしたように。それは儚げで消えていく。真っ黒く染めてしまえば水は消えてしまうような、灰色のままでは何か物足りないような。そんな音が水野晶子の心の内ではしていた。それが彼女の魂の色、彼女の心の中で、しきりにどんなときもしていた音の形。
それが、まるで病気の時に聴く時計の針の音のように、気がつくと胸の中いっぱいに響き渡る。
母親が、水の好きな人だった。家にある日本庭園、不調和に置かれた巨大な水槽。そして母親の自室。晶子はそれを見たことがなかったけれど、ずっと静かで優しい音がその中からしていた。母親は部屋から一歩も出ず、晶子に姿を見せることすらなかった。だから、晶子にとって母親の姿は記憶にない。祖母がずっと、晶子の家では家事を務めた。父親も仕事が多忙を極め、家に帰ることはほぼない。
だから晶子の両親の記憶といえば、時折姿を見せる父親と食事をすること。それくらいだった。
それで、晶子のすがるものと言えば水だけ。そういうふうになっていった。幼稚園に行って、なにもすることがなければ水道で一日を過ごすこと。それに限られ、周りの人を困らせた。周りの人の、晶子を糾弾する音が聞こえてくる。
「あの子ったら…どうして水でばっかり遊んでいるのかしらねえ。」
「あんなの、楽しいのかしら。どうしたらあんな馬鹿な子になれるの?」
「ふふふ、いいのよ、水が好きなんでしょう。いいじゃない、そんな子が一人で遊んでいてくれて。」
「あら、あの子母親も父親もいないみたいな家らしいわよ。そんなこと言っちゃダメよぅ。」
晶子はそんな声の中で育っていった。
それでも、水は晶子にとって大事なものであり続けた。感触、匂い、形。それが哲学的なものだとは考えなかったけれど、それが哲学的なものだと、とある小説を読んで認識したことは自分の本能に驚いたものだ。
それまでに晶子は水が好きで、祖母に母親の部屋を見せてもらってもいいかと聞いたが、それが許されることはなかった。どれほどまで自分を否定する音が聞こえても、家に帰って水の音が聞ければ癒されると思った。それに、母親と初めて会うとすればなにを言っていいのかも分からないし、彼女はずっと祖母の命令に従っていた。
しかし、晶子は夜中に水の中で息をひそめる自身の夢を見る。起きた後は、すぐに水への憧れが胸を覆った。丑三つ時、彼女は母親の部屋と呼ばれる場所に忍び込み、そこを見る腹づもりでいく。母親に会ったとしても、自分が素直に娘のように振る舞えば許されるものだと思っていた。
それほどまでに人との関わりについて純粋で、無知であると言えば言えるほどの子であったのだ。
扉を開けると、地下へ続く階段のようだ。それは真夏の夜のことであったけれど、道は涼しかった。やがて、ドーム状の部屋にたどり着く。
そこには静かで、小さな噴水があって、それが水を出している。周りには、蜘蛛の巣のように張り巡らされた小さな窪みがある。それで、部屋の周りは足場すら見つけられないような川のようだった。
晶子は、都会の川の水や町の隅にある噴水の音を下品だと思っていたけれど、森の奥にある川の音を聞けたとしたら、自分の心は安らぐと思っていた。その音が、その部屋にはあった。淡いオレンジ色の明かりが部屋を満たしている。
静かな噴水の音が反響し、木霊する。
ところどころ小さな、深みのある穴が空いていて、水浴びもできるみたいだ。そんな、深みがあるけれど小さいような、感動するけれど安らいでいるような、黄昏時のような部屋の雰囲気が晶子の体を包んでいく。
しかし、母の姿はどこにもなかった。
地面に崩れ、静かに晶子は泣く。美しい水の音を崩さないように、静かな音と調和するように。自分が素直でいるということより、晶子には水の音が綺麗である方が本能的に大事だった。
やがて祖母が他界すると、晶子はそこを自分の部屋にすることを決めた。母親への疑問を祖母に投げかけることは自分の、忍び込んだという罪を投げかけることであるし、聞くことはできなかった。また、祖母も進んで晶子に母親の話をすることはなかった。祖母は、水野の家の運命や、血の呪いというものから逃げるようにして死んでいった。
そのドーム状の部屋の音は、晶子の体の中にどんどん浸透していく。晶子は本を読むときも、寝るときも、学校から帰って落ち着きたいときも、自室となった噴水の部屋にいた。
晶子は高校に入る。
水の音に従って彼女は生き続けた。調和。柔軟な形。それに従っていると、彼女は人に認められることを覚えた。そして、自分のことを謙遜することも、誇り高くあることも。
彼女の母親であり、師であったものはずっと、子供の頃真夏の夜の夢として見た噴水に部屋だった。ずっとずっと、それが彼女の胸に響き続けて彼女を教育した。
そうして生きていくと、彼女は今に至る。
彼女が悪の組織に触れてどう変わっていくのかとか、藤実京介との恋でどう変わっていくのかは、また別のお話。
彼女の肖像は水の色。形を変える、誇りの色。ダイアモンドのような輝きと、光を変えるプリズムさながらに、彼女の物語はできていく。




