京介の「Gigue(優しさの輪郭)」とアルヘンティーナ。 『幕の内』
そういえば京介はこんな部屋に見覚えがあった。ちょっぴり頭の中で失われた記憶が見え隠れしていて、触れられそうでできないもどかしさが心の中でうごめいている。
坑道の中、道路はずれの一室。郊外、と言ってもいいだろう、この街は古い坑道を自動車の通り道として使っていたから。
「アルヘンティーナはずっとここにいるのか?嫌に生活感あるけど…」
「そうよ。私一人だもん、親は死んじゃったわ。でも幸せよ、こんなにたくさんのカーバンクルたちと暮らせるんだもん。」
「あのさ、色々わからない。詳しく教えてくれるか?カーバンクルのことも。」
京介はアルヘンティーナの踊りを鑑賞した時から、横たわるのをやめてあぐらで座っていた。その前にすぐアルヘンティーナが立っていたが、だいたい目線は同じだ。
「えっとね、うーんとね…
この街には新しい、王様、みたいな人が入ったの。彼はこの町でえっと…ええい!エッチなこととかお薬とか、そういう商売をやってる人と仲間なの。それでこの町の人々を自分の傀儡にするつもりよ。もう多くの人がその力に頼り始めてる。その力はやがてこの町のすべてを蝕んでいくわ、みんな本当の幸せのこと忘れちゃう…
それでね、カーバンクルは妖精よ。この子たちはここにいて、ずっとこの町の風の流れを見守ってる。だから今、怒ってるの。下世話な風がこのカーバンクルの洞窟に入ってきてるって。
でも彼ら、あなたのことは歓迎してるみたい。」
「お薬とかエッチなことって言うくせに、傀儡とか知ってるのか…」
「私だって清く賢く美しくのレディなんだから。しょうがないでしょ。」
「お前いくちゅ?」
京介は少しアルヘンティーナのことをいじくってみた。すぐに殴られた。
「っ…!!ざけんな男!女に年齢を聞く無礼を働くに飽き足らず…!」
「あぁ…悪かったよ…うん…」
京介はさも申し訳なさそうに自分の体を両手で抱き、目を伏せた。京介にとって他人とこう、おどけるのは初めてのことだったのだと思う。本当に悲しく、申し訳ないという気持ちで満たされた。自分に吐き気すらした。
京介の感覚はブラックマーケットへ行ってから、というのもあるが高校生にしては研ぎ澄まされすぎている。人とふざけあったりすることを許さない、それは空っぽで失礼なことだから。人と笑い合うことを許さない、それが本当の笑顔でなければ。
「あ…私もごめん…急に殴ったりして。そういえばあなた名前は?聞いておきたい。聞かせてくれる?」
「京介だよ。どこから来たか分からない京介。記憶のない京介。ごめんね、女性の名前を知っておいて名乗らないなんて。それだけ君の踊りとか、この場所は魅力的だった。」
彼の感覚は人の名前ということにも敏感な感覚を記した。彼はもちろん知っている、名前を知るということがある意味で相手を支配し犯すことであると。きっと現代の人間が避妊具を買うより恥ずかしい思いで、今はいたはずだ。
「そっか。それはその…嬉しくないこともないわ。
で?協力してくれるの?しないの?どっちでもいいけど。」
京介は今板挟みにされている。
もし自分をここへ連れてきた女の「用事」というものがこの街の長との会談であったのならここにいるカーバンクルというものやアルヘンティーナを傷つけていることに間違いない。そしてその会談の可能性は決して否めない、彼女はニューヨークでも麻薬売買に手を染めていた人間だ。
でも彼女が京介に見せた優しさの数々はどうなる?
ニューヨークの冷たい風、暖かいスクランブルエッグやベーコン、コーヒー。あの街の上の空中散歩。彼女がウィスキーをすする時に見せていた悲しげな表情。
ただ、二つの事実が対立しているに過ぎないが、京介自身は色々なものの矛盾を感じていた。
一方アルヘンティーナの方はどうだ。彼女の踊りを見た、この街を限りなく愛していて、そこに渦巻く問題の波に立ち向かっていこうとしているのは間違いない。
というふうに、明らかにアルヘンティーナの方を信じる材料が足りなかったが、その数だけで人の考えに甲乙つけるような人間では、京介はなかった。
もし京介がそう考えたのだとしたら、それは時間の流れや社会というものに屈することとなる。それは純粋な形を見ることにならない。最も未来人としてやって来て、帰らなければならない京介が負けてはならない問題である。
「どっちもって、できないの?俺はできると思うんだけど…例えばなんだ、お前この街の長が過去に囚われてるって言ったよな。そこが糸口になったりしないか?」
「無理よ。この世界は二つに一つ、そうしてできてきたじゃない。弱者が強者を蝕む、強者が歴史を作っていく。そういう束縛というか、決まりごとが人間にあるじゃない。知恵の木の実を食べたって、その罪のこと神様は言うけど。」
「じゃあお前、本気で踊らなかったんじゃなくて、踊れなかったんだな。信じてなかったんだ、愛のこと。」
京介は自分の言葉に頭が追いついていなかった、いったい自分は能力を得てどうしてしまったのだろう。これが能力の弊害なのか、そのままの力なのか分からない。ただ、今は素直に思っていたことを言った。だってもし、アルヘンティーナが誰かを殺したりするのなら、それは悲しい。カーバンクルは怒る、それだけは確実だ。
「あんた…!」
アルヘンティーナの瞳孔が開いた。
「あんたね!いい!?私は踊れるのよ!あんたが踊るに値しない人間だっただけよ!自分のこと分かってる!?ねえ!?」
芸術家ってどうしてこうなのだろう、まるで怪人だ。自分の作品を汚された時には。京介にだって、アルヘンティーナがどれだけ本気で踊っていたかはわかっているつもりだ。そう信じていた。
「アルヘンティーナ…気づかない?涙が出てる。」
その言葉をかき消すためとでもいうのか、アルヘンティーナは京介を押し倒し、殴りつけた。ものすごく痛かった、鉄の塊で殴られるみたいだ。何度も彼女は京介を殴ったし、それで彼は意識が何度も飛びかかった。でも失ってはならない、そう思って耐えた。
拳骨の連打が終わると、アルヘンティーナは天井を見上げて肩で息をしていた。
すっと彼女の顔が京介の胸に落ちると、つぶさにその吐息や、熱いものが感じられる。
「なんで…?今くらい私が怒ったら、カーバンクルたちだって怒るはずなのに…なんで…!あんたなんて死んでるはずなのに…!」
「君が本当は怒ってないから。君が持ってるのは汚いものじゃないから。純粋だから。」
「なによ純粋って…?」
「カーバンクルたちは悲しんでるよ…だってほら、君は自分の熱で自分の涙を隠そうとしてる。彼らだって分かってるんだ、君が愛すること、許すことすら信じられないって思ってしまう宿命のことを。運命のことを。」
「どういうこと…?もう分かんない、私分かんない…」
京介はそっとアルヘンティーナを抱きしめて、ゆっくりとその髪を撫でた。ザラザラしていた、いつ洗ったのだろう。
彼の手がおもむろに、ボロい布の中へと伸びていった。彼女の素肌に手の感触が伝わる。
これもザラザラしている。塗りたくってある白いもののせいだろうか。でも、触ると踊りを見ていた時は綺麗に感じた肌も、痛く傷ついている。
傷だらけだ、いくらもでこぼこした感じが京介の中に入り込む。
背中から彼女の臀部へ手が動くのにそんなに時間はかからなかった。
触れると柔らかい。プリンの中に小指を差し込んでいるようだ、そんな気がする。
優しさの輪郭。
ここだけは聖域だ、確かにそこまで犯してしまってものにしたいという欲求はある、人間には、なぜならそれが社会性の中にあっても唯一冒しがたい一線である故に。サド侯爵とか、そういう文学もある、それが認められることもある。
優しく綺麗な人間の身体ほど、無垢な心のことほど汚すことで自分の葛藤を満たしてくれるものはない。社会と自然、芸術の間の葛藤を。
しかし京介はそれを決して許せない、人がそこに例え優しさを内包しておらず、社会の波に穢れきった身体であるとしてもいけない。一瞬京介の思い立った文学にはシニカルで皮肉めいた部分があったかもしれない。
そう思った時アメリカで感じたような冷たい風が洞窟へ吹き込んだ。京介はただひたすらアルヘンティーナの素肌の背中をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だからね。安心していいよ。」
ずっと京介の胸に顔を埋めて、小さくなるアルヘンティーナを抱きしめ続けた。
部屋に暖房のようなものがかかる、どうやらカーバンクルを包んでいる繭から暖かい空気がぽんっぽんっと吐き出されているようだ。
ーもうっ…シュウキョウ的な恋をしてはいけないよアルヘンティーナ…いけないよ、アルヘンティーナ…
京介はカーバンクルたちの声を聞いた気がする。
京介は決心した、アルヘンティーナの踊りを完成させること、すなわちこの街にまた「本当の幸せ」を戻すことが自分の使命であると。




