アルヘンティーナは喜びか悲しみか、両方か『第二楽章』
「アルヘンティーナ!おい、アルヘンティーナ!止まれって!」
本当に少女の名前がアルヘンティーナなのか、よく分からなかった。
京介の直感はブラックマーケットに招待されてから研ぎ澄まされていた、世界の色、人の感情、すごく色々なものが自分の体の中へ入ってくる。
でも、目の前を走って逃げている少女が同質=同罪の人間であることは分かっていた。
ーこれほどまでに鮮明に、人の寂しさがが自分の中へ入ってくる。少女を追っているのは悲しみの残り香を辿るみたいだ。ぽつり、ぽつりと青白い坑道の中で放たれる、白いたんぽぽの種みたいな光を拾い集めていく。
そんな感じだ。
坑道の中は落書きだらけだった。狂気に満ちた有名キャラクター、ピカソの絵を戯れに真似てみたもの、日本の落書きとは一風変わっている。質は同じで葛藤や怒り、悲しいと思うことを当たり散らすものだけであったけれど、地域が違うからそう感じるということ以上に芸術性が感じられた。
ただのフラストレーションじゃない、
芸術の葛藤だ。真実は醜く見える、けれど人を喜ばせたいという本能に悲しむということ。なにか人間の宿命じみたものを感じる。すべての落書きがドストエフスキーの小説の一節みたいだ。
「反吐が出そうだ…」
京介は本当にそう感じていた。京介は今、この街に喜びが満ちるだけの悲しさを、この街の底を走ることによって感じている。
京介はもう、女に注意された通り、この街の悪魔に取り憑かれていたのかもしれない。
京介は走りながら一度吐いた。カタルシス。
もう一度叫んでみた。
「…アルヘンティーナ!」
しかし彼女は止まらなかった。
幾重にも張り巡らされた、坑道という迷宮の中京介は死に物狂いでアルヘンティーナを追って行く。走っているからか、少女を追っているからか、走行してくる車を避けるのは容易だった。ヘッドライトが奥の方で光れば、自然と体が避ける方向へ動く。
遠目にクラクションをたくさん聞いたが、今はそんな場合ではないと無視し続けた。
自分の足で走り、高速道路を逆走しているようなものだ。
走るほど、京介は気持ち悪くなり、時折転びそうになったが彼はアルヘンティーナを追いかけていく。
京介はついにある場所で転んだ。そこでアルヘンティーナも立ち止まった。
「アルヘンティーナ…」
「ねえ、大丈夫…?あの、ごめんなさい…」
緑色の光が、空間を満たしている場所だ。そこに京介は横たわった。アルヘンティーナが肩で息をしながら、京介に歩み寄る。
ここは丸い、部屋だった。
「アルヘンティーナ…?ここ、どこ…?」
京介は落ち着いた。
「カーバンクルの、お家。」
「カーバンクル?なにそれ?」
「うん、カーバンクル。あのね、カーバンクルたちは、人が喜ぶ分だけ悲しんでしまう生き物なの…だから、私はここで悲しい踊りをするの。カーバンクルたちが喜ぶように。」
「へえ…確かに、奇妙なほど楽しい街だよね…だから君は、あんなに楽しい時も悲しんでたんだ…素敵だなあ…」
「素敵?あなたも楽しんでたのに?」
少し、アルヘンティーナは横たわっている京介を睨みつける。
「いいや、僕もなんか知ってるんだよ…よくわかんないけど、君が必要だってこと。あの人たちの楽しみは、君の目の一点に支えられてるような気がして…」
ーそれでここまでして、追いかけてきたんだ。
京介は思いの丈を素直に吐き出した。
「なにそれ、馬鹿ね。私ね、舞踏を踊るのよ?知ってる?お兄さん。」
「なにそれ?」
「なんだ、教養のない人。今踊るから、ちゃんと見ててよね。」
彼女は身にまとっていたぼろの布切れを全てからだから剥ぎ取り、脱ぎ捨てると静かに、円形の部屋の中央に立った。裸になる。
彼女の体は布切れで隠していたところ全部、白い粉で塗りつぶされていた。
周りには無数の繭のようなものがある、カーバンクルというものなのだろうか。
踊りが始まる。
ーーー
彼女は嫌なほどまでに官能的な表情をしていた。笑、笑顔、全くその表情は歓喜、その言葉に尽きる。
彼女が、
「お母さん!」
と叫んで、自分の身を守るような動作を取る。
彼女の手取り足取り、全て脆そうで、風が吹いてしまえば消えてしまうような体だった。彼女の裸体は骨ばっていて、あたかも一つの糸が立って踊っているようだ。
どこかへ流れてしまいそう。何かを求めているよう。どこかへ行こうとしているよう。
人が美しいと思う感情、動作、言葉、全ての本質が彼女の踊りの動作に組み込まれているようだった。
例えば何かの思想に感動するとか、どういう結末が待っているのだからいいとか、そういう掃き溜めのような臭いものは脱ぎ捨てて、本当に美しかった。人間の甘えや醜さを超越している。
彼女の踊りを見ながら人の言葉を思い出せば、やりきれない怒りが自分の中に湧き上がってくる。だから身を任せてしまおう、この愛に。全ての、世界というものを脱ぎ捨てて。言葉なんて糞食らえだ。
人が恋をするとか、好きだっていうとか、みんな馬鹿げていてくだらないものだ。酷く醜い、ニューヨークで物乞いするホームレスの匂いよりも。
ーーー
京介は少しアルヘンティーナの踊りに嫌悪感はあったけれど、大方美しいものだと感じ、信じた。
「どうだった?本気じゃないけど…その、褒めてくれたら嬉しいかなとか。」
「わお、ブラボー。」
「もっと真面目に褒めてくれたっていいのに…」
「いや、でも本当にすごかったよ。綺麗だった。」
アルヘンティーナは京介の言葉に、ちょっとためらいを感じたけれど喜んでいるようだった。
周りの繭たちも少し動いた、もしかするとそれは途轍もなく神々しいもので、アルヘンティーナはこれに踊りを捧げるための踊り子なのだろうか。
「君はどうして僕をここへ連れてきたの?」
京介がそんな質問を投げかける中、アルヘンティーナはまた踊る前に着ていたボロ布を体にまとった。
「え?あなたが勝手に来たんじゃん。
でもね、あれ、カーバンクルたち、苦しんでる。この街に欲望が渦巻き始めたの。お金が欲しいって。
街の欲望は、やがて喜びとなり、カーバンクルたちを蝕んで行くわ。そしてその怒りがやがて、この坑道から吐き出されて人々の悲しみとなる。欲望が大きくなり過ぎれば私だって抑えきれないわ、抑えきれるのは自然の喜び、音楽とかそういうものの喜びだけよ。だからこの街は楽しいのよ。お金もないし、芸術が社会の欲望に支えられていないから。
それを抑える、その均衡と幸せを保つには異物の排除が必要なの。
だから、あなたが欲しい。あなたが来てくれてよかった。私と一緒にカーバンクルたちを守ってあげて欲しいの。」
「なにそれ?なにすればいいっての?」
「殺すのよ、この街の長を。彼はミイラから生まれた男、過去に囚われてる。彼をそそのかす女がいるわ、あなたが一緒に入ってきたやつよ。
別にそっちの女でもいいけどさ。
もう、それくらいわかってよね。」
アルヘンティーナは少し呆れて、ふくれっ面をしている。
ここに、この古都で美しいと思うものを守る人間、そして金を得ようとする人間、その対立が京介に見えた。
ローラ・ジニエステとアルヘンティーナ、それは敵同士だ。
お互い、面と向かって出会ったことはないのだろうけれど。
街に渦巻く意志の流れが彼女らの敵対関係を予言するものであるということは、能力を得た京介には容易に理解できた。楽しみも悲しみも、すべて布石だ。
「それで?あんたはどうするの、こっちの世界と向こうの世界、選んでよね。」
アルヘンティーナが京介に追い打ちをかける。
京介は生まれ変わり、やってきた街で決断を迫られていた。




