あなたの夢の、お話
「ゆめの、おはなし。」
「僕をこうしたのは誰?」
ーーー今あなたはなんて言ったの。もしかしてあなたは喋れないのですか?喋れない?口に出せない?口が動かないの?それとも言葉が考えられないだけ?
藤実京介は冷たい感触を身体中に感じて目を覚ました。しかしそれは一瞬だった。
どうやら彼は水の中にいるらしい、それもものすごく体温に近い温度の。どうして考えても、自分の肌と水の間にあるものが感じられない。
本当に水の中にいたけれど、彼はそうと思っていないようだ。あるけれどあるとは思って生きることのない、ありきたりの空気の中のようだ。
「おい!お前か、僕をこうして変な場所へ連れてきたのは。いいから帰してくれ、どうしてこんな場所に僕は来なくちゃあならないんだ、ごめんだよどこかへ行ってしまうのは。とっとと…うん?どこだったかな、とにかく帰りたい…」
どこかで返事が返ってきたような気がしたが、京介には一体それがどんな意味で、どんな音だったのかすらわからないのである。
ーーー君は?君の名前は?そう、お昼というの。怯えているのね。お昼だから。でも百円玉で買えるわ、あなたの名前。
何度も何度も京介の中で音がした。彼は考えた、声ってなんだ。それじゃあ音は?
「おいお前、喋れないのか?」
「はい。」
「十円玉って言ったか?」
ーーーいえ、音楽。
ドーナッツショップ。
アートショップ。
ジャンク屋。
思い出、死を背負った一匹の虫。
緑色のビール瓶。
「言っていいですか?真夏の海は…」
「雪化粧だ。そんなこと分かってる、とにかく僕を返せよ、お前。」
沈黙が流れた。途轍もなく長い時間、彼は海の中に沈んでいたような気がする。彼はずっとその海の中の、沈没船の瓦礫のような気持ちでいた。
しかしどうしてもその感覚に彼はやりきれなくなる時があった。
「お前はもうふざけるな!どんな言葉ではぐらかしたってしょうがないだろ、僕は今変な場所にいるんだ、僕は元に戻りたい。」
「ゆめの、おはなし。」
「馬鹿野郎!面倒臭いな!いいだろ帰ったって!なんとか言えよおい、ちゃんと会話しろ、声を出せ!」
「お前お前って果てには馬鹿野郎って、うるさいですねあなたは。人に物申す態度ではないですよ、あなたこそいい加減になさい。」
やっと彼に声が返ってきた。
彼には声の主の性別すら分からなかったけれど、どうしてもひどく生意気に思えた。だからそれは女なのだと思った。京介の中に自我が戻り始めている。
声は続ける。
「あなたが帰りたいと思うのなら、帰すわけにはまいりません。あなたをお連れしましょう、あなたの行くべき場所へ。」
京介は泉の中から顔を出して息を吸った。水の中にいた彼は顔を出して初めて自分が湖のような、室内の水中空間にいたのだと気づいた。
霧の湖。霧は見えないけれど、全く白っぽい場所で綺麗だということは目に見えていても、何も見えない霧の中の水面を歩いているようだ。
それでいて、空気が新鮮で気持ちいい、手の加えられていない森の奥底で息を吸ったみたいだ。
丸いドームのような場所だ、本当に本当に淡くて心地いい照明がどこかで灯っているようで、太陽の息吹を感じさせないのにも関わらず夕日の中にいるみたいだ。
しかし空気は湿っぽいのでなく水っぽい。初めて生まれた赤ちゃんの体内、惑星に初めて生まれ落ちた魚のように心が弾む。
こんな空間に人がいてはならない。
京介は水浸しの体を土の上へ上げた。歩いた。立ち止まった。
ーーー憎しみと優しさーーー
そして目の前にいた女性を力一杯殴った。
「お前のせいだな!お前が僕をこんな場所へ連れてきたんだな!」
女性は何も言わなかった。いや、女性というより少女だったかもしれない。彼は床に這いつくばった少女を今度は蹴り飛ばす。にぶい、肉の音や骨の軋む音が聞こえる。
彼は突然、普通はその音に罪悪感を感じるものだが、その音で音楽を奏でてやろうと思った。
ルルル、ルルっル。いや、そんな音は出なかったので頭の中でなった音楽を音に翻訳し直した。
ドッ、ドッ。グリッ。ズズズ。こりこり。バキッ、ポキッ。こりこり。足の先に、人の体の壊れていく音を感じることで京介の中には大変な快楽が生まれてくる。
彼は思った、人を傷つけなければ人と分かりあうことはできない。しかし傷つけすぎれば人は死ぬ、人とは社会や肉体というものに縛られて生まれ来るものであるということ。
「これは傑作だなお前!」
「バッハの…チェロ組曲…第6番の前奏曲。」
そう言われて京介はハッとした。自分が今していることはひどく醜いことだ、本能的には美しいことだしそれを固く閉ざす概念へのアンチテーゼとしても美しいことだけれど。それを美しいと言ってはならないものがどこかにある。
「アルマンド。」
そう、女性が言ったようにその葛藤やどうにもならない本能の感覚は落ち着いたアルマンドだった。
その女性は体をポキポキと鳴らしたりしながら、京介に踏みにじられた体のまま立ち上がった。奇形の体はだんだんと原型を取り戻していく。その様子はまるでピカソの絵の奥の奥が見えていくようだ。
ーーー情熱と罪ーーー
「クーラント。」
ありのままの姿になった女性は京介に口づけをした。どんどんと熱いものが彼の中に入り込んでくる、彼の中はどんどんと厚ぼったく不味いもので満たされていく。完全に熟れた果実をきっちりと噛み締めた時のように、体の中まで彼女の唾液が広がっていった。
彼はキスを不味いものと認識した。
唇を互いに離した時の音は、宇宙の果てまで飛んでいってもおかしくないように延々と続いていくようだ。
「真夏の海は雪化粧。
まだ。その波はあの坂を登るんじゃあないかと、あの波と幾度もすれ違うんじゃあないかと。ほら、むこうの彼ははまだこっちを向いている。幸せも知らずに、愛することもせずに、倦怠感だけを背負ってでもね、やっぱり怖いのよ。彼は共になったものが、本当は自分だけでないかとすごく心配なのよ。」
「僕が本当は自分だけかもしれないって疑うって?」
「ラララ、ララ、ラ」
「どうして君は歌うんだ!」
「少し火照った目の黒さは静かな、荒れた、海の色。こぼれ落ちそうな肌の中、貴方は溶けてしまいそう。私も溶けてしまうよう、その海の色。とほくの空の色、悲しい色。」
「あぁ。そうだね、溶けて仕舞えばいい。」
「サラバンド。」
サラバンドの言葉で京介は自我を取り戻した。ここで初めて「真夏の海は雪化粧」の意味が彼の中で分かった気がした。それにこの性の快感が、倦怠感だというのも嫌に納得がいった。
自我のある自己の中へ他者を引き込もうとする力のことは、やっぱり罪だ。それはとてつもなく痛い、自分のことであって自分のことではないから。
京介は別に自分の痛むことをいつまでも引きずっていたり、悲しいと思うたちの男ではなかったが、自我のある以上相手の心は分からない。しかし相手の心を分かるために自我を捨てるわけには、生きていくためにいけない。
だからそのために罪が存在して、人を求めることにそれ以外のことはないのだと一旦心を閉ざすこととなる。
ーーー愛ーーー
「ガヴォット。」
「あなたの名前は愛。」
でもやっぱり、京介は今の空間でいろいろなことを感じたが最後まで来てなにか優しいものを感じた。
「ジーグ。」
「あなたは女神様。」
5番目と6番目の音楽に耳をすませて、やっと全ての意味がわかったような気がする。彼は一体どんなことをしてきて、何があったかなどとうに忘れていたが…こんな気分になれるのだから全て必要なことだったなと思った。
やっと彼は美しいものと手を取り合ったような気になった。目の前にいる女性は女神だ、だから人間に全て今まで感じたものを感じさせてくれるものはいない。だからあんなに大勢人がいなければならないのだ、種の保存というものは社会的な保存方法ではなく芸術のための足掻きなのだと彼は思った。
ーーー
「あの…私痛かったんですが、最初の方。何かねぎらいの言葉くらいかけてもらえませんか?」
「ああ。僕が悪かったよ。」
京介は優しい気持ちに体を覆いつくされていた。本当に何が起こったのかわからなかったし、瞬きする間くらいの瞬間にいろいろなことが起こった。程度の認識でいたが夢の中で美しい音楽を聴いたような気がする。多分一時間くらいはかかった、結局京介は一時間というものがどれくらい長いかとか一時間だから一分と違うとかはどうでもいいと思うに至った。
多分、今の空間にあっては本当にどうでもいい。全ての概念というものが。
「いいですよ、許します、京介君。ところでパフェいります?甘くて美味しいですよ、まあ、食べちゃうと帰れなくなりますが。アボカド入りですよ。」
とりあえず京介は異界のものを食べるということが異界で市民権を得ることだと、どこかの本で読んだのは覚えていた。
京介はそれで笑った。いつか食べたことのあるメキシコの料理を思い出していた。
「アボカド?面白いなあ、でも確かに美味しそう。その面白みって、君の可愛さに似てるね。」
「私が可愛い?」
「名前は教えてくれたりしない?」
「あらやだ、本当に汚い人。名前なんて教えるわけないじゃない。」
ーーーないんだもの
「それじゃあ君は誰?僕は一体これからどこへ行くの?」
「大丈夫、私はあなたのことをうんと小さい頃から知ってるの。大丈夫、あなたがこの場所のことを覚えていてくれて、生きていてくれればきっとまた会える。本当に会える。
そう、ねえ。どこへ行きたい?」
「元の場所がいいってのは本音だけどね、どこでもいいさ。君のことを覚えていられるなら。」
「あらそう、それじゃあ本当にどこでもいいのね。だって私のことを覚えてるって、どこへ行ったって覚えていられるものだから、あなた次第でね。ぢゃあ本当に突拍子もない場所へ飛ばしてあげるよ!」
「おい、なんだか話がよく分からない。一体どこだ。」
「ふふん、ニューヨークよ。」
藤実京介のこの世界での意識はここで途絶えた。ニューヨークへ行くという記憶だけ残して。
すぐに彼は彼女のことを忘れた。




