藤実京介の災難
今晩は本当に夏の形相を呈している。
不思議なものだ、マーゴは散り行く桜をこの間見たというのに、こんなにも早く季節とは変わるものなのだろうか。彼女はこの季節の変化というものに大層驚いた。
未だ太陽は沈み切らず、遠い空にはほのかなオレンジ色が見え隠れしている。ひぐらしが鳴いていた。その声はどこか遠くへ人々を誘うようだ、耳の芯までその色で満たしてしまえばきっと死んでしまう。突然彼女は自分の国のことを思い出す。
しかし自国の風景はひどく無粋だなと思ってその片鱗に触れたものの、努めてすぐ考えるのをやめた。その景色は潔白すぎたから。ひぐらしの声はきっとその間にある。だから人のことを思い出すけれど、きっと思い出してしまえば途轍もなくくだらなくて醜いものだ。
少し足を止めてどうすればこの謎の虫の声がする、間の世界に行けるものかと考えた。そこは夕陽そのもの、愛憎の渦の目、桜の花びらが宙に舞う瞬間、脱構築。どっちつかずの一点へ行くこと、それは自由であることだ。自由であればいい、本当にこの世界のものはどうしても自立するものなどないのに、わけのわからない一点がありえてしまうのが間だ。たぶんずっとそこにいることはできないけれど、ただ今はひぐらしに耳を傾け続けた。
ひぐらしの声がやむころには夕陽も消えた、マーゴは夜に入る。
彼女は少しブラックマーケットのせいで夜出歩くことを恐れている節があったけれど、少し時間を置いてからでないと白川家に人が戻っていることはないだろうと思い少し歩くことにした。何せこの町にはファミレスやらコンビニやらといったものがほとんどないのだ、行くにしても片道二十分くらいはかかるのが悠と出歩いた時に分かっていた。
少し歩いたところでマーゴは見知らぬ人間に話しかけられた。
「あのぅ…この辺りに藤実京介さんという方はいらっしゃいませんかね?」
彼女は少し京介の名前を聞いて嫌な気持ちになった。
話しかけてきたのはイッテシマッタ男爵である。
「変なお面ですわね…まあよくってよ、彼はこの町の高校の正面にある旅館に泊まっておられますから、用があるのならそこで待っていらっしゃればお目にかかれるはずですわ。」
「ご丁寧にどうも…」
本当にマーゴは目の前の男の仮面にブラックマーケットの住人を思う節があり変だと感じたが、面倒ごとに関わる気にはなれなかったので軽くあしらった。イッテシマッタ男爵は丁寧にお辞儀をするとすぐに去っていった。
「一体日本の商人というのはあんな風なお面を被る風習があるのかしら…」
彼女は能の仮面を商人特有のものと認識した。
もちろんブラックマーケットの人たちと能のお面の顔が同じだったわけではないし、ただ似ていたというだけだ。お面の文化については変だと思わなかった。
イッテシマッタ男爵は逆にマーゴとは初対面であり、取るに足らない世間知らずの小娘と感じた。
「一体どうしてあんなお馬鹿さんな娘が裁きの銃をねえ…」
ーーー
イッテシマッタ男爵は思いがけずすぐに藤実京介と接触した。それは京介が校内から職員たちへの挨拶を済ませ出てきた時だ。学校がそばにあったので明かりはいなか町の夜にしては多い方だった。
「あのぅ…」
「おい、そんな変ちくりんな格好をしているといくら部外者の僕でも通報しますよ。」
やはり京介もイッテシマッタ男爵の能のお面に反応した、知識のあるものからすれば男爵の姿は変質者そのものだ。
「あのぅ…この辺りに駄菓子屋があると聞きまして、よければ案内をして欲しいのですが。」
「駄菓子屋?生憎だけれど僕は本当に部外者でこの町のことを知らないんだ、他を当たって欲しいな。」
「もしよければ私、大変臆病でして…夜一人で歩くのは嫌でして…よければ少しだけお付き合い願いたいのですが。」
「なんだって?田舎町にはお前のような阿呆までいるのか。いいかい、警察を呼んであげるからまず交番まで一緒に行くといい、その後駄菓子屋を探してもらうといいよ。僕はお前と歩くなんてごめんだ。」
その時イッテシマッタ男爵はニタリと笑い、先っぽの赤い棒を取り出してコンコンと地面を叩いた。
「藤実京介君…不安がありますね?あなたのズボンのポケット、制服だから入れっぱなしですね、手紙が。私は覚えてますよ、あなたと電車の中で会ったこと。」
「お前は盲目の…なのか?本当に?電車で会った時とは物腰が違う。でも事実だよ、確かに悩まされてるね。それでそれがなんなんだ。」
「それにもっと不安がありますね…いろいろな人に迷惑をかけられて大変疲れているご様子。どうです?いや、なに、ちょっとした解決方法があるんです。」
そう言って男爵は今度、ケタケタとしかし静かに笑った。京介は警戒したが自分の悩みや不安をことごとく言い当てられたこと、名前を知られていることなどで相手に興味が湧いていた。少し間を置いて彼は目の前の男について行くことを決意した。
特に会話も交わさず、ただ仕草だけでこちらへどうぞというふうに男爵はして京介を連れ回した。
三分ほどで駄菓子屋に着いた時、京介は目の前の男が道案内をしてもらいたいと声をかけてきたのではないと思うが早いか、藤の町から姿を消した。




