謎の大型犬の群れと大倉鏡花の「Silent Warrior(沈黙の使者)」(後編)
未だ雨はやまない。
晶子は避難用のはしごをあらかじめそれが設置できるよう用意されていた壁の突起にかけて、それを登っていた。さほど距離はなく日頃から運動に勤しんでいる人間ならば造作もなく登っただろうが、晶子にとってこれは難しかった。
風が吹くたび顔を伏せて立ち止まり、足を一つ上の段に運ぶたび滑り落ちてしまわないようにと必死になった。
決心を固めたとはいえ大きな恐怖心を拭えなかった。
たかだか高校二年生の晶子に大きな目的や夢があったわけではない。増してや家族とうまくいっていたり恋人がいたり、そういう人の指標が彼女の中にあって死にたくないと思わせていたのでもない。
ただ、逆に死んだらどうなるかわからない、死にたくはないという肉体的で単純な考えだけがあったのでもない。
なんだかわからないけれど、どこかに自分の好きなものがある気がしたのである。
それはもしかして藤実京介ともっと話をすることかもしれない、美味しい紅茶を飲むことかもしれない、悲しい恋をして自分が変わることかもしれない。ただ何かが自分を生の方へ生の方へと誘った。
特にこのいつ死んでもおかしくない状況と、悪天候の中にいるということでその感を強く持った。自分はそれに逆らって今しなくてはならないことがあるということである。
ゆっくりと、しかし確実に登っていく彼女の姿には彼女の気高さを見ることができた。やっとの思いで彼女は屋上にたどり着いた。
また息切れを起こしたものの戦況がどう変わっていくかわからない、晶子は全くの素人だったので焦り、すぐに院内へと続く扉を見つけ入った。
少し階段を降りて一つ下の階へ降りると、ところどころ天井や床が抜け落ちている場所があることを知った。晶子は三階から屋上まで上がり、今いるのは四階だ。初め隠れていた食堂を見渡せる穴を見つけると、見下ろし、自分たちの計画はそううまくいくものでないと分かった。
もう鏡花の眠らせた犬は目を覚ましており、四頭が食堂内を徘徊しているのが見えた。
それに群れの形も良く考えられている、おそらく見当たらない一頭は鏡花の今いる部屋の前で待機しているのだろうし、一頭一頭が群れの主人を中心に一定の距離を置いたまま歩いている。
ただの犬の群れではないらしい。
ここで晶子はまたしても恐ろしい考えに至った。自分がしなくてはならないのは取り巻きをおびき寄せ群れの長を孤立されることではなく、ゲリラ戦、ヒットアンドアウェイによる全取り巻きの排除。
(今までの作戦は群れが扉の前で待機していることを前提にしていました…しかしそれが動いているとなれば話は別、私が群れ扉の前へをおびきだせたとしても群れの長は遠くで指令を出すだけで直接手を下しに来ることはないでしょう。
動物にも主人という存在の重要さを理解する本能はあるはず…もちろん私に長を排除する能力はありません、そこは鏡花さんに任せるとして、しかし奴らの弱点はその長に頼りきっている点にあります。
恐らく奇襲を取り巻きが受けた時、長が命令し動くまでというラグタイムがあります。それに長の認識できない場所では完全な無力。大丈夫、屋上含め五階建ての建物の中を自由に使えるという利点が私にはあります。)
そう考えた晶子はまた、今が絶好のチャンスであるということも考えた。もちろん今の考えで状況を打破するつもりだ、それしかない。
すぐに見下ろした穴の上から、タイミングを見計らって近くにあった食器棚をなんとか押して動かすと、群れの中の一頭めがけて落とした。
本日二度目に聞くあの鈍い鳴き声で晶子は自分の攻撃が成功したことを悟った。
すると長の遠吠えとともに見当たらない一頭を除いて、三頭の犬たちが晶子の視認できる範囲から消える、すぐに四階へやってくるだろう。
しかしこれも晶子の作戦のうちだ、恐らくこれで一旦鏡花が部屋から出てくる、そして一匹しか見張りがいないのを知ると同時にその一匹を排除する。
さきほどの食器棚が落ちた音も聞こえるはずなのでいくらか不審に思われるだろうが、晶子は犬の群れが使う階段とは別の階段で一時下の階へ逃れ鏡花に作戦変更の旨を伝える。
恐らく犬の群れは上階から不意打ちを受けると学習してもう下の階へは戻ってこないだろう、晶子たちが犬の群れを無視して逃げ出すような音を出さない限りは。
しかしとにかく、もう取り巻きは二匹だけになるはずだ。
急いで晶子は階段を降りると元いた部屋へ向かった。
案の定一頭も部屋の前には犬が見当たらなかったし、死骸も見当たらず部屋の扉は元どおりきっちりと閉められていたので鏡花が自分がなにかしようとしていることを悟ってくれたに違いない。そして今見当たらなかった一頭は部屋の中で始末されているのだろう。
「鏡花さん!私です晶子です!今鏡花さんが倒してくれた犬と私の倒した犬、これで残り三頭になりましたが鏡花さんの能力が戻るまで私が時間稼ぎを行います!今度は私が呼ぶまで出てこないでください!」
ガンガンと叩き、聞こえるよう大声で言った晶子に鏡花は内側からコツコツとノックし返すだけだった。
なんだか呆れられているようだが状況は理解してもらえたらしい。晶子はすぐに近くにあった手術室の残骸からメスを見つけ、懐に持つと初め隠れていた食堂の草むらに戻った。
嗅覚と聴覚の鋭い犬から長く身を隠しているにはそこしかないだろう、そしてもう一度奇襲をかけなければならない。
鏡花が一度に相手をできるとしてもせいぜい二頭。まずは一頭を晶子が確実に仕留められる状況になってから鏡花を呼ぶ、その後にすぐ一頭仕留める。
そうすれば残った二頭は鏡花が部屋から出てきたのを悟って分断されるだろう、どちらがどちらに来るかというのは分からないが長が戦闘態勢に入るとすればもう一頭に指示を出しながらそうするというのは難しい。
実質戦えるのは長だけの状況になるわけだ。
(私の方へ長がくるとすれば鏡花さんにとって感覚のないもう一頭を仕留め、長との戦闘に入るのは造作もないこと。それに長の方が私に注意を向けているとなれば鏡花さんの一撃は不意打ちになるでしょう。
鏡花さんの方へ行った場合は単純に問題はありません、ただ保険として命令を受けられなくなった一頭を仕留めて私も駆けつけ、挟み撃ちにするのが妥当でしょう。とにかく私がそつなく三頭目をやれるかにかかっています。)
晶子は草むらの中で息をひそめた。
しばらくしてから晶子が階段を降りる音を聞き、四階の探索を済ませた三頭がまた食堂に戻ってきた。
「鏡花さん!!」
自分の隠れている草むらに一頭が近ずいたのを知るとすぐに持っていたメスで一頭の首元をかっ切った。晶子は高校一年生の頃授業で猫の解剖をしたことがあったので、生物を殺すことに不安はあったが急所はよく知っていた。
それになんだか取り巻きの四匹からは初めから生物じみたものが感じられなかったので、その手際は女性にしては見事なものだったのである。
初め、残りの二頭は晶子と鏡花に挟み撃ちにされたことを知って縮こまっていたが、すぐに二頭がかりで鏡花の方へ行った。野生の本能だろうか、晶子には奇襲しか能がないことをなんとか悟ったらしい。
「私の能力をなめやがって、犬っころども!」
すぐに走ってきた鏡花は取り巻きだった一頭をねじ伏せると、群れの長と対峙した。長はやはりすぐに飛びかかることはせず、様子をうかがっているようだ。
鏡花はそれを知ってすぐに相手の後ろへ「沈黙の使者」を回し、攻撃したらしい。
それは回避された。
(残り五秒…!)
今度は正面から。これも難なくかわされる。
4
次は鏡花が自ら殴りかかりに行ったが、犬も鏡花以外の者が自分を攻撃してくるのだと悟っているようで鏡花の攻撃を最小限の動きでかわすと次の瞬間の「沈黙の使者」による追撃は鏡花の足の間をうまく潜り抜けてかわした。
本能だ、この犬はどうすれば相手の攻撃をうまく避けられるか知っている。そして「沈黙の使者」についても動物にとっては見えているも同然らしい。
もしかしたら鏡花の能力に稼働限界があることも知っていたのかもしれない、反撃してくる様子がない。確かに犬の力で対象を仕留めるのにはいくらか時間がいる、食らいついたところで攻撃を食らえば終わりだ。
2
「くそっ!こうなればヤケクソっ!」
鏡花は今の攻撃の交錯の中、「沈黙の使者」に自分に攻撃を加えるよう指示した。すぐに鏡花は眠りにつく、犬はすぐに鏡花へ向かって飛びかかった。
1
晶子は本日三度目の鈍い鳴き声を聞いた。そして吹き飛んだ犬が眠りについたのを確認する。
0
鏡花自身知っていたのかは分からないが、能力さえ発動してしまえば能力者が戦闘不能に陥っても自立して動くタイプの能力だったらしい。
晶子はまず、それを喜ぶ暇もなく眠っている二頭にメスでとどめをさすと、返り血を浴びて土の汚れなどで汚れきった服のままどう帰ればいいのか悩みつつ、鏡花が目覚めるのをそばで待つことにした。
どうしようもなく、自分は生きているのだという感動が晶子の中に生まれた。




