藤実京介という男
「はぁ?慈善事業?」
「そう、ボランティア、みたいな。旅費は出すし私が見込んだ一流の旅館を予約…滞在費は私が出すよ。給料十万円、ってとこかな、それを一人旅に使ったと思って。ちょっと近くの高校に講義に出かけるだけだよ君は。」
放課後の教員室に西日が差している。
中年の女教員、萩原京子が居座るこの個室には、やたらと高級感の溢れる音楽の機器から流れる古いアメリカのフォークソング。
萩原は顔の幅に合わない、年甲斐のない緑色のメガネをしきりに直しつつ、真っ黒なソファに仰向けで話していた。彼女の手の内にある分厚い外国語の古本には、外されていない「100円」の値札がついたままだ。
窓辺に見える木の葉はさらさらとして室内に無数の影を落としている。
「ご存じ君が入部を決めたうちの弁論部はね、この頃全く実績がない。私の就職当時は全国の部門ごと、賞状を総なめにしたものだけれど。今年は私が顧問、君は優秀。丁度いい旅行ついでの洗礼だよ。学校も公欠。」
メガネを直すたびに間が置かれるのは彼女の癖だ、買い替えないあたり自分でその調子を気に入っているようだ。
今度は直さないまま横目に、立ったままの生徒を見た。
「藤実君、君、勉強しなくても試験に支障は出ないそうじゃないか。推薦試験の面接官だった私の友人が
あの子は頑張ってるように見せるのは得意だけど、実は頑張らないでも点数取れる子なんですぅ〜
ってね、言ってたよ。昨日成績の発表がなされた試験は学年トップ、私の試験以外満点。
それでも他生徒から反感を買わないあたり、本当なんだねぇ。
ちなみに私の試験は赤点だったから、行ってもらえたらボーナスで追試はなしにしよう。どうせペーパーでやってもらっても取れない点数だから、追試代わりでどう?」
「ふざけないでくださいよ、大体大問1”新入生諸君へ♡京子ちゃんのテストだよ!好きなものについて時間いっぱい記述せよ”、それ以外白紙。なんて試験として成り立ってると思って教員として恥ずかしくないんですか?しかもあなた、体育科教員で保健の試験出題者ですよ。」
「それじゃあ来期の試験、半分知識問題にしてあげようか、そういえば満点の子いたなぁ?」
そんなことを言いながらも不敵な笑みの一つすら浮かべず、読書に耽って喋る萩原は一体どれほどの生徒を手玉に取ってきたのか計り知れない。
勉強せずとも生涯満点以外の試験なし、ペーパーテスト免除の推薦試験で最高峰の進学校に入学までした藤実京介でも、萩原のような教員の存在は予想だにしていなかった。よもや入学後初の定期試験、保健教科で0をつけられようなどとも。
京介は萩原を最悪まで嫌悪していた。しかしそれ以上に、嫌悪感というものを表に出すことが、何ら益をもたらさないものであるということを知っていた。
京介の中の自我は、幼稚園という他者の社会へ入り込んだ時から、死んでいたと言っていいだろう。驚くべき事実である、それが藤実京介の天才たる所以である。
その京介に今、なにが最善の選択であるかは明白だった。
「旅費全額負担、来期試験のハンデ、公欠。それでいいんですね?」
「そう、約束しよう。今私が直筆の誓約書を書いて君に署名をもらう、君が保管する。不備があった場合それは君の自由に利用していい。」
「それで僕の旅先での課題は?」
萩原は仰向けの体勢から机に向き直り、京介が弁論部の新入部員としてなにをすべきか説明した。自分の好きな演題で指定の高校において、質疑応答含め演説をすること。ついでに旅行を楽しむこと。
「君の旅行は次の月曜日から。
ところでさっきまでかかってたcd持ってく?」
「いいですよ、フォークソングなんて聞いてると魔がさすでしょうから。」
「魔がさすって知ってるんだね。」
京介は片手に一つずつ、差し出されたcdと誓約書を後者のみ受け取り一礼して教員室を後にした。
それでも今度の旅は魔がさすための旅。
萩原はそう呟いた、彼女はそれに京介が自分で気づくためには魔がさしていなければいないと思い、そのとんでもない矛盾に苦笑した。その面白みで言葉は、聞こえるはずのない囁きにとどめた。
萩原は「田舎の人の質疑は面白いかもしれないよ。」といって京介に誘いをかけた、それを思い出し、帰りの支度に入る。
今日は金曜日。