13. 問題発生
なかなか、内容がまとまらず遅れてしまいました。
楽しみにしていた方、申し訳ありません。
ベースキャンプは沢が流れる場所から少し離れた小高いところにある。沢に近すぎると急な増水に対応する事ができないためだ。
沢の水はサラサラと流れ、あまり水深が深くないのもあるだろうが、非常に透明度が高く水底までよく見通せる。サァーっと水が岩に打ち付けられる音が響き渡り、耳を澄ませばポチョっという水の泡が弾けるような音も聞こえてくる。水はまるで生きているかのように沢を元気に下って行く。僕はそこに水の精を幻視していた。
僕たちはキャンプに戻る前に沢に水を取りに行き、それを浄水器にかけることで飲水を手に入れる。ここ数日の日課みたいなものだ。
浄水器を通した水はペットボトルの容器に入れて保管する。僕はそこから一口分の水を口に含む。水は乾いた喉を潤し、食道を通して胃の中、五臓六腑にじんわりと広がっていく。僕は噛みしめるように水を飲み続ける。
美和さんも僕と同じように味わうようにして水を飲んでいる。一日中神経を使い、体も酷使されるような環境では、普通の生活では当たり前のように行っている水分補給の有り難みも違っていた。
水分を十分に補給した後、再びベースキャンプに向けて歩を進める。と言っても、狩場から沢への移動距離を考えたら殆ど移動していないのと同じような距離だ。泥濘んで歩きにくい地面を、転倒しないように一歩一歩踏みしめるようにして進んでいく。
ベースキャンプの目前まで来た僕は違和感を感じ、後ろを歩いていた美和さんに停止の合図を送る。
『誰かいる?』
ゴソゴソとテントの辺りから物音が聞こえる。荒らされると困るため、ベースキャンプには最低限の獣避けとしてネットを張っていたのから、獣である可能性はかなり低いと思うのだが……
しかし、その推測は間違いだったようだ。灰色の毛皮がテント越しにちらりと見えた。体躯はかなりの大きさに見え、恐らく熊だと思われる。ネットも張られているテントを襲撃するというのはかなり不自然な状況だと思うのだが……
僕は危険がある旨を表すハンドジェスチャーを美和さんに送る。
「あれはツキノワグマね」
美和さんが音を立てないように僕の横に移動して、小声でそう教えてくれる。ツキノワグマは非常に鼻が利く――犬よりも敏感とも言われている――ので普通に考えれば僕達に気づいていそうだが、風向きの関係で幸か不幸かまだこちらの存在に気づいていない。
「あのツキノワグマは人の匂いを恐れていないようね。そうでなければテントの中を物色なんてしないわ」
つまり、熊が僕達の居場所に感づけばすぐに襲ってくる可能性がある。ツキノワグマは草食寄りの雑食と言われているが、空腹時にはどうなるかは分からない。こんな山奥の木の実なども豊富にある状況で食料に困っている熊がいるのか、と言われると非常に疑問だが、そこに存在するという事実は変わらないので何かしらの対処をしなければならない。
そうでなくても、人間の持ち物の味を占めた熊は危険だから殺さなければ今度は人間が襲われる可能性もある。生きるか死ぬかの世界で可愛そうだから殺さないでおく、といった考えは簡単に身の破滅に繋がると美和さんに口酸っぱく言われていた。
「安全の為にも今回は私が始末するわ」
そう言うと、美和さんがツキノワグマを瞳に捕らえたまま、集中を始める。
動物的本能で身の危険を感じたのだろうか、熊が周辺の様子を伺い始める。だがもう遅い。
ツキノワグマの頭上を囲うように計十本の氷のダガーが出現し、一斉にツキノワグマの頭部から頸部目掛けて襲いかかる。一瞬の事にツキノワグマは反応する時間もなく、ダガーを全て喰らい生命のスイッチが切れたかのように地面に崩れ落ちる。
美和さん曰く、得意技の氷剣舞踏だそうだ。
「一応、他にも動物が居ないか確認しておこう」
「私も援護するから、行きましょう」
僕と美和さんは周囲を警戒しながらもテントに近づいていく。幸い他の動物は居なかったようで、問題なくテントにたどり着くことが出来た。しかし、テントの中を見た瞬間僕の体は硬直する。
テントの中は完全に荒らされていた。リュックサックは何箇所も裂けている部分があり、中身の物はテント内に散乱していた。更にリュックサックの中に入れていた緊急用の乾パンなども食い荒らされていた。密閉されていたはずだが、中身が綺麗に食べられていた。テントの側面には分かりにくいが縦に大きな切れ目が入っていて、雨風を凌ぐというテント本来の機能は完全に失われていた。
「これは酷い……」
僕の口から出た最初の言葉は気が抜けて、まるで他人事のようなものだった。
「これは……サバイバルの続行は現実的ではないわね」
「緊急用の食事もやられちゃったし、何よりもテントが壊れてしまったのが辛いね」
美和さんの次を意識した言葉に、僕の気持ちも戻ってくる。これ以上のサバイバル特訓の強行は、本当のサバイバルになりかねない。
「他の動物が来るとまずいから、ツキノワグマの解体は僕がやっておくよ。美和さんには、道具がどうなっているのかを確認してもらってもいいかな」
「私もそのつもりだったわ。悪いけど、外の片付けはお願いね」
僕は一人でテントのすぐ近くに倒れているツキノワグマの解体に向かう。と言っても取り敢えずは枝肉にするだけだ。
ツキノワグマの体長は1メートルを超えており、引きずるのも困難なほど重く、木にぶら下げるのも含め、解体にはかなりの時間がかかりそうだ。
解体を始めてから半刻、狩猟刀を使って四苦八苦しながら解体していたが途中で合流した美和さんと協力して、どうにか解体が完了した。その後、内蔵などの部位などをテントから離れた場所に捨てて来た。鳥達が綺麗に食してくれるだろう。
そのまま枝肉を野ざらしにしておくのは不味いので、取り敢えずシートを掛けておく。最もこの量を食べ切ることは出来ないので、余った肉は置いて行くことになるだろう。自分たちの都合で殺しておいて、自分たちの都合で肉を放置して行くだろう事には心が傷んだが、現代社会で無為に捨てられている食べ物、食べられるためだけに育てられ殺されていく生き物のことを考えれば、その痛みも和らいだ。僕たちが普通に生きている時のほうが、よっぽど酷いことをしているのだ、多くの人が直接手を汚していないだけで。
僕たちは大穴が開いていたテントの中に入り、顔を合わせる。縦に入っていた大きな穴は、美和さんの手によって応急処置されて取り敢えず塞がっていた。
「不味いことになっているわ」
「何かあったの?」
現状でもベースキャンプがむちゃくちゃになって、十分にまずい状況なのに、更に何かあるのだろうか。
僕の胃はキリキリと痛み始めていた。
「……実は、帰るために必要な一帯の地図が無くなっていたわ」
胃が思いっきり掴まれたかの様に痛んだが、冷静に考えるにつれその感覚は収まっていく。
「地図がないと帰るのは難しくなるけど、GPSもあるんだからどうにかなるんじゃないかな」
「確かにこの付近は高低差が激しい地形も無いから、普通だったら私達が住んでいた地点の経度緯度を目指していけば着くかもしれないわ」
「……普通だったら?」
「そう、普通だったら何も問題は無いわ。ただ、この森はちょっと普通じゃないところがあるの……」
「……それは?」
僕は再び痛み出した胃を無視して、拳を握りしめながら聞き返す。手のひらは既に汗でびっしょりと濡れ、額からも汗が吹き出ていた。
「この森の一部の空間は不自然な形で接続されているの。つまり、闇雲に移動していると見当違いの場所に移動してしまうわ。だから私達はこう呼んでいるわ――」
あぁ、つまりこれはゲームでよく出てくるあれと同じという事か。その名は、そう――
「『迷いの森』」
ついに冒険ファンタジーっぽいところが出てきました。
猟やサバイバルに関する知識がほぼ皆無なので、調査はしていますが色々と描写が怪しいです。
間違い等ありましたら、感想でご指摘していただければ幸いです。