日記
9月10日
朝夕の寒さ身に沁むばかりなり。政府戒厳令を発布すれども治安揚々回復せず。群狼の如き輩、陋巷を跋扈し、非道の極みを尽くせり。見えざる放射能の脅威迫り、人心の乱れ覆い難し。何のかのといふ中、生きのびたれどさして嬉しくもなし。徃事茫々すべて夢の如し。
9月16日
早朝、自警団会合に赴き射撃のけいこをなす。午下帰宅。寝に就かむとする時、一郎起床し、地下室より出で来る。「地下室のボク」執筆にいそしみたれど、筆進まず裂き棄てたりといふ。昼夜逆転の暮らしぶりなり。快活なる紅顔の少年、1年余にして別人の如くなりぬ。世情混迷の折、作家への夢終えんとする兆しなり。
9月18日
風雨。
9月19日
雨晴れしが風未歇まず。残暑再び燬くが如し。日暮風歇みて一天雲翳なし。仲秋の明月鏡の如し。虫の音日中の暑さにいつもより稠くなりぬ。久しぶりに一郎と晩餐ともにし、歓談す。お父さん、会津若松城への旅行憶へておいでですかと真顔にて問ふ。あすこで陛下にお会いしたのは、うれしひ思ひ出だ。わたくしを正統の落胤とお認めになられた。お父さんには育てと親としてひとかたならぬご恩を戴いた。皇位継承の折は必ずや孝行をなします云々。一郎滔々として虚妄に操られし言を吐く。狂気昂進の徴明らかなり。与俄に悪寒を覚え、早く寝に就く。
9月24日
雨ふりて寒し。単衣に襦袢を重ねてきる。
9月27日
藤沢博士来訪。夜座右の火鉢にてともに煙管を喫す。電燈明滅すること数次なり。博士曰く一郎の病状芳しからず、仕切りに入院を薦めらる。一郎は精神に宿啞を抱えたり。自らを皇統と称せるはキチガイの一典型といふ。
10月1日
微雨。一郎を連れ「光の家」を訪ふ。巫女さして美人といふほどにはあらず。されど、何となく林真理子を思ひ出さしむる顔立ちなり。帰路病みて路傍に死する屍数多目撃せり。弔う者とてなき有り様まさしく末法の世なり。
10月3日
入院を明後日に控えしが、一郎失踪す。書き差しの「地下室のボク」なる草稿、地下室に捨て置かれたり。