フェイド・トゥ・レッド
30分ほどで診察は終わった。
特に変わったことは何もなかった。小林一郎は、30分の問診を振り返ってみようと努力したが、何も思い出せない。
藤沢先生は診察を終えて、満足そうに新しいタバコに火をつけた。
「ところで、精神安定剤はちゃんと飲んでいますか」と藤沢先生は質問した。小林は飲み忘れたような気もするが「はい。飲んでます」とだけ答えた。
藤沢先生は机の引き出しを開け、カプセルを取り出した。「ボクものまなくっちゃなあ」と先生は言って、ポイポイと2錠を口に放り込んで飲み下した。机の上にある汚いコーヒーカップに入っている得体のしれない液体をチェイサーのようにあおる。
精神科医も大変な仕事であることを小林は理解している。狂った精神たちと対峙するのは、骨の折れることだ。
藤沢先生の疲れた中年の顔は、だがしかし、常にアルカイックスマイルが浮かんでいる。
「それから、君は本を読むのが趣味だと言っていたね。だったら、お勧めがあるよ」と藤沢先生が語り出した。
「えーとね、海外の作品なら『チボー家の人々』かな、日本のだったら『人間の條件』がいいよ、五味川純平の。月刊誌だったら『婦人公論』を読むといいよ」
「『婦人公論』ですか? 嫁姑問題に詳しくなれますね」
「あっ、間違えた。『中央公論』だった。時事問題とか詳しくなれるよ」
「ありがとうございます。読んでみます」と小林一郎は答えたが、多分、それらの本を読むことは生涯ないだろう。小林一郎は人に勧められた本を絶対読まないという、つむじ曲がりの意固地な性格なのだ。
「それから君、これから閉鎖病棟を案内してあげるから、見学したまえ」と藤沢先生は席を立った。
小林は藤沢先生の後について閉鎖病棟へ向かった。鍵が開けられ、中に入る。小林が抱える心の闇とはちょっと違う本当の狂気の姿があった。
照明のためか、人も壁もなにもかもが赤っぽい印象だった。