煙
受け付けを済ませ、診察室のドアをノックすると、「どうぞ」といつもの藤沢先生の声。
室内に入った途端、小林一郎の鼻腔をタバコのヤニ臭さが襲う。
ニコチンで茶褐色に染め抜かれた歯を見せながら、藤沢先生は笑顔で小林一郎を迎える。「どうだい、調子は?」あいさつ代わりの言葉。「まあまあです」という小林の返事が終わるか終わらないかのタイミングで、藤沢先生はハイライトを咥え、躊躇することなく外国製の細長い金色のライターをカチッといわせ、火をつける。
肺の奥まで、紫煙を送り込み眉根を寄せて、ニコチンタールの中枢神経への作用を楽しんでいる。幼子が母の乳房に吸い付くときのような甘美な雰囲気をまといながら。
医者の不養生というが、こんなヘビースモーカーの医者は今時なかなか珍しい。診察室で煙草をすうなんて本当はあってはいけないことだ。
藤沢先生は小林一郎の顔を覗き込み、タバコの箱を小林の前に突き出し薦める仕草をする。小林は手を上げて断る。やっと、我に返ったみたいに「君吸わないだってねえ。めずらしい」とどこかの原住民を見るような目をする。
一応換気はしてあるものの、先生のチェーンスモーキングは一本に火をつけたまま、2本目に火をつけ、さらに3本目と続くので灰皿の上には常時3本ほどのタバコがくすぶっている。灰皿はすぐにてんこ盛りになる。
小林一郎はタバコが好きだった祖父を思い出した。キセルタバコをいつも旨そうにくゆらせていた。キセルをと火鉢の縁に「カーン」とたたきつけ灰を落とす仕草が目に焼き付いている。小林は子どものころから祖父が吐き出す猛毒を浴びて育ったわけだ。
ヤニ臭さに免疫があるので平気だ。藤沢先生が吹き上げる紫煙の渦に巻かれても特にどうということはない、むしろ懐かしい。
小林一郎は「嫌煙運動」なんてクソくらえだと思っている。
「きょうも元気だ、タバコがうまいですね、先生」