生贄の子羊から肉汁をすすり
小林一郎は、小菅に「ちょっとトイレいってくる」と声を掛けてベンチを立った。
平林と冗談を交わしていた馬主の轡田はちょうど話を切り上げ、帰ろうとしていた。小林一郎とすれ違いざまに「じゃあな、小林少年」とにこやかに肩をたたいてきた。小林は「ご苦労様でした」と言って会釈をした。
小林はトイレに入り、鏡の中の自分の顔を眺めながら、ポケットからエチゾラム0.5ミリグラムの錠剤を取り出し、蛇口の水で飲み下した。きのうだったか、おとといだったか、藤沢先生が処方してくれた精神安定剤だ。
心を落ち着かせて思考を整理しなければならない。
不景気な世の中で、羽振りがいい馬主の轡田は、水面下で何か悪事を行っているに違いない。そうだ。轡田はきっと「悪の権化」だ。
小林は、状況証拠すら整っていないにもかかわらず、馬主の轡田に対して、根拠のない薄っすらとした憎悪を抱き始める。
こんなショボくれた地方都市で、なぜに轡田は羽振りがいいのだ。何か裏が。
裏世界を牛耳る悪の秘密結社。宗教団体を隠れ蓑にした資金集め。陰ですべてを操る轡田。悪の組織は、産廃不法投棄、薬物密売、裏カジノなど裏社会のあらゆる分野で勢力を張り巡らせている。
地元警察は莫大な賄賂で骨抜きだ。
産業廃棄物を満載にしたダンプが、大河の源流にある「不法投棄銀座」へ猛スピードで突き進む。
ダンプの荷台からゴミの山が闇の穴倉へ雪崩を打って落ちていく。小林の安息の場所である地下室に通じる「聖なる穴倉」が穢れた廃棄物で埋め尽くされていく。
小林の頭の中には、T-REX「20th century boy」のギターリフが繰り返し鳴り響いている。轡田の秘密結社が行う数々の悪事を白日の下に暴き出してやらねば。
轡田はそのころ、愛車のレクサスを運転していた。平林を夕食に誘ったら、意外とすんなりOKが出た。
カミさんにばれたら、大目玉を食うかもしれない。轡田は今日はとりあえず食事だけだから大丈夫だろう、と自分に言い聞かせた。
「轡田さんて、こういうのよく食べてるの」
「いや、たまにだよ」
「私、トスカーナ料理って初めてよ」
「この子羊は絶品だね。さっきの水牛のチーズもうまかった」