【短編】逃げ場のない、距離。
昼下がりのキャンパスは、ざわざわしていた。
アイカは人混みの中で、いつも通り笑っていた。
短く切った金髪が揺れて、耳元のピアスがきらりと光る。
明るくて、ノリがよくて、声をかけやすい――そう見えるように、ちゃんと振る舞っている。
「アイカ、今日も元気だね〜」
「え〜、なにそれ!当たり前じゃん!」
軽い調子で返す。
こういうやり取りは、もう癖みたいなものだ。
誰にも嫌われたくない。
だから、笑う。声を張る。冗談を言う。
それが出来ている限り、アイカは“大丈夫な人”でいられる。
「……あ」
ふと、視線の先に人影を見つけて、アイカの声が一瞬だけ詰まった。
ミフユだった。
少し離れた場所を、静かに歩いている。
さらさらとした茶色の長い髪。背筋の伸びた立ち姿。
表情は相変わらず淡々としているのに、それだけで目を引く。
「あの人がミフユさん?」
隣にいた女の子が、小声で聞いてくる。
「うん、そうだよ」
「やっぱり綺麗だよね……近寄りがたいけど」
アイカは笑って頷いた。
その言葉に、少しだけ誇らしさを感じてしまった自分に気づいて、胸がきゅっとする。
――ミフユは、私の。
……違う。
その続きは、飲み込む。
「アイカって、ミフユさんと一緒に住んでるんだよね?」
何気ない調子だった。
だからこそ、心臓が跳ねる。
「う、うん。まあ、事情があってね」
「恋人……とかではないんだ?」
一瞬、空気が止まった。
「ち、違うよ!」
反射的に声が大きくなる。
「ただの同居人!本当に!」
嘘はついていない。
でも、全部を言っているわけでもない。
「そうなの?でも、それってちょっと誤解されやすいんじゃない?」
「ほら、ミフユさんってさ、結構人気あるからさ〜」
「同居してるって聞いたら、周りは色々言うかもだし」
「え、でもさ」
別の子が、何気ない調子で口を挟む。
「正直、同居してるって聞いたらさ」
「もう彼女みたいなもんだと思っちゃうよね」
悪意はない。
むしろ、軽い冗談のつもりなのだろう。
アイカは、笑った。
反射みたいに。
「はは、ないない!」
「ほんとに、そういうのじゃないから」
自分で言っていて、胸の奥が少し冷えた。
「そっかあ……」
「でも、ミフユさん狙ってる子、結構いるよ?」
知ってる。
言われなくても。
ミフユが一人で歩いているだけで、視線が集まることも。
声をかけられているのを、遠くから見たことも。
それでも。
「……まあ」
「それは、本人の自由だしね」
声は軽かったはずなのに、胸の奥に小さな棘が残った。
誰かがミフユを好きになるのは、当然だ。
自分より可愛くて、優しくて、ちゃんとした人なんて、いくらでもいる。
――いつか、見限られるかもしれない。
その考えが、いつも頭のどこかにある。
気づくと、視線の先でミフユが立ち止まっていた。
こちらを見ているかどうかは、分からない。
「……アイカ」
低く、落ち着いた声。
振り向いた瞬間、胸が少しだけ緩んだ。
「帰ろう。ごはん行こ」
それだけ。
理由も、説明もない。
でも、その一言で十分だった。
「……うん」
アイカは笑って頷いた。
外向きの、いつもの笑顔で。
その横で、ミフユの手が、さりげなくアイカの腰に添えられる。
指先が、逃げ道を塞ぐみたいに添えられる。
逃げないように。
誰にも渡さないように。
その意味にアイカは気づくこともなく、歩き出す。
胸の奥に、不安を抱えたまま。
部屋に戻ると、外のざわめきが嘘みたいに消えた。
玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
靴を脱ぐ動作すら、アイカは少しぎこちない。
部屋に着くなり、アイカは鞄を床に置いて、そのまま洗面所に向かった。
ふと、視界に移ったリビングに目をやる。
そこには二人分の生活の痕跡があった。
揃いではないマグカップ。
ソファに無造作に置かれた、アイカのパーカー。
ミフユの本棚に、いつの間にか混ざっている漫画。
誰かに説明しようとすると、途端に曖昧になる関係。
それでも、ここには確かに居場所があった。
アイカはそれを見るたび、
安心と不安が、同時に胸に広がる。
今はとにかく、ミフユに何か言われる前にシャワーを浴びたかった。
今このまま同じ空間にいたら、きっと顔を見られない。
服を脱ぎ、蛇口を捻る。
勢いよく落ちてくる水音が、思考を塗り潰してくれる。
熱めの湯が、肩に当たる。
じん、とした痛みが走って、それが少しだけ心地よかった。
「……はあ」
無意識に、息が漏れる。
鏡は曇っていて、自分の顔はよく見えない。
それが、ありがたかった。
――恋人じゃない。
さっき言った言葉が、遅れて胸に突き刺さる。
嘘じゃない。
でも、言い切ってしまったことが、怖い。
縛ってる、なんて言葉。
自分が一番、そう思っていた。
ミフユの時間を奪っているのは、自分だ。
泣いて、甘えて、離れられずにいるのも、自分。
なのに。
シャワーの音に紛れて、喉がひくりと鳴った。
「……今日は、泣かない」
何度も破ってきた約束を、もう一度だけ胸に置く。
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
泣いたら、また迷惑をかける。
泣いたら、また縋ってしまう。
そう分かっているのに、胸の奥は熱を持ったままだ。
髪から滴る水を拭いながら、アイカは何度も深呼吸をした。
吸って、吐いて。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
そう言い聞かせて、シャワーを止めた。
――タオルで髪を拭きながら洗面所を出た、その瞬間。
「……アイカ」
ミフユはアイカの視界に割り込むように顔を出し、無言で距離を詰める。
声は低く、落ち着いている。
大学の構内と変わらないはずなのに、ここでは、逃げ場がないほど近い。
唇と唇が触れそうな距離、考える前に息を吸わされる。
「さっきのこと」
その一言で、胸が締め付けられた。
「……聞いてた?」
問いかける声は、笑いを作れなかった。
少しの沈黙。
ミフユは、視線を逸らさなかった。
彼女は否定もしないし、肯定もしない。
「途中から」
それだけ。
アイカは、それ以上何も言えなくなった。
喉の奥が、ひりつく。
「ごめん……」
反射的に、そう口にしていた。
「恋人じゃないって言ったのも……」
「ミフユに迷惑かけたくなくて……」
「縛ってるって思われるの、嫌で……」
言葉が、ばらばらに零れる。
「ミフユ、モテるし……」
「私なんか、その……」
「いつか、いなくなるかもしれないし……」
最後の方は、声になっていなかった。
息が、浅くなる。
胸が苦しい。
空気が足りない。
「……アイカ」
名前を呼ばれた瞬間、膝が抜けた。
そのまま、ミフユの胸に額がぶつかる。
支えられる感覚。
腰に回された腕が、しっかりと力を込めた。
「っ……は、は……」
呼吸が追いつかない。
涙が勝手に溢れる。
ミフユは、何も言わない。
ただ、アイカの腰を逃がさないように抱いて、
もう片方の手で、頭をゆっくり撫でる。
否定もしない。
大丈夫とも言わない。
「……ほら」
耳元で、低く囁かれる。
「私に、合わせて」
「ほら。私の、真似」
吸って。
吐いて。
言葉は、それだけ。
アイカは必死に真似をする。
涙と一緒に、嗚咽が零れる。
「……っ、きら、われたかと……」
震える声。
「幻滅、されたかなって……」
「もう、いらないのかなって……」
ミフユの胸元に、顔を押し付けたまま。
ミフユの鼓動は、驚くほど落ち着いていた。
それが、余計に安心してしまう。
「……恋人じゃないって」
ミフユが、ぽつりと言う。
アイカの身体が、びくりと震えた。
「嘘じゃない」
そこで、一拍置く。
「でも、間違いでもないよ」
どちらとも取れる、曖昧な言葉。
アイカは、顔を上げられない。
上げたら、壊れてしまいそうだった。
「……私のそばにいるの、嫌?」
小さな声で、尋ねる。
ミフユは、少し考える素振りを見せてから、
「嫌だったら」
「こうしてない」
淡々と答えた。
それだけで、十分だった。
アイカは、ミフユの服を掴む。
子どもみたいに。
「……ごめんなさい」
「また、迷惑かけるかも……」
ミフユの手が、少しだけ強く頭を撫でた。
「いいよ」
短く。
肯定でも、拒絶でもない。
「泣きたいときは」
「いつでも、おいで」
条件付きの、優しさ。
それを聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
同時に、怖くもなる。
――ここしか、居場所がなくなったらどうしよう。
でも。
それでも。
この胸で泣けるなら、いい。
アイカは、そう思ってしまった。
ミフユは、腕の中で震える身体を感じながら、静かに息を吐く。
可哀想だと思う。
浅ましい、とも。
それでも。
この重さが愛おしかった。
こうして縋ってくれる限り、
泣いて、謝って、不安に怯えてくれる限り――
手放すつもりは、なかった。
頭を撫でる手は、優しいまま。
抱きしめる腕も、緩めない。
肯定は、しない。
その代わり、今日も胸を貸す。
また、ここに戻ってくると分かっているから。
その安心と、歪んだ幸福を、
ミフユは静かに噛み締めていた。




