桜と焔 (6)
「――あれ、子狐?」
桜の木に近付いてきた気配から発せられた声にびくりとする。咄嗟に桜の花の中に身を隠してみたけど呆気なく見つかったようだ。
恐る恐る目を開ける。
大人と呼ぶにはまだ少し早いような、少年とおぼしき年頃の人間が枝の上の環を見上げていた。紺色の着物姿で、右手には振り鐘が握られている。緩い癖毛の前髪の下の黒い瞳が、怯えた環と目が合いきょとんとしていた。
どうしよう、人間に見つかっちゃった。音を鳴らしていたのはこの人……だよね? 他にも人間がいるのかな。
音を鳴らされなくなったおかげで頭痛が治まり、今のうちに状況を把握しようと思考を巡らせる。だけど警戒している環に、少年は首をこてんと傾けて平然と話しかけてきた。
「どうしたの、そんなところで。すごく震えてるね。もしかして下りられなくなっちゃったの?」
「……」
「……あ、これのせい、かな? ごめんごめん、君を傷つけるつもりはないよ」
身構えている環の視線が少年の手元に向いていると気付いたのか、少年は振り鐘を遠くに放り投げた。ゴトンと重い音を立てて地面に落下した鐘は、そのまま勢いで転がってここから離れた茂みの下に埋まる。
やすやすと捨てられた振り鐘を、環は信じられない思いで見つめた。
「ほら、もう大丈夫。何も持ってないよ」
少年は両手を高く掲げながら柔和な笑顔で主張するが、環は訝しげな眼差しをやめなかった。
そんなこと言われても……。あやかし祓いの鐘を持って扱えていたのなら、あやかし祓いの異能持ちだよね。異能があれば、道具なんてなくてもいくらでも攻撃手段はある。
警戒して後ずさる。すると後ろ脚を枝から踏み外してしまい、慌てて前脚で枝にへばりついた。前脚だけで枝にぶら下がる落下寸前の状況に肝が冷える。
「……っ!」
「危ないっ!!」
駆け出した少年がそう叫んだように聞こえた。そして木の幹を踏み台にするように跳ねて、あっという間に環が掴まっている枝の付け根に着地した。その衝撃で枝が派手に揺れて、ぐわんぐわんと環の身体が上下に振られる。
環は内心戸惑っていた。何する気よ、この人。
もういっそこのまま落下した方が安全かもしれないと、環は地面との距離を見極めようと目線を下げた。さっきとは違い、今なら脚も震えていないから着地も簡単なはず。地面に下りてすぐに走ればこの少年からも逃げられるはずだ。
枝にしがみついている前脚はもう痺れてきている。限界を迎える前に決行しようと考えたのだが。
「何してるんだ! 早くこっちに手を伸ばして!」
鬼気迫る声が環を引き止めた。顔を上げると、枝の付け根に屈んでいる少年が環に向かって手を差し出していた。
予期せぬ少年の行動に、環は驚いて目を見開く。
「くそっ、手を離せないか。待っててくれ、今助けるから! もう少し頑張れっ!」
鼓舞するように環に笑いかけた少年は、環がいる枝の中央の方に身を乗り出す。しかし細い枝は子狐の環より遥かに重い人間の体重を受け止めきれず、少年が進むのを阻むように枝が頭を垂れてしなった。ミシミシと鳴る不穏な音に、少年は眉間にしわを寄せて二の足を踏む。
まさか、助けようとしてるの? あやかし祓いが、あやかしを?
理解できなかった。あやかし祓いからすれば、こんな身動きできずにいるあやかしなんて祓うには絶好の機会なのに。
「……よし、ほら、もう大丈夫だよ」
付け根から少しだけ身を乗り出し、少年は目一杯こちらに腕を伸ばす。不安定な体勢で踏ん張っている少年のこめかみに汗が伝った。
どうして――。
少年の指先が環の前脚に触れる直前、だった。ぴゅうっと突風が吹き、さわさわと桜の木が風と戯れた。環が掴まっている枝も揺さぶられて、舞い上がる砂埃に目を瞑る。
一瞬の気の緩みがいけなかった。環の前脚が枝から滑り、着地の想定とは程遠い背中を下にした体勢で地面に落下していく。
あっ、と思ったときには、歯を食い縛る少年の顔がすぐそばに迫ってきていた。伸ばされた手が環の脚を掴み、少年の懐に勢いよく引き寄せられる。しかし少年の身体も環と同じように枝から離れていて、そのまま重力に逆らえずに地面に叩きつけられた。
「っ!」
「ゔっ!」
どさっと鈍い重低音と呻き声がすぐそばで聞こえた。思わず目を瞑っていたが、環には軽い衝撃が響いただけでどこにも痛みを感じていない。
それは紛れもなく、自分の身体をすっぽりと覆っているぬくもりのおかげだった。自分のではない鼓動が環の耳の横で早鐘を打っていた。
もぞもぞと少年の腕の中から顔を出す。少年は仰向けに地面に倒れていて、環は少年の胸の上に乗っている状態だ。
まさか庇って背中から落ちたのだろうか。どうしてそこまで、身を挺して……。
少年の意図を探りたくて顔を窺う。苦しそうに眉間にしわを寄せてぐったりと目を閉じていた。環が胸の上でもぞもぞと動いていても目を開ける気配がない。
えっ、嘘。生きてるよね? さっき心臓の音は聞こえてたし……。
息をしているか確かめようと、少年の顔に自分の顔を寄せる。環の鼻先がちょこんと少年の鼻尖に触れる。それが刺激となったのか、おそらく気絶していたらしい少年が顔をしかめた。
「んっ……」
少年が軽く身を捩り、緩慢に瞼が上がった。鼻先が触れあったままぱちりと目が合う。
至近距離で目にした真ん丸な瞳の透明感に惹かれて、環は思わず息を呑んだ。胸が高鳴るような不思議な感覚に動揺して静止してしまうけれど、少年のまばたきをきっかけに弾かれたように顔を離す。
もがいて暴れる環を、少年は腕の中に閉じ込めた。
「うわ、待って待って、大丈夫だから……! 何もしないよ!」
「……っ!」
ぎゅっと抱き締められる。逃げようとするのを阻止されたみたいだけど、決して痛くも苦しくもなかった。あくまでも暴れる環を宥めようとしているような、まるであやすような抱擁。
どくんどくんと鼓動が鳴る。自分のそれにもう一つ似た音の波が重なるのが聞こえてきて、なぜか安心感が環の心を包んだ。
少年の匂いだろうか。砂糖が焦げているような甘い香りがして、嫌ではないそれを吸い込むとじんわりと身体に心地よい熱を孕むのを感じた。あれ、なんだろう……。体が温かい。
環の背中を優しく規則的に叩いていた少年は、すっかり落ち着いて大人しくなった環を抱え込んだまま上半身を起こす。
桜の花びらが少年の身体からはらはらと落ちた。やがて割れ物を扱うような丁寧な手つきで、環は地面にそっと下ろされた。
少年は少し遠慮がちに指の背を環の頭上に寄せる。環は先ほど嗅ぎ取った甘い香りに誘われるように鼻先を寄せると、額を差し出して少年の手を受け入れた。
環の様子で大丈夫と判断したらしい少年は、環の眉間を一撫でしてから頭全体を優しく包むように撫でる。大人しく撫でられながら環は目を閉じて耳を後ろに倒し、心地よい手のひらのぬくもりにうっとりした。
「ごめんね、怖がらせて。怪我はない?」
問いかけに環は小さく頷いた。それで通じたのか、少年はほっと息を吐く。力が抜けた感じで笑うと幾分幼く見えた。




