あやかし祓いの目的 (3)
「取引……ってことは、ちゃんと私にも利点はあるんでしょうね」
「もちろん。君の身の安全も保障するよ。僕の頼みさえ聞いてくれたら、君には一切損もさせない」
そうとは言われても、どう考えても環の方が不利なのは変わらないように思えた。そもそも、実力に差がある時点で弱味を握られているようなものなのだから。
だけど……と環の中で良心が主張してきた。揺れる思考を押さえるようにぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めてから目を開ける。
「……あなたには一応、一晩匿ってもらった恩があります。それは感謝しているので、取引内容次第では引き受けます」
彼には目的があったらしいが、環をあやかし祓い隊に引き渡さずにいてくれたのは紛れもない事実だ。環はそのおかげで命拾いしている。その恩を無下にするのは、どうしても気が引けてしまうのだ。
男性は面食らったような顔をしていた。自ら取引を持ちかけてきたくせに、環の返答を意外だと思っていそうだ。
「ありがとう、まさか引き受けてくれるなんて」
「取引の内容次第ですからね! 人間に借りを作りたくないんですよ。あとお願いだから、さっきみたいに無駄に精気を出したりしないでくださいね」
「ははっ、わかってるよ。……ありがとう」
男性が眉尻を下げて微笑む。
昨夜といい、本当にこの人の方が変わっている。あやかし祓いがあやかしにお礼するなんて、しかも頼みごとのために取引するなんて、奇妙な流れになったなと環はため息をついた。
「――さて、取引の説明の前に名乗っておこうか。僕は櫻井颯だ。よろしくね」
手を差し出される。確かに取引相手の名前も知らないままでは不便というか不自然だなと思い、環は握手に応えた。
「九条環です」
「環さん、よろしくね」
繋いだ手を柔く握られる。必要以上に馴れ合いたくない環はすぐに手を引っ込めて尋ねた。
「それで、どんな取引なんですか」
「そう急かさないでほしいな。順に説明していきたいんだ。それと、とりあえず朝食を食べないか?」
「朝食?」
聞き返した環の語尾が訝しげに上がる。どうしてこの流れでそうなるのよ。
眉根を寄せる環の心境などつゆ知らず颯は続ける。
「僕はそもそも、君と朝食を食べるために起こしに来たんだよ。食べながら取引の話を持ちかけようとは思っていたけどね」
「ですが……」
「遠慮はしなくていいから」
「遠慮とかではなくてですね、私はさっさとその取引とやらを引き受けるか決めたいんです。無駄に先延ばしされて拘束されるようなら無理矢理にでも帰りますけど」
扉に触れながら帰宅願望を示す。結界が破れないのはもう気付かれているが、多少の脅しにはなると期待して躊躇いなく言いきった。
しかし颯は平然とした態度を崩さない。むしろ、強がっている環を見透かしているみたいに余裕を口角に添えながら扉に手を差し出した。
「帰れるならご自由にどうぞ。君が取引を引き受けたくないならその意思は尊重するよ。……まあ、その服装のまま帰るのはだいぶまずいとは思うけどね?」
「あ……」
言われて思い出した。見下ろした自身の身体は環が作り出した和装ではなく洋装の寝間着だ。
肌触りがよくて動きやすさもあり、思えばこれもこの客室の調度品のように質がよさそうだ。とは言え、この格好のままで外を出歩くのは不審である。妖狐の環の感性でもそう思うし、颯の口振りだと人間から見ても同じように見られるのだろう。
さすがに迂闊な行動はできないと、変化の術を自身に再度施そうと集中する。だけど颯の声がそれを制止した。
「君の本来の服装なら妖力が消えずに残っているから、ちゃんと手入れしてもらっておいたよ。せっかくだからそれに着替えるといい。寧々子さん、入ってきてくれる?」
「はい、颯様」
颯の声かけに、扉の向こうからすぐに返事がきた。瞠目しながら扉を見つめていると、張られていた結界が解かれたのがわかった。環の退出を阻むように纏っていた力のうねりが雲散する。
間もなく、ガチャリと扉が引かれて開く。
黒いワンピース服に白いエプロンを着けた女性が立っていた。いつから部屋の外に控えていたのだろう。扉の結界のせいかすぐそばにいたのに全然気配がしていなかった。
一礼してから女性がゆったりとした足取りで入室する。黒髪を後ろでまとめていて大人びているようにも見えたが、猫目をやんわりと細めて笑うと幼い印象にもなった。環とさほど歳が離れていないように思える。
寧々子と呼ばれた彼女は、環と目を合わせると再度小さくお辞儀をした。つられてお辞儀を返す。
「昨晩、眠っていた君の身支度の世話は彼女に任せたんだよ。今も彼女にすべて任せるといい」
「いや、でも」
戸惑う環のもとに、寧々子がずいっと近寄る。その手に持たれていたのは、紛れもなく環の妖力を宿した着物と袴だった。手入れもしてくれたのは彼女だろう。
「ご紹介にあずかりました寧々子と申します。環様、さっそくお着替えいたしましょう」
「あ、はい……」
テキパキとした様子の寧々子に促されてつい頷いてしまう。有無を言わせない笑顔に気圧されてしまった。
「颯様、お着替えいたしますので申し訳ありませんがご退出をお願いします」
「ああ、わかってるよ。寧々子さん、あとはよろしくね」
「かしこまりました」
「じゃあまたあとでね、環さん。僕はダイニングで待ってるから」
環の返事を待つこともなく、ひらひらと手を振りながら颯は部屋を出ていった。
まだ朝食を食べるとも、ここで着替えを手伝ってもらうとも決めていなかったのに。いつの間にか颯と寧々子の手のひらで転がされていた。
なんだろう、引き止められてばかりでなかなか帰らせてもらえないような気がするんだけど。取引とか言って油断させて、本当は軍本部のあやかし祓い隊に引き渡すつもりなのだろうか……。
うーんと思案顔のままの環だが、寧々子の介助を受けながら寝間着を脱いで、肌襦袢の上に長襦袢を着た。万が一の事態に備えて、自分の妖力が馴染んだ格好に着替えておくに越したことはない。
寧々子が着物を背後で広げてくれる。ありがたく腕を通しながら羽織った。
「この桜色の着物、とても綺麗な色ですよね。やっぱり妖狐の妖力で作られたものは見惚れてしまう出来ですわ」
「ありがとうございます……って、ちょっと待って! あなたまで私が妖狐だって知ってるんですか?」
初対面の人の口からあまりにもさらっと飛び出した言葉に驚いて振り返る。
すると寧々子を覆う妖力の気配に気付き、環はハッと息を飲んだ。
「あなた……あやかしですか?」
寧々子は肯定するようににっこりと笑う。陽炎のようにゆらりと揺れながら寧々子の頭に黒い獣の耳が顕現した。背後には黒く細長い尻尾が現れる。
初めて見る耳と尻尾だった。だからこそ、その正体に思い当たる。だけどにわかに信じられない思いが勝り、おずおずと尋ねた。




