第9章 鈴川琴葉
夜の闇が深い。京の街から遠く離れた、鈴川家の道場に併設された奥座敷は、常に静寂に包まれていた。だが、その夜、畳の上に投げ出された一枚の布告文が、静けさを切り裂いていた。
長年使い込まれ、刀油の匂いが染みついた畳の上。そこに置かれていたのは、藩の朱印が押されたばかりの、墨痕鮮やかな文書だった。
鈴川琴葉は、二十代前半。新徴組の厳しい訓練を経た体は、男物の上着の下でもなお、引き締まった細い鋼のような強さを湛えていた。彼女の眼差しは、父の顔ではなく、その布告文に向けられていた。
父、鈴川宗左衛門は、北辰一刀流の師範として、また一人の武士として、常に琴葉の誇りであった。その父が、今、灯籠の煤けた光の中で、まるで自分の手の平を眺めるように、深く顔を伏せている。
(..................アシアトウアン ウツシマツル......ウタヒ)
(まただ、何を言っているんだ?)
「琴葉よ」
(え?だれを呼んだ?ーーいや、私自身を呼んだのか?)
「琴葉よ、呆けておるのか。」
(私?)......突然、琴葉としての記憶が私の中に流れ込んできた。
なぜ目の前に居る、父と呼ぶべき人と会話をしているのかが理解出来た。
しかし、鈴川琴葉と呼ばれている者の心が強く、「私」ではなく鈴川琴葉としての意識が勝っていた。
宗左衛門の声は、いつもの厳しさではなく、乾いて、疲弊しきった響きを持っていた。
「藩は、もう、我々を必要とせぬそうだ。この道場は……今日をもって解体となる。」
琴葉は息を呑んだ。
「私」は、彼女が京で新徴組として過ごした日々、血と汗を流して守ろうとした「公」が、父は今、「藩」という名の「公」から打ち砕かれた事がわかった。
布告文の内容は、藩の財政難と新政府への恭順を示すため、全ての私的な武芸道場の運営を停止し、武士への俸禄を大幅に削減するという、未来の無い知らせだった。それは、武士という身分制度そのものが、制度的に崩壊し始めたことを意味していた。
「父上、それは……! 道場を閉めて、私たちは、どこへ……」
宗左衛門は、畳の上に置かれていた一振りの短刀を手に取り、それをゆっくりと鞘から抜いた。短刀の刃は、灯籠の光を吸い込んで鈍く光る。それは、琴葉が新徴組に入隊する際、父から「武士の魂を忘れるな」と手渡されたものだった。
「わしが問うているのだ、琴葉。」宗左衛門は、短刀を握りしめたまま、娘に視線を向けた。「お前が京で命を賭して守ろうとした『武士の道』は、この布告文一枚の紙切れに勝てたのか?」
「私」は、琴葉の頭の中で、京での日々が蘇った。新徴組員として、新選組の非情な現実主義と渡り合い、清廉な理想を守ろうと奮闘した日々。しかし、その清廉な信念は、時代の流れという名の濁流の前では、いとも簡単に崩壊したことを感じられた。
「私」は、この崩壊した感情から琴葉になりつつあった。
宗左衛門の声には、怒りではなく、深い諦念が混じっていた。彼は、厳格なまでに信じ続けた「公」に、今、裏切られたのだ。
「お前の信じる剣は、この藩の命令書を斬れるか? 新しい時代が運び込む西洋の鉄の船を斬れるか? 誰も守れぬ剣に、何の価値がある!」
父の言葉は、琴葉の武士としての誇りを、そして彼女の生きてきた道そのものを、「制度と時代の暴力」によって否定していた。それは、父が裏切った痛みではなく、父さえも時代に敗北したという、より深い絶望だった。
遠く、不穏な夜風に乗って、何かを燃やす微かな匂いと、西洋式の汽笛のような甲高い音が届いた。それは、琴葉の知らない、剣が届かない新しい時代の音であった。
宗左衛門の言葉が、奥座敷の冷たい空気を震わせた。「誰も守れぬ剣に、何の価値がある!」。その声は、北辰一刀流の厳格な理合を叩き込んだ父の、最も深い絶望の吐露であった。
琴葉の指先が、無意識に腰の刀の鯉口に触れる。その刀は、京の巷で幾度も血を吸い、新徴組の信念を護るためだけに振るわれてきた。
「父上……」琴葉は、絞り出すような声で言った。「その言葉は、私に何をすべきだったと仰るのですか? 新選組のような手段を選ばぬ力に屈しろと? それこそ、武士の道ではありません!」
父は静かに首を振った。その顔は、長年武士として生きてきた誇りと、それを失う苦渋とで、深く皺が刻まれていた。
「屈しろとは言わぬ。だが、理想の剣では、時代という名の現実を斬れないのだ。お前が新徴組で見てきたはずだ。彼ら(新選組)が、如何にして京の闇を掌握していったか。お前の信じた清廉な理想は、彼らの非情な実利の前で、いとも簡単に足枷となったではないか。」
琴葉の瞳に、京での血生臭い光景がフラッシュバックした。「私」もまた、その血生臭さに恐れさえ感じた。
あの夜。新徴組の隊服をまとった琴葉は、新選組との間で起きた、無意味な衝突の現場に立っていた。どちらが正しいかなど、もはや誰も気にしていなかった。それはただの力の誇示であり、組織間の縄張り争いであった。
琴葉の太刀筋は、相手の隙を突き、命を奪うには十分だった。しかし、彼女の師は言った。「剣は、命を奪うためではなく、秩序を護るためにある。」その教えが、琴葉の手を、常に一瞬だけ鈍らせた。
一方、新選組の隊士たちは、躊躇がなかった。彼らの剣は、政治的な目的と金銭的な報酬に直結しており、理合よりも実効性を重視した。その非情な効率が、結果的に彼らを*「時代の勝者」の側に立たせていた。
琴葉は知っていた。新徴組の信念の清らかさは、彼ら自身の居場所を狭め、資金源を断ち、組織を衰退させる原因となったことを。
「私は……、信念を曲げてまで、生きる意味を見出せませんでした。」琴葉の言葉からその言葉の裏に、「私」は、京で組織が崩壊していく中で琴葉が感じた、無力な怒りが込められていることを感じた。
宗左衛門は、畳の上に置かれた朱印の布告文を指さした。
「その信念が、今、この紙切れに敗北したのだ。お前が京で戦った相手は、新選組だけではない。制度であり、金銭であり、そして西洋から押し寄せる鉄の力だ。それら全てを前にして、お前の北辰一刀流の理合は、何の役にも立たなかったではないか。」
父の言葉は、琴葉の武士としての過去を、全て無意味なものとして塗り替えていく。彼が言うのは、「武士の道そのものが、時代遅れとなった」という、究極の絶望だった。
琴葉は、もう一度、腰の刀に手をかけた。
「父上。それでも、私はこの剣で……この道場を、守れます。」
「この藩の腐敗した命令書を斬り、道場を立て直せます。」
それは、新徴組での経験から導き出された、最後の抵抗であった。武士としての道が、「公」の制度から切り離された今、剣は「私的な正義」のために振るわれるべきではないか、と。
宗左衛門の目から、初めて感情の色が戻ってきた。それは、激しい悲しみと、そして諦めであった。
「試すか。お前の剣で、この道場を守ってみせるか。」
父は立ち上がり、静かに自分の刀を手に取った。柄の感触を確かめるその姿は、かつて琴葉に剣の理合を厳しく教え込んだ、誇り高き北辰一刀流の師範そのものであった。
「私」はどうすることも出来ずに琴葉の感情に従っていた。
奥座敷の薄闇の中、二振りの刀が向き合った。親子であり、師弟である二人が、今、「武士の道の終わり」という主題をめぐって、刃を交えようとしていた。
琴葉は、父の構えを見て、悟った。この父の構えは、「武士の最後の尊厳」そのものであり、決して彼女の刀を受け入れるものではない。父は、娘に自分を斬らせることで、この道場の終焉を決定づけようとしているのだ。
「父上、なぜです。なぜ、最後まで抗わないのです!」
「抗う必要がない。」宗左衛門の答えは、静かで冷たかった。「剣が、最も尊いものを守れなくなったと知ったからだ。」
彼は続けた。
「お前は、新徴組の信念を守ろうと戦った。だが、守れたのは何だ? 仲間たちの血と、裏切りの痛みだけではないか。お前が護ろうとした公の秩序は、結局、新選組のような非情な力に蹂躙され、最後は新政府という名の新しい権力に、手のひらを返された。」
父の言葉は、京での琴葉の経験を、正確に捉えていた。
京の街で、負傷した新徴組の仲間を、琴葉は雨の降る路地の奥に隠した。
「なぜ、我々は勝てないのだ?」と問う仲間に、琴葉は答えられなかった。それは剣の理合が敗れたのではない。彼らの信念が、新選組の資金力と政治力、そして手段を選ばぬ残虐さという、剣の届かない力に敗北したのだ。
彼女の剣は、目の前の敵は斬れた。だが、時代を覆う腐敗と金銭の力を、斬ることはできなかった。
宗左衛門は、その一瞬の躊躇を見逃さなかった。彼の刀が、鋭く、しかし寸止めで琴葉の喉元に突きつけられた。
「お前の剣には、迷いがある。その迷いは、お前が剣を信じきれなくなった証だ。お前は、剣が時代に無力であることを、既に知っている。」
琴葉は、刀を引くことができなかった。父の目の中に、彼女自身の絶望の影が映っていたからだ。
「この道場は、武士の時代の遺物だ。そして、お前の剣もまた、時代遅れの遺物だ。今、お前の剣でわしを斬ったところで、この道場は藩の手から守れない。誰も、何も、救えないのだ。」
宗左衛門は、刀をゆっくりと下ろした。その動作は、一人の武士が、自らの魂を折る儀式のようだった。
「わしは、武士として最後まで抗おうとした。だが、この道場を閉めることでしか、お前の清い剣の精神を、この泥まみれの時代に巻き込まない道を見つけられなかった。」
それは、父の厳格な愛であった。父は、自分の武士としての誇りを犠牲にしてでも、娘の信念を守ろうとしていたのだ。しかし、その行為こそが、琴葉の「生きてきた道」を決定的に否定していた。
琴葉の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。それは、父が裏切り者であった悲しみではない。愛する父でさえ、剣の力では時代に勝てなかったという、武士の道の悲劇的な終わりに対する慟哭であった。
「父上……」
彼女は、抜いた刀を、静かに、ゆっくりと鞘に収めた。刀が鞘に収まる際の、乾いた金属音が、奥座敷に響き渡った。
それは、京で血を流した日々、父の厳格な指導の下で修練を積んだ日々、そして新徴組員として抱いた「公のために生きる」という清廉な理想――その全てが、今、この瞬間に終焉を迎えたことを示す、別れの音であった。
宗左衛門は、その音を聞き、深く息を吐いた。彼の顔には、安堵とも絶望ともつかない、複雑な表情が浮かんでいた。
「お前は、正しい剣を知っている。だが、正しい剣が、正しい時代を創るわけではない。」
父は布告文を手に取り、それを音もなく焚き火の炉に投げ込んだ。火が文書をゆっくりと飲み込んでいく。
「武士の道は終わった。お前の生きてきた意味は、今は、何もない。」
宗左衛門はそう言い残し、立ち去った。
奥座敷には、鈴川琴葉、ただ一人。
彼女は、畳の上に座り込み、腰の刀を強く抱きしめた。手の中にある刀は、もはや公の秩序を護る武器ではない。それは、「私が何のために生きてきたのか?」という、答えのない問いだけを刻み込んだ、ただの鉄の塊であった。
外では、遠い場所で響く汽笛の音が、ますます明確に聞こえていた。剣では斬れない、新しい時代の足音。
琴葉は、その場で、崩壊した信念の瓦礫の中で、夜明けまで座り続けた。彼女の武士としての過去は終わり、「何をすべきだったのか?」という新たな生の問いが、静かに、深く、その魂に刻まれた。
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