第8章 原正彦
郷野村の集会所は、もはや単なる農民たちの寄り合いの場ではなかった。それは、近代国家の権力と、科学的な真実が激突する、最後の戦場となっていた。
原 正彦(私)は、満身創痍だった。鉱毒に蝕まれた土地での過酷な生活と、弾圧による心身の疲弊が、彼の肉体を際限なく削り取っていた。だが、その眼差しは、燃え尽きる前の、最も純粋な炎を宿していた。
彼の隣には、東京帝国大学の白衣を脱ぎ捨てた神崎 宗一郎 教授が座っていた。神崎教授は、政府からの辞職勧告を無視し、大学での地位を失うことを覚悟の上で、全ての研究成果を携えて現場に来たのだ。
戦いの火蓋は切られた。政府は、鉱毒問題を沈静化するため、「鉱毒予防事業の成果報告会」という名目で、地元の政府高官、古河財閥の代理人、そして御用学者たちを集めていた。目的は一つ、「原 正彦の抵抗運動を、公式に否定し、完全に潰すこと」だった。
報告会が始まると、政府側の学者は、事前に用意された報告書を読み上げた。
「……最新の科学的知見に基づき、瀬戸川の水質は、人体に影響を与えるレベルではない。一部の農作物の枯死は、むしろ農民の不潔な管理と、天候不順によるものである」
彼らの言葉は、科学の名を借りた、冷酷な虚偽だった。農民たちは、激しい怒りと、無力感に震えた。
その時、原 正彦が立ち上がった。彼の体は揺らぎ、咳き込みながらも、彼の声は集会所の隅々まで響き渡った。
「嘘だ!その報告書は、命と土地の真実を、金と権力で塗り潰した、欺瞞の鉄槌だ!」
そして、神崎教授が、原 正彦の前に出た。神崎教授の権威と、その静かな存在感は、御用学者たちを一瞬にして黙らせた。
「私は、東京帝国大学理学部 教授、神崎 宗一郎である」
神崎教授は、彼自身が現場で採取・分析した、詳細な水質分析データと、土壌中の砒素・銅の残留濃度の数値を提示した。彼の口から出る言葉は、感情論ではない。それは、明確な科学的証拠だった。
「この数値は、政府の報告書が示唆するものの数十倍に及びます。瀬戸川の水は、生命を育む水ではなく、明確な毒です。この真実を否定することは、科学の光を、この国の闇で覆い隠すことに他ならない!」
神崎教授の証言は、集会所全体を震撼させた。帝大教授という権威が、政府の公式見解に真っ向から異議を唱えたのだ。
農民たちは、立ち上がった。
「神崎先生の言う通りだ!私たちの田は、子どもたちは、毒に殺されたのだ!」
農民指導者である大久保は、夜間の弾圧で負傷した痛む体を引きずりながら、立ち上がった。
「原先生は、全てを失って私たちの元に来た。彼は、命をかけてこの真実を追っている。我々の声を聞け!」
公論の場は、政府と財閥側の暴力的な弾圧から、真実の追及へと転化した。政府側の高官は、事態の収拾がつかなくなることを恐れた。このまま強行すれば、新聞(反政府派)に「政府と帝大教授の対立」として報じられ、国際的な非難も浴びかねない。
数日にわたる激しい対立の末、政府は、部分的、かつ一時的な譲歩を余儀なくされた。
政府は、神尾銅山の排水規制を一時的に強化し、農民に対する最低限の補償金を支払うことを約束した。
強制的な立ち退き政策は、一時的に棚上げされた。
これは、完全な勝利ではなかった。鉱毒問題の根本的な解決には至らない。しかし、原 正彦と、神崎教授、そして農民たちが、近代国家の暴力に対して、明確な一撃を加えた瞬間だった。
部分的な勝利を収めた後、郷野村には、一時の静寂が訪れた。
しかし、この勝利の代償は、原 正彦の肉体が支払うことになった。
彼は、すでに極限の疲労を超えていた。東京での過労、直訴による精神的な打撃、現場での栄養失調、そして度重なる暴行。勝利の安堵と同時に、彼の生命の灯は、急速に燃え尽きようとしていた。
村の診療所で、「私」は、静かに横たわっていた。大久保や神崎教授が、代わる代わる見舞いに来たが、原 正彦の意識は、既に遠い場所に漂っていた。
朦朧とする意識の中で、「私」は、最後に妻の和子と交わした会話を思い出した。『土地を汚した者は、その罪を必ず償う。』それが、この国の古き理だと、母から教えられました。
和子の言葉は、原 正彦の行動が、「正義」であると同時に、「家庭の崩壊」という犠牲を伴ったことを、改めて突きつけていた。彼は、政治家としては破滅したが、生命を守るという使命は果たしたのだ。
その時、閉じていた「私」の手に、冷たい水滴が落ちてきた。
意識を絞り出すように目を開けると、そこに立っていたのは、去ったはずの妻、和子だった。
「和子……なぜ、ここに」
彼女は、静かに涙を流していた。
「新聞で見ました。あなたが、どれほどの犠牲を払って、この村を守ったか。私は、あなたの道が、どれほど孤独で、どれほど尊いものか、理解できなかった。ですが、あなたの肉体が、限界を超えていることだけは、わかります」
彼女は、原正彦「私」から去った。しかし、「命」が尽きようとしている夫を見捨てることはできなかった。
「私」は、原 正彦の体を通して、孤独な戦いの末に、失った愛が、形を変えて戻ってきたことを知った。
「和子。私は……私は、この土地の理を、守れたのだろうか」
和子は、私の手を握り、彼の頭を優しく撫でた。
「あなたは、守りました。あなたの命と引き換えに、この土地の生命を、未来へと繋いだのです。それで十分です。もう、休んでください、あなた」
和子の言葉が、原 正彦の魂を、安堵と同時に深い眠りへと誘った。
「私」の意識は、原 正彦の体の深い疲労と、急速に冷えていく感覚を明確に感じていた。
意識が薄れていく中、「私」は、「生命を繋ぐ」という使命の記録として刻み込んだ。
「近代化という名の暴力」に対する抵抗。
「科学という真実」の武器の獲得。
「土地の理」を守り、「未来への希望の苗」を繋いだこと。
肉体の最後の力を使い、「私」は、和子に最後の言葉を託した。
「神崎教授と、大久保を…頼む。そして、この国の理が……再び破られることがないように……」
その言葉が途切れた瞬間、灼熱の白光が、再び「私」の意識を包み込んだ。それは、転移の瞬間に常に伴う、引き剥がしの轟音だった。
意識は、原 正彦という、孤独な政治家であり、民衆の代弁者であった器から、ゆっくりと離脱していった。彼の肉体は、燃え尽きた光のように、静かに、しかし尊厳をもって、その使命を終えた。
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