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トコノウタヒ  作者: しゅう


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7/12

第7章 原正彦

東京の華やかな議事堂と、高級な自宅を捨てた原 正彦(私)の旅は、極めて簡素なものだった。質素な旅装に包まれた私は、汽車と徒歩を使い、数日をかけて瀬戸川(渡良瀬川)流域の最下流、最も被害が深刻な郷野ゴウノ村へとたどり着いた。

瀬戸川のほとりに初めて降り立った瞬間、「私」の肉体を貫いたのは、想像を絶する悲惨な光景と、それに伴う原 正彦の激しい苦痛の記憶の合流だった。

川は、清流の色を失っていた。太陽の光を浴びた水面は、赤茶けた錆の色に淀み、その流れは、生命を育むどころか、毒を運ぶ通路へと変貌していた。川底には、ヘドロのように沈殿した銅の泥が光を鈍く反射し、まるで死んだ生物の臓腑のようだった。

その川沿いに広がるはずの田畑は、一色に染まっていた。茶、白、そして不自然な赤土。稲は穂をつけることなく枯れ、雑草すらもその毒に焼かれていた。土地は塩を撒かれたように硬く、荒れており、生命の営みが完全に停止した、巨大な墓地のようだった。

「私」の意識は、この国が近代化という名の暴力によって、土地の根源を破壊しているという真の絶望を、皮膚感覚で理解した。晴山賢一が戦った冷害は、自然の理不尽であったが、これは人間の、金と欲望による、冷酷な殺人だった。

「これでは……生きることは、できまい」

声が震えた。正彦の記憶には、この場所を過去に視察した際の、「議会に持ち帰って必ず救う」という熱い決意があった。だが、その時の正彦の決意は、東京の「安全な場所」からのものだった。今、全てを失った「私」としてこの場に立つことで、その悲劇の重さが、私の使命感を焼き尽くす炎となった。

「私」は、膝から崩れ落ちた。土壌に触れると、冷たく、乾いて、腐敗した鉄の匂いがした。

「ああ……。ここが、私の、そしてこの国の、戦場だ」


郷野村は、瀬戸川の鉱毒に最も苦しめられた村の一つだった。

私が村へたどり着いたとき、村の雰囲気は、絶望と、それでも諦めきれない抵抗の炎が混在していた。彼らは、東京から来た私服姿の「原 正彦」を、すぐに「直訴を決行した狂気の代議士」として認識した。

村の集会所。そこには、鉱毒問題の対策を一手に担ってきた、疲弊しきった農民のリーダーたちが集まっていた。

「あなたが、原先生ですか」

最初に口を開いたのは、大久保オオクボという、中年の農民だった。彼の顔は皺深く、疲労困憊しているが、その眼差しには、不屈の意志が宿っていた。彼は、過去に何度も東京へ陳情に上り、正彦に直訴状を託した中心人物の一人だった。

「私は、全てを失いました。妻も、地位も、議会での力も。ですが、ここに来ました。皆さんの、この土地の苦しみを、共に背負うために」

私がそう告げると、集会所は静まり返った。彼らは、権力の中枢にいた人物が、自らの全てを捨てて現場に来たという事実を、信じられない目で見ていた。

大久保は、深く頭を下げた。

「先生……私たちは、東京の政治家というものが、口先だけで、結局は財閥と政府に屈するものだと、諦めていました。しかし、あなたは違った。ありがとうございます。我々は、先生に賭けます」

連帯が、生まれた。


その晩、指導者たちは、これまでの抵抗運動の経緯を私に語った。補償交渉の決裂、政府による「鉱毒予防令」という名の、実態のない農民弾圧策。そして、最も恐ろしいのは、科学という名の欺瞞だった。

「先生。古河は、いつも『科学的に無害だ』と主張します。東京から来た役人や学者も、『病気の原因は、不潔な生活にある』と。我々の素人の観察では、彼らに太刀打ちできません」

彼らが失ったのは、希望だけではなかった。それは、真実を証明するための武器、すなわち「科学的な根拠」だった。


「私」は、農民たちと共に、瀬戸川流域の真実を記録する作業を開始した。



水質調査: 瀬戸川の上流、中流、下流、そして神尾銅山の排水口付近の水を採取する。正彦の記憶に残る専門書から、銅イオンや砒素の検査方法を思い出し、地元の酒造家から蒸留器具を借りて、簡易的な分析を試みた。


土壌分析: 枯死した田畑の土を採取し、異常な化学成分の残留を証明する。


医学的記録: 村の医師の協力を得て、鉱毒が原因と思われる皮膚炎、呼吸器疾患、胎児の異常など、農民たちの健康被害の記録を系統的に集める。



これは、地道で、極めて危険な作業だった。

特に、神尾銅山の排水口付近に近づくたびに、私服の監視員が張り付いた。彼らは、農民たちが銅山の操業実態を記録することを恐れていた。

ある日、「私」が瀬戸川の水を採取していると、武装した銅山側の用心棒が三名、私を取り囲んだ。

「貴様、何を企んでいる。ここは私有地だぞ」

用心棒のリーダーは、私を一介の貧しい農民と侮り、棍棒を振り上げた。

「私」は、原 正彦の体で、敢然と立ち向かった。かつて政治家として培った冷静な論理と、田中正造の不屈の精神が、私の心を支配していた。

「この水は、国家の公共の財産だ。そして、この水に含まれる銅、砒素は、既に殺人兵器となっている。貴様らが守っているのは、財閥の金か。それとも、人の命と土地の根源か」

私の威厳と、政治家としての過去の残滓が、一瞬、用心棒たちを怯ませた。彼らは暴力で私を排除しようとしたが、原 正彦の眼差しに宿る決死の覚悟に、ためらいを見せた。

結局、彼らは私を殴打したが、採取した水サンプルを奪うことはできなかった。

証拠集めは進んだが、壁が立ちはだかった。集めた証拠を権威ある学術機関で分析し、政府の報告書を覆す「決定的な証拠」とする必要があった。しかし、政府の圧力により、東京の大学や研究機関は、原 正彦の依頼を全て拒否した。

「私」は、完全に孤立していた。


その時、「私」の意識の中の原 正彦の記憶から、ある人物の顔が浮かび上がった。

神崎カンザキ 宗一郎ソウイチロウ」。

彼は、東京帝国大学理学部の化学および地質学の権威であり、既に政府の鉱毒調査に疑問を呈し、内部で孤立している学者だった。正彦が議会で追及を始めた頃、密かに彼に助言を求めたことがあった。

「私」は、大久保たちに頼み、命がけで採取したサンプルを携え、東京の帝大へと向かうことを決意した。

神崎教授の研究室は、東京の華美な帝大の建物の一角にありながら、驚くほど静寂に包まれていた。教授は、白衣をまとい、多くの古い文献と分析器具に囲まれていた。

「原先生……本当に、あなたが、そのような姿で現れるとは」

神崎教授は、議員資格を剥奪され、社会的に抹殺されたと報道されていた私の姿を見て、息を呑んだ。彼は、私の地位と名誉が、全てこの問題のために失われたことを知っていた。

「神崎先生。私は、全てを失いました。ですが、ここに、瀬戸川の真実があります」

「私」は、苦労して採取した水と土のサンプルを彼に見せた。

「先生。私は、この科学的な真実を、国家権力が握りつぶすのを黙って見ていられません。あなたが、この帝大の最高の学術的権威をもって真実を分析し、世に示す、最後の砦です」

神崎教授は、サンプルの入った瓶を手に取り、その茶色く濁った水を見つめた。教授の顔には、学問の真実を曲げようとする権力への静かな怒りが浮かんでいた。

彼は、その場で簡単な予備分析を始めた。精緻な試験管を覗き込んだ後、教授は厳かな面持ちで顔を上げた。

「これは……噂以上です。銅の濃度、そして砒素。特に砒素の含有量は、農地を荒らすレベルではない。これは、人命と土地の根源を断ち切る、明確な殺人毒です。わかりました、原先生」

教授は、白衣の襟を正した。

「私は、東京帝国大学の教授という、この国で最も権威ある地位をもって、真実を証明しましょう。それが、学問の光というものです。私は、真実の科学を、この国の光とするために、あなたの戦いに参加しましょう」

神崎 宗一郎 教授という、最高学府の権威と、真実の科学という剣が、原 正彦の孤独な抵抗運動に、最も強力な武器として加わった瞬間だった。


神崎教授の協力を得て、抵抗運動は新たな段階に入った。

科学的な証拠という武器を得た農民たちは、もはや政府の欺瞞的な報告を恐れなくなった。神崎教授の指導の下、村々で水質検査が実施され、鉱毒の広がりが客観的な数値で示された。この情報は、秘密裏に東京や大阪の反政府系新聞にもリークされ始めた。

当然、権力の反撃は激化した。

古河財閥の圧力により、警察は「暴動鎮圧」を名目として、郷野村を始めとする被害地に憲兵隊を投入した。



暴力的な制圧: 農民指導者の大久保は、夜間に自宅で襲撃され、重傷を負った。


強制的な立ち退き: 鉱毒被害が最も甚大な地域では、政府が「鉱毒予防事業」と称して、強制的に農民を立ち退かせ、土地の破壊を隠蔽しようとした。


神崎教授への圧力: 神崎宗一郎教授の研究室にも政府の監視が入り、資金援助や研究費が全て打ち切られた。彼は、大学からの辞職勧告も受け始めた。



原 正彦は、農民たちの中心に立ち続けた。憲兵隊の制圧を受けながらも、彼は「土地を守る」という一義的な信念を振りかざした。

「私たちは、土地を売らない!この土地は、祖先から受け継いだ命そのものだ!政府や財閥が、私たちの命を奪うことは許されない!」

彼は、もはや政治家ではない。土地に根を張り、土地の悲鳴を代弁する、一介の活動家、すなわち民衆の指導者となっていた。


激しい弾圧の中、抵抗運動は絶望的な孤独を深めた。多くの農民が恐怖に屈し、立ち退きを受け入れた。大久保も負傷し、運動は崩壊寸前だった。

ある晩、「私」は、荒れた田畑の真ん中に、一筋の小さな灯りを見つけた。

それは、大久保の娘が、鉱毒に汚染されていない、わずかな土地で、稲の苗を育てていた光だった。

娘は言った。

「原先生。父は言いました。『諦めてはならない。種が残っていれば、土地は必ず生き返る』と。先生は、この種を守ってください。そして、私たちを、この国から追い出さないでください」

その小さな稲の苗は、原 正彦(私)にとって、使命の全てを象徴していた。それは、この土地の生命を、未来へと繋ぐ、最後の希望だった。

政治家としての敗北、家庭の崩壊、社会的な抹殺。全ては、この生命を守るための試練だった。

原 正彦は、瀬戸川流域の村々と、運命共同体となることを宣言した。彼は、自らの命をかけて、この抵抗を続けることを誓った。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

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