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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第6章 原正彦

直訴の朝、原 正彦(私)の邸宅は、前日までの静かな緊張感から一転し、冷たい氷のような空気に包まれていた。

東京の自宅は、もはや安息の地ではない。門前には、私服の警察官が数名、それとなく監視の目を光らせていた。昨夜、直訴状の提出を阻止しようとする政府側の動きがあり、私の事務所の人間は既に多数拘束されたか、あるいは恐れをなして逃亡したかのどちらかだろう。この時点で、原 正彦は、国家権力に対する公然たる反逆者としてマークされていた。

「私」は、身支度を整えた。洋服ではなく、簡素な日本の着物だ。政治家としての華美な外装を捨て、一介の民衆の代表として振る舞う、原 正彦の強い意志の表れだった。

一階の食堂へ降りると、妻の和子が、湯気の立たない冷めた味噌汁と、混ぜご飯を前に座っていた。和子は顔を上げず、ただ静かに言った。

「誰も来ません。事務所からは、誰一人。昨晩、あなたの私設秘書が、全ての書類を持って、姿を消しました。残ったのは、これだけです」

彼女が指差したのは、直訴状が収められた、古い厚紙の筒だった。

「私」は、和子の隣に座った。彼女の横顔は、美しく、しかし憔悴しきっていた。華族の血筋を引く彼女は、この政治的な暴力と、夫が選んだ破滅的な道が、自分たちの築き上げた全てを破壊することを、理性で理解していた。

「私」は、夫の立場を理解しようと試みた。

「和子。君には、大きな苦労をかける。だが、私はこのまま、議会の中で欺瞞の芝居を続けることはできない。瀬戸川の汚染は、土地の理を殺しているのだ。このままでは、この国そのものが、魂を失ってしまう」

和子は、そこで初めて「私」を見た。彼女の瞳は潤んでいたが、すぐに強い光を宿した。

「あなたは、私が政治的な理念を理解できないとでも思っているのですか?違います。私は、あなたの心が、この行動を選ばざるを得なかったことは理解しています。だが、あなたの行動は、私への裏切りでもあります」

「裏切り?」

「和を重んじる原家から、『不和』という名の破滅を選ぶこと。そして、私に、あなたの死を予感させること。あなたは、あなたの正義のために、私の人生を道連れにしているのです」

彼女の言葉は、家庭という最後の砦を失う代償を支払わなければならないと感じられる。

「直訴状は、私が届けます」

和子は、静かに立ち上がった。

「あなたが、権力に捕らえられ、直訴の神聖な瞬間を汚されることを、私は望みません。私が行けば、女性である私を、彼らは即座に捕らえることはできないでしょう」

彼女の言葉は、政治家の妻としての冷静な計算と、夫への最後の愛が混ざり合っていた。


直訴は、明治天皇の行幸のルートで行われることになった。

和子は、馬車の手配を済ませ、原 正彦を乗せて、行幸ルートへと向かう。道中、馬車の窓から、私は原 正彦の過去の記憶を改めて追体験した。



議会での孤立: 鉱毒問題を追及するたびに、味方であったはずの議員たちが次々と離れていった記憶。政府の力、古河財閥の資金力、そして「日本の発展」という大義名分が、正彦を完全に孤立させた。


原正彦との邂徊: かつて、この問題に一人立ち向かっていた原正彦と交わした、短い会話。「政治では、人は土地を救えない」という、正彦の諦念と、それでも立ち上がる情熱の残滓。



馬車が、天皇の行幸ルート近くに到着する。周囲には、厳重な警備の兵士と警察官が配置されていた。

和子は、馬車を降り、私に直訴状の入った筒を渡した。彼女の瞳は、全てを受け入れた者の諦念と、深い悲しみに満ちていた。

「これが、私の夫の最後の仕事です」

そう言って、彼女は私に一礼し、踵を返して馬車へと戻った。夫婦の間の「和」は、この瞬間、決定的に崩壊したのだ。

「私」は、原 正彦の体で、道沿いの小さな丘へと登った。ここからなら、天皇の馬車列を視認できる。

直訴。それは、国家の最高権威に、土地の理の破壊を訴える、唯一の方法だった。


正午。遠くから、軍楽隊の音が聞こえてきた。やがて、明治天皇を乗せた馬車列が、静かに丘の麓を通過し始めた。

「私」は、呼吸を整えた。体は、極限の緊張により、かえって静寂を保っていた。

直訴状の筒を片手に、「私」は丘を駆け下りた。

「陛下! 臣、原 正彦、直訴いたします!」

喉が張り裂けんばかりの絶叫が、厳かな行幸の静寂を打ち破った。

兵士たちが、一瞬の混乱の後に、私に殺到した。私は、直訴状の筒を振りかざし、天皇の馬車へと向かって走り続けた。

直訴は、未遂に終わった。

私は、天皇の馬車の数十メートル手前で、兵士に取り押さえられた。直訴状は、取り押さえられる寸前、力尽くで引き裂かれ、空中に舞った。

その瞬間、天皇の馬車は止まらなかった。儀仗兵たちは、動揺した様子を見せず、馬車列は原 正彦の絶叫を無視して、静かに通り過ぎていった。

国家権力は、「土地の理の叫び」を、完全に無視したのだ。


「私」は、そのまま東京の憲兵隊の留置場へと連行された。

しかし、原 正彦が現職の衆議院議員であるという事実と、直訴という極めて政治的な事件の処理を政府は躊躇した。大々的な裁判を開けば、鉱毒問題の真実が白日の下に晒される危険があったからだ。

二日間の勾留の後、「私」は釈放された。だが、それは、社会的な抹殺の始まりだった。

東京の自宅に戻ると、書斎は荒らされていた。直訴状以外の、鉱毒問題に関する全ての陳情書、専門家の意見書、地図、原 正彦が半年かけて集めた全ての資料が、ごっそりと消えていた。

警察や憲兵隊ではなく、政府の裏側の手が、証拠を全て消し去ったのだ。

その夜、東京の全ての新聞に、原 正彦に関する記事が踊った。


「狂気の代議士、国体維持を妨害」

「古河財閥へのテロ行為か。精神錯乱の疑い」

「衆議院は、原 正彦の議員資格剥奪を検討中」


私は、原 正彦の名誉も、信用も、全てを失った。政治家としての存在そのものを、近代国家の暴力によって、完全に否定されたのだ。


妻の和子は、私の帰宅後、一言も口をきかなかった。

和子は、自らの手で、書斎に残された唯一の私物である直訴状の切れ端と、西洋煙草の吸い殻を、静かに集めていた。

「私」は、声をかけた。

「和子。君と子どもたちは、実家に身を寄せてくれ。これ以上、君たちを危険に晒すことはできない」

和子は、煤けた吸い殻を燃やしながら、初めて私に向き合った。

「もう、結構です。あなたが全てを失った時、私も全て失われました。地位も、財産も、そしてあなたの心も。この家には、もはや『和』はありません」

彼女の言葉は、冷たく、しかし、原 正彦の破滅的な理想を選んだ報いとして、厳然たる現実だった。彼女は、「不和」という名の現実に敗れ、私の前から去ることを決意したのだ。

和子は、最後に私に告げた。

「あなたは、その心に従ってください。私は、『和』を失った家から去ります。ですが、『土地を汚した者は、その罪を必ず償う。』それが、この国の古きことわりだと、母から教えられました」

和子と子供たちは、翌朝早く、音もなく、邸宅から去っていった。


原 正彦は、完全に孤独になった。政治家としての地位、名声、そして家族の「和」、全てを失った。

しかし、「私」の心には、晴山賢一から受け継いだ「土地を愛する情熱」が、より強く宿っていた。

失うものが何もなくなった時、原 正彦に残されたのは、絶望的な自由と、直訴状に書かれた「土地の叫び」だけだった。

「私」は、書斎の床に散らばったままの、瀬戸川流域の地図を拾い上げた。

議会は、私を捨てた。

政府は、私を抹殺しようとしている。

妻は、私から去った。

ならば、私は、この国が捨てる土地に行くしかない。

原 正彦の戦場は、もはや東京の議会の中ではない。それは、鉱毒に侵され、呻きを上げている、瀬戸川のほとりだ。

「私」は、質素な着物に着替え、瀬戸川(被害地)へと向かうための、最初の一歩を踏み出した。

読んでいただきありがとうございます。

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