第5章 原正彦
意識が、灼熱の白光と引き剥がしの轟音から、冷たく重い静寂へと着地したとき、「私」は自分が仰向けになっていることを知った。
全身を覆うのは、土と草の匂いでも、粗い麻の感触でもない。鼻腔をくすぐるのは、古い紙とインク、そして西洋煙草の渋い香りだ。皮膚が触れているのは、滑らかに磨き上げられた洋服の生地と、高級なビロード張りのソファだった。
「私」はゆっくりと目を開いた。
頭上で広がるのは、煤けた日本の木材ではなく、漆喰塗りの高い天井。洋風のシャンデリアが煤けた光を放っている。全身には、西洋の仕立ての良い服が着せられており、足元には艶のある革靴が見える。
「……また、始まったのか」
思わず漏れた声は、若々しく澄んだ響きとは異なり、やや低く、威厳があり、酷使された喉の疲労を感じさせた。
体は、硬く、重い。若々しい肉体の軽快さは、そこにはない。代わりに、長時間の思考と、睡眠不足、そして絶え間ない緊張が、神経の奥底に張り付いているような感覚があった。
ここは、どこかの書斎のようだった。
「私」は身を起こそうとしたが、肉体が拒否した。あまりにも疲弊していた。
ふと、視界に飛び込んできたのは、部屋の隅々にまで堆く積み上げられた書類の山だ。それは、書棚からも溢れ、床を占拠し、まるで土砂崩れのように部屋全体を浸食していた。煤けた紙の山、インクの染みた布袋、広げられた巨大な地図。それら全てに、「神尾銅山」「瀬戸川汚染」といった朱書きが、苛立ちと焦燥感をもって殴り書きされていた。
「私」は、書斎に溢れる資料の山を見つめた。
陳情書: 瀬戸川下流域の村々から送られてきた、筆の震えが伝わるような農民たちの切実な訴え。「田が死にました」「子供の病気が治りません」
政府の報告書: 「汚染の因果関係は不明」「技術革新により解決可能」といった、権力側による巧妙に糊塗された報告。
専門家の意見書: 当時の新進気鋭の学者による、毒物学的な知見。銅、砒素、亜鉛などの文字が躍る。
資料は、この人物が、この問題の裏側を、誰よりも深く、誰よりも孤独に掘り下げていた証拠だった。そして、この書斎こそが戦場だったのだ。
そのとき、襖が静かに開く音がした。
「ああ、目覚められましたか、あなた」
立っていたのは、見知らぬ女性だった。彼女は、仕立ての良い着物に身を包み、その姿勢は崩れていないが、その眼差しは深い憂いに満ちていたが眼差しには、不安と、懸念が混じっていた。
「私」は、反射的に体を起こし、口を開いた。
「ここは……何時だ?」
女性は、その言葉遣いに少し違和感を覚えたようだが、すぐに表情を戻した。
「もう午後三時です。あなたは、あの直訴状のようなものを書き終えてから、三時間ほど気を失ったように眠ってしまいました。まるで、魂が抜けたように」
直訴状。その言葉が、私の頭の中で雷鳴のように響いた。直訴。それは、政治家としての地位を、名誉を、全てを捨て去ることを意味する、この身体の持ち主が辿った、破滅的な道だ。
「直訴状は、どこにある」
女性は、静かに、しかしきっぱりとした口調で答えた。
「まだ、私が預かっています。あなたは、あまりにも疲弊しています。この直訴が、あなたと、私と、この原家の全てを、どうするか、あなたは本当にわかっているのですか」
「原家?私は原なのか?」私はつぶやいた。
「何を言っているのですか。」女性は訝しげに言った。
「私の名前はなんと言った?あなたは妻なのか?」私は女性に聞いた。
女性は、この身体の持ち主を気遣うような、あきれたような表情をしながら「あなたは正彦でしょ。私は妻で和子です。」と強めの言葉を発した。
私は「原正彦で、この女性は妻で原和子なのか」とつぶやいた。
和子は、私のつぶやきを気にせずに部屋の片隅に積み上げられた資料の山を、痛々しそうに見つめた。
「あなたが一介の活動家なら構いません。ですが、あなたは現職の衆議院議員です。あなたが動けば、この東京で築いたあなたの名声と地位、そして私たちが守ってきた和が、根底から崩壊します」
「私」の体には、原 正彦の過去の記憶が、まだ完全には流れ込んでいない。そのため、和子の言葉は、冷酷な現実主義として、私の心に突き刺さった。
「和子さん。君は……私を止めたいのか」
和子は、目を伏せた。
「止められません。あなたの『正』の心は、誰よりも深く、強いものだと知っています。ですが、私はあなたの妻として、あなたの肉体が、既に限界を超えていることを見ています。あなたはこの数ヶ月、ほとんど眠っていません。なぜ、あなたはそこまで命を削って、あの遠い土地の、見ず知らぬ農民のために尽くすのですか」
和子の問いは、私の「使命」そのものだった。
彼女にとって、夫の行動は「理解を超えた、破滅的な献身」でしかない。
「私」は、原 正彦が辿った過去を知る必要があった。
「和子。この、神尾銅山の問題に、私が最初に関わった時のことを話してほしい」
和子は驚いたように顔を上げた。
「……まるで、他人事のようですね。あなたが、半年前に初めてあの土地の陳情書を読まれたとき、『この国は、土地を、民を、売り渡している』と、夜通し叫んだではありませんか」
「半年前」という言葉が、「私」の意識と、原正彦の肉体の間にあった時間差を示した。原正彦は、既に半年間、この問題に取り組んでいたのだ。
私は、書斎の机の上に無造作に広げられた、一枚の地図に手を伸ばした。
それは、瀬戸川流域の村々を示す地図だった。河川は茶色く塗りつぶされ、田畑には「枯死」の文字が書き込まれている。地図の下隅には、「古河財閥」という、当時の巨大企業の名が記されていた。
地図に触れた瞬間、原 正彦の記憶が、「私」の意識へと、滝のように流れ込んできた。
記憶の断片1: 議会で、政府高官が「神尾銅山の操業停止は、日本の近代化を止める」と、冷酷に言い放つ声。
記憶の断片2: 瀬戸川のほとり。水を飲んだ家畜が痙攣し、倒れていく惨状。農民たちが泥にまみれ、助けを求める、絶望的な現場の光景。
記憶の断片3: 東京での交渉。古河財閥の代理人が、賄賂と脅迫をちらつかせ、原正彦の口を封じようとする、権力の暴力。
これらの記憶が、「私」の「どうでもいい」という過去の空虚さを打ち破り、晴山賢一から受け継いだ「土地を愛する情熱」と合流した。
「私」は、原正彦の体を通して、近代化という名の暴力が、土地の理を根底から破壊している真の絶望を知った。冷害(自然の理不尽)よりも、この人為的な破壊の方が、より悪質で、深く、この国を蝕んでいる。
「私」は立ち上がった。体は重い。しかし、心には、賢一の魂が注ぎ込んだ、強固な使命感が宿っていた。
「和子。直訴状を、私に渡してくれ」
和子は、その瞳に、かつて見たことのない、静かで、しかし決然とした光を宿した夫を見て、息を呑んだ。
「あなたが、それを書いた時の…あの、破滅的な情熱が、戻ったのですね」
彼女は、直訴状が綴じられた、古い厚紙の束を、書斎の棚の奥から取り出した。
「これを提出すれば、あなたは全てを失います。地位も、財産も、この家も。そして、あなたの命すら危うくなる」
「私」は、和子を見つめた。彼女の不安は、現実だ。原正彦が背負う犠牲は、晴山賢一の比ではない。
「だが、ここで立ち止まれば、この国の理が、永遠に失われる。私は、この『正』の道を行かねばならない」
「私」は、直訴状を手に取った。その紙の重みが、一国の政治家としての地位と、一介の活動家としての命、その両方の重さを物語っていた。
翌朝、原 正彦は、直訴という、日本という国家の心臓を揺るがす、最も孤独な戦いへと踏み出す。
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