第41章 私達
「……っ」
肺に流れ込んできたのは、瑞々しい森の呼吸ではない。アスファルトが焼けた匂いと、排気ガスの混じった、埃っぽい都会の匂いだ。
目を開けると、そこはあの日、石像を倒してしまった駅裏の寂れた路地の片隅だった。
「通行の邪魔だ」と吐き捨てたあの路地裏の風景が、そこにはあった。
「(戻ってきた...今まであったことは夢だったのか...)」
その光景の中心、地面に一人の男が倒れている。
スーツの男。力なく伏している。
「おい……大丈夫か!」
咄嗟に駆け寄り、手を伸ばそうとした。だが、身体が動かない。
やがて、倒れていた男が、うめき声を上げながらゆっくりと上体を起こした。
男は力なく頭を振り、周囲を見渡した。ちょうど沈みかけた夕日が彼の背後から差し込み、その顔は深い影に沈んでよく見えない。
影の中の「彼」は、おぼつかない足取りで立ち上がると、こちらに向かって一歩、また一歩と近づいてきた。
かつては、ただ流されるままに生きていた空っぽな器。しかし、目の前まで歩んできたその男の輪郭からは、今や不思議な熱量が立ち上っていた。
影になっていた彼の顔が、ふっと街灯の光の中に晒された。
「私」だ!
まだ夢の中なのか?
彼は無言のまま、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、金縛りにあっている「私」の肩に、そっと掌を置いた。
「……壊れていない。大丈夫だ」
低く、しかし確信に満ちたその声が、耳元で響いた。
それは、路地裏で砕け散った石像のことを指しているのか。
語り終えた「彼」は、憑き物が落ちたような澄んだ背中を見せると、私の横を通り過ぎ、静かに歩き始めた。
遠ざかっていく「彼」の背中。それは、明日からまた、あの「どうでもいい」と諦めていた日常へと戻っていく自分自身の姿だ。
「待て! 行かないでくれ!」
私は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。自分自身を呼び止め。だが、私の言葉は震える大気の粒となって散り、歩き続ける「彼」の耳には届かない。
物理的な距離ではなく、決定的な次元の断絶が、「私」と「彼」の間に横たわっていた。
「彼」の姿が夜の帳に溶け、路地の闇に消えていったその時。
私の脳内に、あの日途切れていた断片ではない、別の「声」が鳴り響いた。
(ヒトアメノウツシネ カムナガラ ウミイマサキ イヤミヨヤホ ウミアママカウミ ウツシソレヤス カムナガラ ミトロカヘシ アキウツシスベ ワリアマタマ ミトロカヘシ)
その瞬間、モノクロだった路地裏から、猛烈な「色」と「命」が噴き出した。
私の足元にあるアスファルトが透明になり、その下を流れる暗渠の冷たい水脈が、血管のように鼓動しているのが見える。コンクリートの微細な割れ目に潜む苔が、銀河のような輝きを放ち、大気を震わせて歌い出す。
視界が急速に拡大していく。
この路地裏だけではない。駅の喧騒、眠りにつく住宅街、そして、「私」が体験した全ての人々、あの全ての時代の「光景」が、今のこの瞬間に重なり、一つに溶け合っていく。
それは、気が遠くなるほどの重圧であり、同時に、羽毛のような軽やかさでもあった。
私は、自分がもはや「私」という小さな容器に収まる人間ではないことを悟った。
かつて「どうでもいい」と切り捨てていたこの土地の塵一つ、風のひと吹きさえもが、自分自身の体の一部であり、愛おしい記憶の欠片なのだ。
砕かれた石像の代わりではない。
私は、石像という形に閉じ込められていた「意思」そのものを引き継いだのだ。
もはや言葉はいらない。
私は、この土地の悲しみを知っている。
私は、この土地の喜びを知っている。
私は、この土地そのものになったのだ。
夜の闇の中、無人のはずの路地裏に、柔らかな銀色の光が満ちていく。
それは、明日も、その次も、この土地がある限り鳴り止むことのない、永遠の調べ。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。
題名「トコノウタヒ」はカタカムナから私なりに想像した言葉となります。
ト:統合
コ:繰り返し
ノ: 変遷
ウ:現象界
タ:発生する
ヒ:あらゆるものの根源
生命が形を変え、巡り、統合されていく。その大きな流れを一つの「題名」として表現したくて名付けました。
登場人物と参考にした人物
「私」=私であり読んでいただいた方々
晴山賢一=宮沢賢治
原正彦=田中正造
鈴川琴葉=中沢琴
本居栄貞=本居栄貞
施薬院全宗=施薬院全宗
伝次=空想の人物
安東貞季=安東貞季
国中連公麻呂=国中連公麻呂
紀奉膳=空想の人物
シト=空想の人物
参考図書等
天野成美著:完訳 カタカムナ
竹田恒泰著:国史教科書
Wikipedia等ネット検索
AIによる誤字脱字文脈確認等
本作は私にとって大きな挑戦でした。これまでは心の赴くままに書いてきましたが、今回は約三ヶ月間、徹底的に調べ、考え抜きました。
偉大な作家様方が数年をかけて一冊を編むことに比べれば、私はまだ卵にもなっていないかもしれません。それでも、今の私が持てる全ての力を注ぎ込んだ、精一杯の作品です。
登場人物たちの背景には、宮沢賢治、田中正造、中沢琴といった、私自身が敬愛する先駆者たちを投影しました。
主人公である「私」は、作者である私自身であり、同時に、今この文章を読んでいる「あなた」でもあります。
この物語が、あなた自身の足元に広がる「土地」や「歴史」に思いを馳せるきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。
感謝を込めて。
ありがとうございます。
追伸
(ヒトアメノウツシネ カムナガラ ウミイマサキ イヤミヨヤホ ウミアママカウミ ウツシソレヤス カムナガラ ミトロカヘシ アキウツシスベ ワリアマタマ ミトロカヘシ)
カタカムナの第80首となります。
私なりの解釈は、
(人の元が変遷し移される根は 目に見えない世界とこの世が今裂かれて 始まりから極限まで成長した実体の場が極限まで親和する 世界に生まれた実体は始まりの現象の根源となり生まれ 移され逸れて極限まで進行するのは 目に見えない物理であるが 身が重合し現れ根源への方向性を示す 始まりから発生した元は移されて進む方向が示される 分割された元はそれぞれの元となり その身は重合して現われ根源への方向を示す)
私はこれを、「生命の正体とその循環の完成」と読み解きました。
物語の「私」が、どのように理解したのかは、読んでいただいた皆様の解釈にお任せいたします。




