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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第4章 晴山賢一

晴山賢一として生き始めてから、三ヶ月が経過した。

私は、現代の知識と賢一の農学理論を融合させ、孤独な闘いを続けていた。肥料の不足は深刻だったが、私は賢一の残した手記を頼りに、畑の隅々まで有機物をかき集め、効率的な堆肥作りと、冷害に強いとされる雑穀の種子の確保に奔走した。農民たちは、当初は半信半疑だったが、賢一の情熱と、わずかながら効果を見せ始めた土壌の変化に、再び希望を見出し始めていた。

しかし、戦時下の物資不足は、私たちの努力を嘲笑うように深刻化していった。賢一の私設試験所へのリン鉱石の配給は完全に停止され、農具の修理すらままならない。賢一の妻は、毎日、配給の列に並び、わずかな食料と引き換えに、私の研究のための僅かな薬品や紙を確保してくれた。彼らの献身は、私の「偽りの夫」という立場を深くえぐり、私に「責任」という名の、かつてなかった重さを課した。

「私」は夜な夜な、現代のインターネットの知識を必死に思い出そうとした。しかし、脳裏に浮かぶのは、膨大な情報の断片と、それに付随する「どうでもいい」という感情の残滓だけだった。本当に重要な、当時の農業技術や冷害対策の具体的な情報は、現代の知識の海の底に沈んで、呼び起こすことができない。


そして、八月の声を聞いた頃、異変は始まった。

朝、霧が深く、太陽が昇っても、空気は氷のように冷たい。水田の水温は上がらず、稲の葉先は青さを失い、鉛色に変色し始めた。

「ヤマセだ……」

農民たちが、不安と恐怖に顔を歪めた。ヤマセ。東北の夏に吹き込む、冷たく湿った偏東風。それは、この土地の農民が昔から恐れてきた、土地の理を狂わせる自然の脅威の予兆だった。


その週末、ヤマセは本性を現した。

風は数日にわたり、止むことなく吹き荒れた。気温は平年を大きく下回り、日中の最高気温は二十度を下回る日が続いた。稲穂は、冷たい霧の中に閉じ込められ、受粉が妨げられた。まるで、土地が息をすることを拒否されたかのような、静かで、しかし決定的な生命力の停止だった。

私は、賢一の知識と現代の知識を総動員し、農民たちにできる限りの指示を出した。水田の水を抜き、土を温める。水田に藁を敷き詰め、保温する。しかし、広大な田畑に対して、私たちにできることは、焼け石に水だった。

農民たちの顔から、希望の光が完全に消え失せていった。彼らは、賢一を責めることはしなかった。ただ、運命の残酷さを受け入れるかのように、絶望的な沈黙に包まれていた。

私は、かつて経験したことのない、肉体的な疲労と、精神的な重圧に苛まれた。これは、定年を前にした「空虚な私」が感じていた「くたびれ」ではない。これは、使命を背負った者が、その使命を果たせないことへの、魂の消耗だった。


賢一の体は、この重圧に耐えかねていた。頭痛がひどく、熱が出た。賢一の肉体が、「私」という異質な意識と、時代の絶望を同時に受け止めきれずに、拒絶反応を起こし始めていた。

妻は、心配そうに私の額に濡れ手ぬぐいを当ててくれた。

「賢一さん、もう十分よ。あなたはできる限りのことをしたわ。皆、わかっている。あなたは、誰よりもこの土地を愛しているのだから」

彼女の言葉は、私の心を抉った。「誰よりもこの土地を愛している」のは、私ではなく、晴山賢一だ。そして、その愛する土地と家族を、私は守りきれなかった。


冷害は、九月に入る頃に、その結果を確定させた。

稲穂は、もみの中に乳白の澱粉を結ぶことなく、中身のない、白い殻となった。通称、「青立ち」と呼ばれる現象だ。それは、豊かに見えた田畑が、一瞬にして生命を失った墓地に変わったことを意味していた。

私は、農民たちを前に、言葉を失った。私たちがどれだけ知恵を絞り、どれだけ力を尽くしても、戦争という人為的な理不尽と、ヤマセという自然の理不尽の前には、無力だった。

農民の初老の男が、静かに私の前に進み出た。彼は、私を責めることはなく、ただ、乾いた笑いを浮かべた。

「賢一さん。あんたのせいじゃない。これは、土地の神の怒りだ。そして、兵隊さんに米を送れない俺たちの罪だ」

彼らの言葉は、私にのしかかった。彼らは、自らの運命を受け入れ、飢餓を目前にしている。


その夜、私は自室で倒れた。熱は高く、意識は朦朧としていた。

意識が闇へと沈みゆく中、私は、晴山賢一の最後の記憶を、その魂の底から受け取った。

それは、深い絶望ではなかった。

賢一は、自らの手記を、未来への祈りとして完成させていた。彼の視線は、未来の、この理不尽な時代を知らない誰かに向けられていた。

「私は敗れた。だが、私が試みた『人知をもって土地を活かす術』と、『土地を愛する情熱』は、決して滅びない。このことが誰かに届くならば、私の魂を引き継いでくれるだろう。」

賢一の魂の残滓が、私に語りかける。それは、怒りや恨みではなく、静かな安堵だった。彼の使命は、今、「私」に受け継がれた。

私の体は、再び透明な波紋に包まれ始めた。それは、路地裏の石像を倒したときに感じた、時間軸の核から放たれる強制的な引き剥がしの力だった。

視界に入った賢一の家の柱、障子、そして家族の気配が、一瞬にして液状化し、七色の光に分解されていく。


鼓膜を破る轟音とともに、私の意識は、再び白い光の粒子に包まれた。

熱と激痛。時間の流れ、空間の連続性が、私という存在から剥奪されていく。私は、巨大な力によって深淵の闇へと押し込まれながらも、もう、「どうでもいい」という虚無感は持っていなかった。

私の心には、賢一の愛と使命という名の、重く、確かな実体が残されていた。

(....ヒビキ....スベシ....アシア....マツル....ウタヒ)

聞いたことがない言葉が頭の中に響いた。

次の瞬間、私の存在は、異なる世界の、異なる肉体に着地した。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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