第37章 シト
まだ、世界に「名前」が固定される前のことだ。
日の出前。大気は湿り、夜の冷気と、これから始まる生の熱気が混じり合う、透明な闇の中にあった。
竪穴住居の中で、シトはふと目を開ける。
頭上の天窓から覗く空は、深い藍色。囲炉裏の灰の匂いと、敷かれた鹿の皮の微かな獣の残り香が鼻をくすぐる。シトは音もなく起き上がり、住居の外へと踏み出した。
裸足の裏に触れる土は、夜の間にたっぷりと露を含んで冷たく、しっとりと吸い付くようだ。
集落はまだ眠りの中にある。茅葺きの屋根が霧に紛れ、等間隔に並ぶ住居は、まるで大地から生え出した巨大な茸のようにも見えた。
シトは迷いのない足取りで、集落の端にある「聖域」へと向かう。
そこには、一際巨大な大岩が鎮座していた。
大岩の周囲には、夏至と冬至の日の出の方向を指し示すように、幾つかの石が正確な距離を保って配置されている。それはこの集落にとって、季節の巡りという「理」を計るための、音なき装置だった。
東の空が、わずかに白み始める。
シトは大岩の前に立ち、その冷たい肌にそっと掌を当てた。
岩の奥底から、微かな、しかし力強い振動が伝わってくる。それは地の底の鼓動であり、同時にこれから昇る太陽への呼応でもあった。
やがて、山並みの向こうから、鋭い光の矢が放たれた。
太陽が顔を出した瞬間、世界は劇的に変貌する。
灰色の霧は黄金色に透き通り、シダの葉に残った雫は無数の火花となって弾けた。
光は夏至の石を抜け、長い、細い影を大岩へと伸ばしていく。その影の先端が、大岩の中央にある、かつて何者かが穿ったかのような微かな窪みに、吸い込まれるようにぴたりと重なった。
その瞬間だった。
「――おぉ……」
どこからともなく、低く、力強い溜息のような声が響く。
見れば、集落の男たちが、あるいは女たちが、いつの間にか住居から出、それぞれの場所に立ち尽くしていた。
黒曜石の槍を点検していた狩人は、その刃を太陽にかざし。
水場へ向かっていた女たちは、土器を置いたその場で、濡れた手を合わせて。
誰が命じるでもなく、それぞれが、それぞれのやり方で、今この瞬間に世界が再び「始まった」ことへの、深い感謝を捧げている。
シトもまた、光に目を細めながら、喉の奥から「祈り」を漏らした。
言葉になる前の、ただの音。
だがその音は、確かに大岩に重なった影の一点を、そしてその向こうにあるであろう世界を、強く、優しくなでるようであった。
日が完全に昇ると、集落は一つの巨大な生命体のように動き出した。
森の奥からは、枯れ枝を踏みしめる乾いた音が聞こえてくる。男たちが山へ入り、森の恵みを分けてもらうための「対話」を始めた証だ。
広場では、女たちが大ぶりの土器を囲み、昨夜から水に浸けていたドングリやトチの実を石皿で丁寧に砕いている。リズミカルな「コト、コト」という音が、小鳥のさえずりと混じり合って集落の空気を満たしていく。
そこには、誰が誰に命じるという上下はない。
ただ、それぞれが自分の「手の内」にある得意なことを、流れる水が低い方へ向かうように、ごく自然に行っている。
シトは、そんな集落の営みを背中で感じながら、再び大岩へと向き合った。
彼女の役割は、この集落と「見えない理」との間にある結び目を、常に健やかに保つことだ。
シトは懐から、一欠片の黒曜石を取り出した。
それはかつて、この大岩の周辺で見つかった古い石像の破片……あるいは、そう伝えられている聖なる欠片だった。
彼女は岩の表面に刻まれた微細な文様に、その欠片をそっと当てる。
「――いつか、本来の姿に」
彼女がそう呟くのは、遠い先人から受け継いだ「声」がそう命じていると信じているからだ。大岩の特定の場所に、あるべき「形」を戻さねばならない。それがこの集落の安寧を永遠にするのだと、彼女は疑わなかった。
昼の光が最も強くなり、森が濃い緑の匂いを吐き出す頃、シトは集落の子供たちに囲まれていた。
彼女が語るのは言葉ではない。喉を震わせ、大地の鼓動を模したような不思議な調べだ。子供たちはその音に瞳を輝かせ、まるでお伽話を聞くように、全身で「声」を吸収している。
やがて、太陽は西の山嶺へと沈み、空には燃えるような朱色が広がった。
役目を終えた男たちが獲物を携えて戻り、集落の中央には火が灯される。煙が真っ直ぐに空へと昇り、今日一日の感謝を天へと届けていく。
夜の帳が下りる頃、空には冴えざえとした月が昇った。
シトは再び大岩の前に立つ。
昼間の荒々しい太陽の光とは違い、月光は大岩を銀色のヴェールで包み込み、その輪郭を柔らかくぼかしている。シトは月を崇め、今日という一日が無事に巡ったことを、静かな祈りとともに報告した。
夜の冷気が再び集落を包み込む。
シトは自分の住居へと戻り、鹿の皮の上に身体を横たえた。
囲炉裏の残り火が、爆ぜる。その不規則な音が、次第に彼女の意識の奥へと沈んでいく。
シトは満足感とともに、深い眠りの淵へと降りていった。
明日もまた、この変わらぬ理の中に目覚める。そう信じて疑わずに――。
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