第36章 紀奉膳
渋河の館は、もはや巨大な焚き火と化していた。
黒煙が天を覆い、誇り高き物部の兵たちの叫び声も、今はただ激しい炎の爆ぜる音に飲み込まれていく。
「守屋様! 守屋様!」
奉膳は、矢を吸い込み、矛を弾き返したあの重厚な楯を構えたまま、奥へと走った。
崩れ落ちる梁を楯で押し上げ、火の粉を振り払う。楯の表面はすでに黒く焦げ、美しかった年輪の文様は炭化し始めていた。だが、奉膳の腕に伝わる芯の鼓動は、まだ途絶えていない。
庭園の奥、かつて巨杉が植えられていた場所の近くで、物部守屋は独り、巨木の上に登っていた。
その体には数多の矢が突き刺さり、鮮血が幹を濡らしている。
「奉膳か……。見事な楯であった。お前の楯がなければ、私はもっと早くに、この国の行く末を見届けることなく果てていただろう」
守屋の声は静かだった。もはや憎しみも、焦燥もない。
奉膳は巨木の下に膝を突き、深々と頭を垂れた。
「申し訳ございませぬ……。守屋様をお守りするはずのこの楯が、もはや……」
「よいのだ。この世に、永遠に変わらぬ形などない」
守屋は、炎に包まれる我が館を見下ろした。
「仏も神も、この命の大きな流れの一部に過ぎぬ。奉膳よ、お前は生きろ。この楯が守ったのは、私ではない。……この木に宿した、お前の『心』だ」
それが、一族の長としての最期の言葉だった。
放たれた最後の一矢が、守屋の胸を深く貫く。守屋の巨躯が、ゆっくりと木から崩れ落ち、炎の渦へと消えていった。
守屋が消えた場所には、爆ぜる火の粉だけが舞っていた。数多の命を奪い、奪われてきた男の終焉としては、あまりに静かな、それでいて峻烈な幕引きだった。奉膳の頬を、熱風ではない何かが伝い落ちる。それは悲しみというより、一つの巨大な「理」が崩れ去るのを目の当たりにした者の、根源的な震えだった。
「守屋様――!」
奉膳の叫びは、夜明けの風にかき消された。
蘇我の軍勢が館に雪崩れ込んでくる。彼らにとって、奉膳はただの敗残兵に過ぎない。
奉膳は、ボロボロになった楯を強く抱きしめた。
(……重い。だが、暖かい。)
抱きしめた楯は、もはや元の姿を留めていなかった。敵の矛に削られ、火に焼かれ、炭化した表面が奉膳の衣を黒く汚していく。しかし、その芯に残った熱は、かつて山で巨杉が浴びていた陽光の記憶そのものだった。
「形は変わる。だが、消えぬ」
奉膳がそう確信したとき、彼の内側で別の鼓動が激しく脈打った。それは、長い間彼と共にいた「もう一人の誰か」の気配だった。
その瞬間、奉膳の意識の中にあの声が響いた。
(カタカムナヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ)
奉膳から「私」が切離されていく。
奉膳は、守屋の言葉を胸に、燃え盛る館の裏手から、一人、森へと走り去った。
背後で崩れ落ちる館の轟音も、もはや奉膳の耳には届かない。彼の胸の中には、あの一夜の杉の香りと、血に濡れた守屋の言葉だけが、確かな重みを持って生き続ける。
奉膳の歩みは止まらない。
朝露に濡れた下草を踏みしめるその足音は、やがて渋河の喧騒を遠ざけ、深い森の静寂に溶け込んでいった。
彼が抱えた炭化した楯の欠片。それは、形こそ無残に変わり果ててはいたが、かつての巨杉よりも眩い光を放っているように見えた。
歴史の表舞台から、物部という名は消える。奉膳という名も、時の砂に埋もれていく。
それは風の音に、あるいは新しく芽吹く若木の呼吸に混じり、この地を巡り続けるだろう。
遠くで館が崩れ落ちる重い音が響き、奉膳の姿は完全に森の深淵へと消えた。
あとに残ったのは、ただ美しく、冷たい夜明けの空気だけだった。
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