第35章 紀奉膳
奉膳が大木を切り出してから数日が過ぎていた。
朝廷では物部氏と蘇我氏の激闘が繰り返され、とうとう戦が始まろうとしていた。
渋河の館から数里離れた蘇我の陣営では、夜明け前の深い闇の中で、静かな火が揺れていた。
「――物部は、もはや古き抜け殻に過ぎぬ」
低い、だが地を這うような重みのある声が響く。蘇我馬子である。彼の前には、一族の精鋭たちと、大陸から招かれた僧兵、そして最新の武具を纏った将たちが居並んでいた。
馬子の手元には、金銅の仏具が篝火を反射して妖しく光っている。
「我らが求めているのは、単なる物部の土地ではない。この国を覆う澱みを、仏法という新たな光で浄化することだ。八百万の神を盾に、帝の行く末を阻む物部守屋……奴を斬ることは、この国の夜明けそのものである」
馬子の言葉に、将たちが一斉に膝を突く。
彼らにとって、この戦は単なる氏族の争いではなかった。大陸の進んだ文明と、仏という一貫した理によって、バラバラだった豪族たちを一つに束ね、強固な国を造る。そのためには、古き慣習に固執する物部は「排除すべき過去」そのものだった。
「刻が来た。……出立せよ」
東の空が、薄らと白み始めた。
蒼い闇が紫へと溶け出し、大地の輪郭がぼんやりと浮き上がる。
その瞬間、数千の兵たちが一斉に動き出した。軍靴が土を鳴らし、鎧の擦れる音が波のように広がる。
「日の出とともに、渋河を灰にせよ。新しき世に、守屋の居場所はない」
馬子の号令とともに、蘇我の軍勢は陽光を背負い、怒濤の勢いで進軍を開始した。
逆光の中に浮かぶその姿は、守る側から見れば、死を運ぶ黒い影の群れであった。
その頃、渋河の館の防塁で、奉膳は自ら造り上げた楯に手を置いていた。
地響きが聞こえる。
奉膳は、朝日の中に光る蘇我の矛先を見据え、短く息を吐いた。
(……来たか。新しき理の濁流が。)
奉膳の指先から、楯の芯へと意識が沈んでいく。
歴史という名の夜明けが、今、奉膳の目の前で残酷なまでの光を放ち始めていた。
「放てっ!」
蘇我の先陣から放たれた鏑矢が、天を引き裂くような甲高い音を立てて渋河の空を駆けた。それを合図に、数千の兵が放つ矢が黒い雨となって防塁へ降り注ぐ。
ドッ、ドッ、ドォォォォン……!
奉膳は、左手に持ったあの巨杉の楯を高く掲げた。
無数の矢が楯の表面を打つ。だが、奉膳の腕に伝わるのは、死の恐怖を伴う衝撃ではなかった。
(……聴こえる。この木は、怒っていない。)
奉膳の感覚が、楯の芯と完全に同調していた。
普通の木材であれば裂けるはずの衝撃を、奉膳が削り出した「密なる年輪」が、網の目のように分散させて大地の理へと還していく。矢が突き刺さるたびに、楯は微かに震え、あたかも敵の放つ「新しき世の大義」を一つ一つ飲み込み、消化しているかのようだった。
「うろたえるな! 突き崩せ!」
矢の雨を突き抜け、蘇我の精鋭たちが防塁に肉薄する。彼らの手には、大陸の技術で鍛えられた鋭い矛が握られていた。その一本が、奉膳の楯のど真ん中、最も硬い「芯」の部分に突き立てられる。
ガギィィィン!
鉄と石がぶつかり合ったような異音が響き、敵兵の腕が逆に弾かれた。
「なんだ……この楯は。槍が通らぬどころか、刃が欠けるとは!」
驚愕する敵を、奉膳は冷徹な眼差しで見据え、楯ごと全身で押し返した。
「……この木は、お前たちが捨て去ろうとしている八百万の時の結晶だ。数年の大義で、数千年の理が貫けると思うな」
奉膳の口から、自分でも驚くほど静かな声が出た。
だが、戦況は無情だった。
奉膳がどれほど超人的な防壁となろうとも、周囲の防塁は次々と火を放たれ、物部の兵たちは数の暴力に飲み込まれていく。
「奉膳殿、奥へ! 守屋様が……守屋様が射られたぞ!」
弟子の若者の悲鳴が、喧騒を突き抜けて届いた。
奉膳は一瞬、天を仰いだ。
朝日が、館を包む炎と混じり合い、すべてを真っ赤に染め上げている。
物部の滅び。それは奉膳にとって、世界の終わりのように思えた。だが、彼が握りしめているこの「楯」という名の命は、まだ終わってはいない。
奉膳は、炎に包まれる守屋の元へと、重い楯を掲げたまま走り出した。
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