第34章 紀奉膳
山を下り、物部守屋の館がある渋河の地に入ると、そこは山中の静寂が嘘のような喧騒に包まれていた。
「紀の奉膳殿が戻られたぞ! 巨杉を連れてきた!」
門をくぐるなり、職人たちの怒号に近い歓声が上がる。
奉膳は、泥にまみれた「修羅」から綱を解き、ようやく一息ついた。だが、休む間もなく彼の目は館の周囲を見渡す。そこには、大急ぎで組まれている防塁や、削り出されたばかりの矢来が並んでいた。
「奉膳、大義であった」
人混みを割って現れたのは、物部氏の長、守屋であった。その表情には、もはや一族の重鎮としての余裕はなく、時代の濁流を正面から受け止める者の険しさが刻まれている。
守屋は奉膳が運び込んだ巨木に近づき、その太い幹を叩いた。
「この木を、我が陣の『核』とする。奉膳、お前の手でこの命を最強の盾へと変えろ」
奉膳は黙って一礼し、再び斧を手に取った。
(……重い。だが、軽い。)
奉膳の腕を通じて、私はその感覚を共有していた。
肉体的な疲労は限界を超えているはずなのに、奉膳の意識は驚くほど澄み渡っている。
奉膳が巨木の皮を剥ぎ、一太刀入れる。
木が削られ、形を変えていくことは、死ではない。
「……見えますか、守屋様。この木は、死ぬためにここに来たのではありません」
奉膳が、自分でも無意識のうちに言葉を発していた。
削り出される木片が、雪のように地面を覆っていく。
渋河の夜は、焚き火の爆ぜる音と、休みなく続く槌の音に支配されていた。
奉膳は、館の片隅に設けられた作業場で、ただ一人、巨杉と対峙していた。
他の職人たちが造る楯は、厚い板を並べて繋ぎ合わせたものだ。だが、奉膳が手がけているのは違う。彼は、あの巨木の最も強靭な「芯」の部分を、贅沢に、かつ緻密に削り出していた。
(……ここだ。ここに、この木の『中心』がある。)
奉膳の掌は、吸い付くように木肌をなぞる。
指先が裂け、滲み出た血が乾いた杉の面に吸い込まれていくが、その痛みさえ今の彼には心地よい。
彼が狙うのは、単なる板ではない。数百年、風雪に耐え抜いた「年輪の密なる壁」だ。
奉膳は一息に「釿」を振り下ろす。余分な脂を含んだ辺材が弾け飛び、次第に赤みを帯びた硬質な心材――木の「核」が姿を現す。
その一打ごとに、作業場には杉の芳香が爆ぜるように立ち込め、奉膳の肺を、そして意識を深く満たした。
(ああ、この木はまだ脈打っている……)
奉膳は無心だった。だが、無心ゆえに、彼は「木という物質」の向こう側にある、目に見えない理に触れていた。
暗い作業場に灯る松明の火が、削り出されたばかりの心材を濡れたように照らし出す。その年輪の層は、まるで幾千もの楯が重なり合って一つの意志を成しているかのような、圧倒的な密度を持っていた。
削り出されるのは、ただの防具ではない。
それは、物部という時代の過酷な「変化変遷」を受け止めるための、依り代のようなものだった。
「奉膳殿、少しは休まれよ。手が血にまみれておる」
弟子の若者が案じて声をかけるが、奉膳は振り向かない。
「休めぬ。この木が、今の私にしか見えぬ形になりたがっている。……」
奉膳の口から、無意識に漏れた言葉。
この木は、山で主として君臨していた時よりも、今、奉膳に削り込まれている瞬間にこそ、その生命の輝きを増しているように見えた。
夜が明ける頃、作業場には、かつての巨木の面影を宿した、美しくも禍々しいほどに重厚な楯が姿を現していた。
それは、どんな刃も、どんな教えも、容易には貫けぬほどに。
奉膳は、完成した楯に最後の一太刀を入れ、深いため息をついた。
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