第33章 紀奉膳
その感触は、どこまでも深く、静かだった。
紀 奉膳は、霧に沈む巨杉の幹に、節くれだった掌を当てていた。
指先から伝わってくるのは、荒い樹皮の冷たさと、その奥に潜む巨大な生命の脈動だ。
「……良い木だ」
奉膳は、誰に聞かせるでもなく独りごちた。
飛鳥の山々は、いま、不穏な空気に包まれている。蘇我と物部。二つの氏族の対立はもはや引き返せぬところまで来ており、戦火がこの森を焼き払うのも時間の問題かもしれなかった。
だが、奉膳の関心はそこにはない。
彼は「紀の国」の血を引く者として、この木がいつ、どの方向に倒されるべきか、それだけを見つめていた。
(……ああ、そうか)
奉膳は、腰に差した手斧を抜き払った。
鈍く光る刃が、霧を切り裂く。
「すまぬな。お前の命、物部の盾として預かるぞ」
彼が斧を振り上げた。その動作には一点の迷いもない。
乾いた音が、静寂を破って森に響き渡った。
切り倒された巨杉は、山の斜面を削りながら凄まじい音を立てて横たわった。
奉膳は、跳ね上がった泥が頬に付くのも構わず、すぐに木の状態を確認する。裂け目はない。芯は驚くほど詰まっている。
「……よし、曳くぞ。遅れるな!」
彼の合図とともに、数十人の男たちが一斉に綱を肩にかけた。
飛鳥の急峻な山道から、この巨木を運び出すのは至難の業だ。木の下に「修羅」と呼ばれる木製のそりを噛ませ、湿った土の上を滑らせていく。
「エイヤ、エイヤ」という重々しい掛け声が、霧を震わせる。
奉膳は先頭に立ち、地面の傾斜を読みながら、的確に方向を指示していく。少しでも舵を誤れば、木は暴走し、男たちを押し潰す凶器へと変わる。
(生命の元は、こうして姿を変えて進んでいく……)
天を仰いでいた生命が、いまは大地を擦り、泥にまみれ、人の力によって「運命」を強制的に変えられている。だが、それは残酷な破壊ではなく、一つの「変遷」の過程なのだと。
奉膳の掌は、綱を握り、あるいは木に触れ、絶えずその「響き」を確かめている。
木が岩に当たる鈍い音。綱が悲鳴を上げる音。それらすべてのヒビキの中に、奉膳は「この木がどこへ行きたがっているか」を読み取ろうとしているようだった。
「奉膳殿、ふもとに蘇我の物見が現れたとの報せが!」
一人の若者が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
奉膳は足を止めず、ただ前方の険しい道を見据えたまま答えた。
「気にするな。我らの仕事は、この木を物部の屋形へ届けることだ。……それまでは、たとえ神が降りてこようと綱を離すな」
その声には、目に見える敵への恐怖など微塵もなかった。
彼は、目の前の「木」という実在と、それを運び出すという「理」だけに心血を注いでいる。彼は己の職責を全うしようとしていた。
山裾の霧が晴れ、視界が開けた瞬間だった。
修羅を曳く男たちの足が、凍りついたように止まった。
「そこまでだ、紀の者たちよ」
街道の先、逆光の中に並び立つ影。
蘇我の軍勢だ。彼らの手には、奉膳が手入れを怠らぬ斧とは違う、人を殺めるための鋭い矛が握られている。その穂先は容赦なく、巨木を曳く無防備な職人たちに向けられた。
「この木は、物部守屋が楯に使うためのものであろう。ここで焼き捨てさせてもらう」
蘇我の将が冷ややかに言い放つ。男たちの間に動揺が走る。綱を握る手が震え、数人が逃げ腰になった。
だが、奉膳だけは動かなかった。彼は巨木から掌を離さず、ただ静かに蘇我の将を見据えている。
「焼く、だと?」
奉膳の声は低く、そして重い。
「この木が、この山でどれほどの年月をかけて『主』となってきたか、貴様らにはわからぬのか。うぬらの都合で、この命の変遷を無に帰すというのか」
奉膳にとって、この木はもはや単なる物部の資材ではない。山から下ろし、この場所まで運び続けてきたことで、彼と木の間にはある種の「通じ合い」が生まれていた。
奉膳はこの「木」の中に、目に見える形を越えた「違う世界」を見ている。彼にとって、木を焼くことは、理そのものを汚す行為に等しかった。
「退け。さもなくば、この木を通す道はお前たちの血で濡らすことになる」
奉膳は修羅から一歩前へ踏み出し、腰の刀を抜いた。
職人の掌が、武人の拳へと変わる。
「奉膳殿、なりませぬ! 相手は多勢……!」
若者の制止も、今の奉膳には届かない。
彼は、この巨木という「生命の変遷」を次の場所へ進めるために、己の命を投げ出す覚悟を決めていた。
奉膳の刀が鞘を離れ、蘇我の兵たちが身構えた、その時だった。
「そこまでになされよ。双方、得物を引かれよ!」
鋭い声とともに、数騎の馬が小競り合いの真ん中に割り込んだ。蘇我の将が舌打ちをして矛を下ろす。現れたのは、朝廷の命を受けた調停役、あるいは両氏族の争いに心を痛める他の一族の長であった。
「今はまだ、飛鳥の土を血で汚す時ではありませぬ。この木は……ただの材木に過ぎぬ。通してやりなされ」
仲介者の言葉に、蘇我の将は忌々しげに奉膳を睨みつけた。
「……紀の老いぼれめ。運が良かったな。だが、その木が楯となる前に、お前たちの主の首が飛ぶことになるぞ」
蘇我の軍勢は、嘲笑を残してゆっくりと去っていった。
奉膳は刀を納めたが、その拳はまだ微かに震えていた。怒りのためではない。この木を守り通さねばならぬという、底知れぬ重圧から解き放たれたためでもなかった。
(……助かったのか)
静かに周囲の情景をなぞった。
兵たちが去った後の街道には、ただ巨杉だけが、泥にまみれながらも圧倒的な存在感で横たわっている。
奉膳は再び木に歩み寄り、傷ついた樹皮を優しく撫でた。
その瞬間、木が白く輝き始めた。
(現世に生きているが違う世界がそこにある事を知りなさい 生命の元は変化変遷し進んでいる アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ)
何を言っていたのか少しわかる。
言葉だったのか。
「私」はなぜ……。
奉膳の中に「私」が流れ込んだ。
(今、木が輝いたように見えたが、錯覚か)
「……曳くぞ。今日中に、物部の屋形へ届ける」
奉膳の短い号令に、男たちが再び綱を握る。
小競り合いは終わった。だが、時代の大きなうねりは止まることなく、彼らをさらなる激動へと押し流していく。
飛鳥の山々に、再び「エイヤ、エイヤ」という重い掛け声が、低く、力強く響き始めた。
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