第31章 国中連公麻呂
その日は、太陽が二つあるような、異常な熱気で始まった。
東大寺の境内を埋め尽くしたのは、数千人の人足たちの怒号と、八基の巨大な炉が吐き出す火龍のような炎だ。
今日、大仏の「首」が胴体と繋がる。
失敗すれば、この数万斤の銅の塊はただの瓦礫となり、挑んだ者たちの命もまた、責任という名の炎に焼かれることになる。
「鞴を止めな! 湯口の温度を落とすな!」
公麻呂の声が、煤煙の立ち込める足場に響く。
だが、その視界は、もはや白濁した霧の中にあった。水銀の毒は彼の眼球の奥を焼き、職人たちの顔さえ判別できなくなっている。
(……見えぬ。だが、手に取るようにわかる。……いや、見えているのはこれか)
肉眼が光を拒むほどに、脳裏に焼き付いた「構造」が、網膜の裏側に直接、像を結び始めていた。
色彩は消え、闇ですらない無の空間に、ただ一点の狂いもない「理」だけが青白く発光している。
それは、仏という概念を超えた、この宇宙を支える「地図」だった。
足場を伝わってくる鞴の振動が、そのまま型の厚みを測る「反響音」となり、公麻呂の脳内に巨像の断面図を投影していく。
「私」は、彼の意識の中で、この世のものとは思えないほど精緻な「立体パズル」が完成していく様を感じていた。
いま、公麻呂という個人の意識は消え失せている。
そこにあるのは、ただ巨大な質量をコントロールするためだけの、純粋な機能体だ。
空っぽの器(無)の中に、宇宙の設計図(有)が流れ込んでいる。
(……ここだ。右の顎の裏側。銅の勢いが死んでいる……)
公麻呂は、もはや足元を確かめることさえせず、指先の感覚と脳内の「図」だけを頼りに、灼熱の足場を移動した。
一段ごとに足場が軋み、熱風が皮膚を焦がすが、彼は痛みさえ感じていないようだった。
彼が見ているのは、外側の土壁ではない。その内側、三寸奥を流れる、煮え滾る銅の「動脈」だ。
「泥を、もっと持ってこい! 外型が熱に負けている! このままだと顎が弾け飛ぶぞ!」
視界がゼロであるはずの男が、型の微細なひび割れを、空気の振動だけで察知した。
職人たちが驚愕し、凍りつく。だが、公麻呂の「神懸かり」の采配に逆らえる者は一人もいなかった。
(カタカムナヒビキ マノスベシ……)
あの響きが、銅が冷え固まろうとする金属音と重なり、公麻呂の脳内で巨大な和音を奏で始める。
「私」は確信した。
いま、この男は、物質と精神が一つに溶け合う、人間という種の限界点を越えようとしているのだと。
その時、轟音と共に、世界の均衡が破れた。
「――ひびが入ったぞ! 逃げろ、湯が漏れる!」
絶叫が響くと同時に、公麻呂の脳内の「地図」に、鮮血のような赤い線が走った。右顎の付け根、外型の粘土が熱膨張に耐えきれず、深々と裂けたのだ。
隙間から噴き出したのは、黄金色の死だ。煮えたぎる銅が、蛇のような勢いで足場の杉材を焼き、黒煙を噴き上げながら職人たちの足元へと迫る。
「逃げるな! 泥を、濡れた莚を投げ込め!」
公麻呂は叫んだが、極限の恐怖に支配された職人たちは、生きた火龍を前にして後退るしかなかった。
(……止める。いま止めねば、すべてが溶けて消える……)
公麻呂は動いた。
視界は白濁し、足元の感触すら定かではない。だが、彼の脳内に最短の道筋を示す。彼は焼ける足場の上を、まるで平地を歩くかのような足取りで突き進む。
熱風が衣服を焦がし、眉毛を焼き、皮膚を赤黒く変色させていく。
「私」は、彼の肉体が悲鳴を上げるのを聞いた。だが、それ以上に強く、彼の魂から溢れ出す何かが、壊れゆく世界を繋ぎ止めようとするのを感じていた。
公麻呂は、足元に積み上げられていた修復用の熱泥を両手で掴み取った。
指先が、掌が、瞬時に焼けて爛れる。凄まじい激痛。
だが、その痛みが、逆に「私」と公麻呂の意識を、かつてないほど強固に結びつけた。
(視える……。欠けた箇所が、埋まるべき空間が、私には視える!)
公麻呂は、火を噴く亀裂に真っ向から飛び込み、その泥を叩きつけた。
ジュッ、という肉の焼ける音と、土の焼ける音が重なる。
公麻呂は泥を、そして自分の肉体さえも楔にするかのように、ひび割れた「肌」に押し付けた。
「私」の脳裏には、私が知る未来の、穏やかな微笑みを湛えて座る大仏の姿が、鮮烈な光となって投影されていた。その未来の「完成図」が、現在の公麻呂の指先を導き、絶望的な亀裂を塞いでいく。
「……固まれ。固まれ、固まれ!」
公麻呂の咆哮が、鞴の音を圧倒して現場に響き渡った。
銅の奔流をねじ伏せる。
数瞬の、永遠のような静寂。
やがて、火を噴いていた亀裂が、公麻呂の捧げた泥と、彼の焼けた皮膚と共に、どす黒く固まり始めた。
湯の漏れが、止まった。
「……首が、繋がったぞ……」
誰かが掠れた声で呟いた。
公麻呂は、焼けた両手を型の壁に押し付けたまま、崩れるように膝を突いた。
肉眼は光を失い、両手は炭のように焼けた。
だが、その対価として、彼はこの宇宙の「真理」の一部を、この世に導き出した。
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