第30章 国中連公麻呂
熱気が引いた後の夜は、死の匂いがした。
昼間の喧騒が嘘のように、東大寺の境内は深い静寂に沈んでいる。公麻呂は一人、足場の下に設えられた仮小屋で、墨の香りがかすかに残る図面を広げた。
だが、その手が、止まらない。
(……またか。この震えは、いつまで続く……)
指先が、細かく、痙攣するように踊っている。
それは恐怖によるものではない。金と水銀を練り合わせた「アマルガム」の煮え立つ煙を、幾度となく吸い込み続けた代償だ。水銀の毒は、確実に公麻呂の神経を冒し、その優れた空間把握能力の拠り所である「肉体」を内側から崩し始めていた。
「私」は、彼の震える指先を通して、この時代の「祈り」が孕む残酷さを知った。
公麻呂の記憶が「私」の意識と同化し、かつての情景が脳裏に蘇る。
この事業の勧進を担った行基は、泥にまみれた公麻呂の手を握り、こう囁いた。
「公麻呂殿、この巨像は器にすぎぬ。だが、その器に一枝の木、一握の土を捧げる民の思いこそが、真の仏なのだ」
行基の目は、常に地面を這う民を見つめていた。しかし、その民は今、公麻呂が指揮するこの現場で、水銀の煙に巻かれ、喉を焼かれ、次々と土に還っている。
一方で、聖武天皇の言葉は、遥か天上の星のように高く、清らかだった。
「朕は、一木一草に至るまで、この世のすべてが繋がり、響き合う世界を形にしたいのだ。公麻呂よ、宇宙の広がりを、その銅の中に閉じ込めよ」
天皇の見る「華厳」の世界。それは無限の光に満ちているが、その光を実現するために、現世の山々は切り崩され、海は汚れ、公麻呂の身体は腐り始めている。
(……宇宙か。民の思いか。私には、どちらも見えぬ……)
公麻呂は震える手を強く握りしめ、膝を突いた。
月光に照らされた未完成の巨像は、夜の闇の中でどっしりと座り込み、まるで巨大な墓標のように見えた。
行基の言う「民の犠牲」の上に、天皇の言う「宇宙の理想」を打ち建てる。その橋渡しをするのは、自分のような「物を作る」技術者の、この震える両手でしかない。
頭の奥で、またあの響きが聞こえる。
(カタカムナヒビキ……)
それは、図面に引かれた線の響きか、それとも崩れゆく細胞が上げる悲鳴か。
公麻呂は、もはや味のしなくなった舌で唇を濡らし、再び図面へと目を落とした。
震える指先が、大仏の「首」の接合部をなぞる。
ここを過てば、すべてが崩れる。民の命も、天皇の夢も、そして自分の生きた証も。
(……あと、どのくらい持つ。この手が動くうちに、この空洞を埋めねばならぬ……)
公麻呂はふらつく足取りで小屋を出た。
仰ぎ見る巨像は、月光を背に受けて巨大な虚無の輪郭を夜空に刻んでいる。昼間の熱狂が嘘のような冷気が、公麻呂の麻痺し始めた皮膚を撫でた。
彼は吸い寄せられるように、建設用の外足場へと手をかけた。
(ギィ……ギギィ……)
夜の静寂の中で、杉材のきしむ音だけが、公麻呂の心音と同期するように響く。一歩登るごとに、地上の影は遠ざかり、闇の密度が増していく。
視界の端で、また火花のような光が散った。水銀が脳を焼く幻覚か。だが、公麻呂の意識は、むしろ澄み渡っていた。
辿り着いたのは、未だ繋がれぬ「首」の直下、第六段の足場だ。
目の前には、人の肌を模したはずの、荒々しい土の壁がそびえ立っている。手を伸ばし、その冷たい肌に触れる。
「私」は、公麻呂の指先を通じて、土の奥底に眠る「骨」の震えを感じた。
巨大な木組みの芯材。数万斤の銅を支えるための、緻密かつ暴力的なまでの設計。
(……ここだ。ここが、天と地が繋がる結び目だ……)
公麻呂は、震える手で懐から木図を取り出し、月明かりに透かした。
この一点に、何万人もの人足たちの「重み」が集中する。もし鋳込みの角度が一度でも狂えば、あるいは銅の温度が一度でも低ければ、この首は自らの重さで胴を叩き割り、すべてを瓦礫の山へと変えるだろう。
それは、行基が慈しんだ民の命を、文字通り踏み潰すことを意味していた。
ふと、視線を上げた。
首の隙間から見える夜空には、天皇が語った「華厳」の如き無数の星々が瞬いている。
宇宙の広がり。
泥の中の死。
その両極端な景色を、公麻呂は今、この細い足場の上で同時に見つめていた。
「……やるぞ。壊れるのが先か、成るのが先か……」
独り言ちた声は、夜風にさらわれて消えた。
公麻呂は、震える指を強く土の壁に突き立てた。爪が割れ、血が滲む。その痛みが、唯一、自分がまだ「生きて物を作っている」という実感を繋ぎ止めていた。
「私」は、彼の壊れゆく肉体の内側で、静かにその決意を見続けた。
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