第3章 晴山賢一
私が「晴山賢一」になってから、二日が過ぎた。
昼間は、畑や作業小屋で過ごすことが多かった。賢一は、この土地で尊敬される農業指導者であり、私設の農事試験所のようなものを運営していたらしい。だが、私(元・現代の会社員)にとって、堆肥の組成も、適切な施肥量も、すべてが未知の領域だった。
幸いなことに、転移した意識には、晴山賢一の膨大な知識が、時折、閃光のように流れ込んでくる。それはまるで独自の農学理論だった。
「土壌の生命は、自然が自ら持っている力。人は助力するすべしかない。」
このような賢一の言葉が脳裏に響くたび、私は激しい混乱に襲われた。現代の「私」の頭にあるのは、財務諸表の読み方と、週末のゴルフの予約方法だけだ。この異質な知識と、現代の無関心な自分が衝突し、頭の奥で火花を散らした。
「私はこの知識を使って、誰かを救わなければならないのか?」
会社での「どうでもいい」日常に慣れきっていた私にとって、これは耐えがたい重圧だった。
夜、妻(この世界の賢一の妻)と子供たちが寝静まった後、私は囲炉裏の火を囲み、賢一の残した手記を読んだ。それは、膨大な量の農事日誌と、詩のような科学論文だった。文字は達筆で、インクは節約され薄い。この男が、どれほどの情熱と使命感をもってこの土地に生きていたか、その筆跡だけで伝わってきた。
手記の端には、賢一の深刻な憂慮が記されていた。
「今年の夏は、例年に比して日照が弱い。もし、来月、北からの冷たい風が吹き込めば、この土地の稲は再び力を失うだろう。政府の命令する米の供出量増加は、農民を飢餓に追いやる。この理に、私はどう抗えばいいのか……」
私には、現代人としての「歴史の知識」があった。1930年代の東北地方が、数年に一度、冷害に見舞われたこと、そして、この後の時代が、日本全体を巻き込む悲劇へと進むことを知っている。
この知識は、私にとって「予言」に等しかった。私は、この美しい里が、飢餓と戦争という二つの力によって引き裂かれる未来を知っている。
賢一の知識は「土地を救うための方法論」を提示しているが、私の知識は「救いようのない未来」を提示していた。
翌朝、私は妻に「気分が良い」と告げ、町へ出た。行くべき場所は、農事指導の拠点となっている古い集会所だ。
集会所には、既に数名の農民が集まっていた。彼らの顔は、疲労と、迫りくる飢えへの不安で曇っている。
「賢一さん、あんたの言う通り、今年の稲は根張りが悪い。肥料も足りんし、何より日照が足らねぇ」
私は、賢一の知識を総動員して返答した。口から滑らかに出てくるのは、「酸性土壌の改良」「有機質の添加」「窒素分の調整」といった、専門用語だった。
「慌てるな。まだ手はあります。この時期、根の活力を高めるには、堆肥の組成を改めて見直さねばならない。特に、水田の底に溜まる『澱粉質』の調整が肝要です」
私が話すたびに、農民たちは希望の光を見出すように、真剣に耳を傾けた。彼らは、賢一の「土地を愛する情熱」と「科学的な視点」を信頼しているのだ。
しかし、その希望はすぐに打ち砕かれた。
指導の最中、町の役人が集会所に飛び込んできた。彼は軍部からの通達を読み上げた。
「米の供出量が、さらに二割増加される! 戦局は厳しい。農民諸君も『国体維持のため』、最大限の努力をするように!」
集会所は、一瞬にして静まり返った。米を二割多く供出するということは、この冷害の兆しがある状況下で、農民とその家族が飢えることを意味する。
農民の一人が、怒りに震えながら叫んだ。
「馬鹿なことを言うな!このままだと、俺たちの家族は今年の冬を越せないぞ!賢一さん、あんたから何とか言ってくれ!」
すべての視線が、晴山賢一に集中した。彼の言葉こそが、農民たちの最後の希望だった。
私は、賢一の体の中で、激しく葛藤した。「私」の倫理観は、軍部の命令に公然と逆らうことを恐れていた。しかし、晴山賢一の魂は、この理不尽に対し、「否」と叫ぶことを求めていた。
「皆、落ち着いてください。私は、この通達が、この土地の理に反していることを知っている。しかし、今、感情的に反発しても、彼らは聞かない」
私は、賢一の「理想主義」と、現代の「現実主義」のバランスを取ろうと試みた。
「私たちは、土地を裏切ることはできない。だが、賢いやり方で土地を守る必要がある。供出量を守りつつ、裏作の強化、芋や雑穀の栽培を並行して行うしかない。そして、政府が把握していない土地の力を、私たちが独自に引き出すのだ!」
私の発言は、農民たちに一時的な希望を与えたが、役人は冷たく言い放った。
「賢一。あんたの理想は結構だが、米の増産こそが唯一の国策だ。余計な雑穀に肥料と手間をかけることは、非国民的な行為と見なされるぞ」
この瞬間、私は悟った。この時代、土地の理を守ることは、国策に反することなのだ。賢一の理想は、既に「裏切者」というレッテルを貼られつつあった。
家に帰ると、妻が夕食の支度をしていた。献立は、里芋とわずかな味噌汁、そして混ぜご飯だ。米を大切に守り、他の雑穀でかさ増ししているのが見て取れた。
「あなた、今日は顔色が優れないわ。皆、無理を言ってくるのでしょう」
妻は、私が口を開く前に、私の苦悩を理解していた。彼女の優しさと、子供たちの無邪気な笑顔が、私の心を強く打った。
現代の「私」には、この愛も、この使命感もなかった。私は、この家族に対し、偽りの夫として振る舞っている。しかし、彼らの生活と、賢一が愛したこの土地の理を守ることこそが、空虚な器だった私に与えられた、存在価値ではないのか。
その夜、私は再び賢一の手記を開いた。
「私は、この土地の理を書き留めねばならない。戦争や飢餓が、この土地を破壊したとしても、そして、いつの日か、誰かが、この理を再び引き継ぐだろう。」
私は、賢一が未来の「私」の存在を予言していたかのように感じた。賢一は、自らの人生を賭けて完成させ、それを未来へ託そうとしていた。
私は、この肉体に入った以上、賢一の人生を生き抜く義務がある。たとえ、その先に冷害と戦争による悲劇的な結末が待っていることを知っていても。
私は立ち上がり、賢一がいつも使っていた古い顕微鏡の前に座った。そこには、土壌のサンプルが置かれている。
「私」は、現代の記憶を辿った。土壌改良の最新の知見、リン酸と窒素の働き、そして、冷害に強い品種の知識。
もし、私が現代の知識を賢一の知識に上乗せできれば、この冷害を乗り越えられるかもしれない。
しかし、それは、歴史の流れに逆らうことだ。そして、何より、その知識を実行するための物資が、この戦時下の東北の土地には決定的に不足している。
私は、愛する家族と、賢一が命を懸けて守ろうとした土地の理を守るため、「非国民的」な道を選ばざるを得ないことを悟った。
冷害が迫る夏。それは、賢一(私)が、孤独な戦いを開始する瞬間だった。そして、この葛藤こそが、この知識と情熱を未来へ託そうとしていた。
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