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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第27章 安東貞季

合浦を出航して十余日。日本海は、文字を知らぬ巨大な獣のように、絶え間なく軍船の腹を叩き続けていた。

貞季が先導するのは、主力とは別に「北からの奇襲」を名目に割かれた大船団である。

 

船底からは、常に粘りつくような咳の音と、排泄物の腐臭が漂っていた。

陸の民である蒙古兵にとって、揺れる船上での閉鎖環境は、文字通り「毒」そのものだった。

彼らは日ごとに痩せ細り、かつて大陸を震撼させた眼光は、いまや濁った潮溜まりのように生気を失っている。

「案内人よ……博多は、まだか」

甲板で嘔吐を繰り返していた蒙古の将軍が、掠れた声で貞季を呼んだ。

貞季は表情を変えず、ただ北の空を見つめる。

「海は荒れています。次の無人島で兵を休ませ、英気を養いましょう。そこで兵糧を整え直せば、博多まではわずか数日の潮流です」

貞季の声は、冬の海のように冷たく、それでいて不思議な説得力を持って響いた。

彼は知っていた。この島々を点々とするルートこそが、彼らの精神を最も効率よく削り、兵站の限界値を越えさせる「死の迷宮」であることを。

 

貞季が選んだ「休憩地」は、荒波に洗われた岩肌が剥き出しの、名もなき無人島だった。

上陸した兵たちは、地に足がついた安堵感から、貞季が密かに仕掛けた「火」の気配にも気づかなかった。

夜、乾燥した北風が吹き抜ける中、兵糧を積み上げた仮設の小屋から、一筋の煙が上がった。

「火事だ!」という叫び声が、波の音を裂いて響き渡る。

燃え上がる炎を、貞季は少し離れた波打ち際から、ただ静かに見つめていた。

(……これでいい。支配を信じた者たちの末路だ……)


翌朝、灰になった食料の山を前に、将軍は激昂し、それから絶望した。

「戻るべきだ」と、貞季はわざと、もっともらしく、そして冷徹に提案する。

「兵糧は尽き、病人も多い。一度、高麗へ引き返すべきです」

その言葉は、誇り高い蒙古の将にとって、最も屈辱的な毒薬だった。

「黙れ! 戻ればクビライ皇帝に首を撥ねられるわ! このまま南下し、現地の民から奪えばよい!」

将軍の怒声に、貞季の口元がわずかに、残酷な曲線を描いた。

「……左様ですか。ならば、最短の潮流へお導きしましょう」

それは、地獄への特等席への案内状だった。


無人島を発った船団は、もはや軍隊の体を成していなかった。

焼け残った僅かな乾肉は、船底に這う病兵たちの口に入る前にカビに覆われ、真水は粘り気を帯びて腐臭を放っている。

空の色が、淀んだ鉛色から不気味な紫へと変色していく。

貞季は甲板に立ち、波の周期を数えていた。「嵐の到達」まで、残り数時間。彼は舵を握る安東の身内に、極めて短い合図を送る。

「帆を下げろ。ただし、蒙古の船からはそう見えぬよう、索を緩めるだけに留めよ」


やがて、水平線の彼方から「音」が消えた。

不自然な静寂。次の瞬間、海面が激しく逆立ち、巨大な鉄槌のような風が船団を叩きつけた。

「案内人! 潮流が違うぞ! どこへ導いている!」

将軍の叫びは、防風の咆吼にかき消された。

貞季は答えなかった。彼はただ、荒れ狂う波の「谷間」だけを見つめていた。

波高は十メートルを超え、急造された蒙古の軍船は、接合部の釘が一本ずつ弾け飛ぶたびに、悲鳴のような軋みを上げた。

一艘、また一艘と、黒い影が波間に消えていく。

病に冒された兵たちが甲板から滑り落ち、二度と浮き上がってこない光景を、貞季は瞬きもせずに見届けていた。

彼の船が、わざと最も激しい「三角波」の渦中へと突っ込んでいく。

「俺に続け!」

その声だけを蒙古船に残し、貞季の船は巨大なうねりの裏側へと姿を消した。

耳を劈くような嵐の音が、嘘のように消えていた。


視界を覆っていた飛沫は去り、そこには水平線までどこまでも澄み渡った、鏡のような快晴の海が広がっている。

貞季の船は、大きく傾ぎながらも、対馬海峡から遠く離れた海域を漂っていた。

周囲に蒙古船の影はない。浮いているのは、粉々に砕けた船体の破片と、主を失った無数の革兜だけだった。

 

「……若、お怪我はありませんか」

舵取りの男が、潮を拭いながら声をかける。貞季は無言で首を振った。

彼は懐から、クドゥン将軍に与えられた黄金の牌子パイザを取り出した。文字が刻まれ、権威を象徴していたその金属片を、彼は何の感慨もなく、紺碧の海へと放り投げた。

泡一つ立てず、それは「檻」の終焉と共に、海の底へと沈んでいった。


静寂を破ったのは、水平線の向こうから響く、聞き慣れた安東の角笛の音だった。

白波を蹴って現れたのは、あらかじめこの海域で待機させていた、十数艘の安東の快速船である。

帆に描かれた「割り菱」の紋章が、朝日に輝いている。

「若! ご無事で!」

隣り合った船から、仲間の声が飛ぶ。

貞季は、九州のある南を一度も振り返らなかった。

「北へ。……日高見へ戻るぞ」

穏やかな追い風を受け、安東の船団は一斉に舳先を北へと向けた。

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