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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第22章 伝次

中村の実家を飛び出した伝次の足は、自然と坂本の宿場へと向かっていた。

背後には、沈みゆく血のような夕陽が、乾いた大地に長い影を落としている。馬の蹄が土を蹴る音だけが、耳の奥で鳴り止まない不協和音と重なっていた。

(……ああ、空気が重い……)

まるで死の匂いが混じった、重く湿った「沈黙」が街道を覆っているのだ。


街道沿いには、ぼろ布のようなものを纏ってうずくまる人々がいる。彼らは伝次が通り過ぎても、顔を上げる気力さえない。疫病か、飢えか。どちらにせよ、ここには「明日」という概念が存在していないかのようだった。


宿場の中央、馬借たちの溜まり場に到着すると、そこでは数人の男たちが小さな焚き火を囲んでいた。

燃料すら惜しいのか、火は今にも消えそうに爆ぜ、男たちの頬を不気味に赤く照らしている。


「……戻ったか、伝次」

弥助が力なく言った。その手には、空になった椀が握られている。

「家はどうだった。太郎の兄貴は、相変わらず証文を拝んでたか?」

伝次は答えず、相棒の馬の手綱を杭に繋いだ。馬が小さく鼻を鳴らす。

「兄貴は死んでるよ」

伝次の口から出た言葉は、冷たく鋭かった。

「息はしてるが、心はあの紙切れの中に閉じ込められて、もう腐っちまってる。あんなのは人間じゃねえ。ただの『文字の奴隷』だ」

焚き火を囲む男たちが、一様に肩を震わせた。伝次の言葉は、彼ら自身の鏡でもあったからだ。

「滅多なことを言うな。俺たちだって、似たようなもんだ。土倉に睨まれりゃ、この馬も、明日食うための種籾も、全部持っていかれちまう……」


その時、一人の若い馬借が、都から持ち帰ったばかりの噂を吐き出すように言った。

「おい、聞いたか。京じゃあ、新しい将軍様を『くじ引き』で決めたってよ。八幡宮の神様の前で、紙を引いて、出た名前がこの国のあるじだってよ」

一瞬の沈黙の後、焚き火の周りに乾いた笑いが漏れた。それは可笑しみではなく、極限まで追い詰められた人間が漏らす、自嘲の響きだった。

「くじ引き、か。俺たちの命も、神様の指先ひとつで決まるってわけだ」

「笑えねえよ。お偉いさんたちがそうやって遊んでる間にも、俺たちの村じゃあ、毎日誰かが土に還ってるんだ」

神仏への信仰、お上への畏怖。それらが「くじ引き」というあまりに軽い事実によって、ガラガラと崩れ去ろうとしている。

「神様が紙を引くなら、俺たちも引かせてもらおうじゃねえか」

伝次が焚き火を一歩踏み越え、中央に立った。

その目は、これまで見たこともないような冷徹な光を宿している。

「お上が俺たちの命をくじで決めるなら、俺たちはこの拳で、自分たちのことわりを引き寄せてやる。いつまであの消えそうな火を眺めて、死ぬ順番を待ってるつもりだ、弥助!」

焚き火が、伝次の気迫に呼応するように、パチリと大きく爆ぜた。

闇に沈んでいた宿場の空気が、確かに、変わり始めていた。


伝次の言葉に射抜かれたように、弥助が顔を上げた。焚き火の微かな光が、その落ち窪んだ目元に、深い絶望の影を落としている。

「……自分たちの理、だと? そんな威勢のいいことが言えるのは、お前に守るべき家も土地もねえからだ、伝次。俺たちには……」

「家ならさっき捨ててきた!」

伝次の怒声が、夜の静寂を切り裂いた。

「兄貴が、あの腐りかけの証文を命より大事に抱えてるのを見て、吐き気がしたんだ。弥助、あんたが大事に守ってるその『家』や『土地』は、今、あんたの子供に一口の粥を食わせてくれてるか?」

弥助は言葉を詰まらせた。彼の家では、先月、三歳になる娘が「腹が減った」とも言わなくなった末に、眠るように息を引き取っていた。村の連中は皆、それを『仕方のないこと』として片付けた。お上が、仏様が、神様が決めた運命なのだと。

(……なんて静かな地獄なんだ……)


伝次は、弥助の前に膝をつき、彼の痩せこけた肩を強く掴んだ。

「俺たちは、馬の背に荷を積んで、この街道を何百往復もしてきた。道を作ったのはお上じゃねえ、俺たちの足だ。荷を運んで都を食わせてるのは俺たちだ。なのに、なぜ俺たちが真っ先に野垂れ死ななきゃならねえ」

「都の土倉には、俺たちの血を吸い上げた米が山ほど積まれている。あいつらは、くじを引いて遊んでる。神仏の御心がどうだの、文字で書かれた理屈がどうだのとのたまいながらな」


伝次は立ち上がり、周囲で耳をそば立てている十数人の馬借たちを順に見回した。

「なら、俺たちも『御心』を形にしてやろうじゃねえか。文字の書かれた紙切れをすべて燃やして、この世の借りをまっさらにする。それが、俺たちが今ここで生きるためだ。」

闇の中で、男たちの呼吸がわずかに早まるのが分かった。

今まで彼らを縛り付けていたのは、暴力ではない。「文字」という名の呪縛だ。自分たちの命よりも、算用状に書かれた数字の方が重いという、何百年もかけて植え付けられた錯覚。


「……本気か、伝次。土倉を襲うのは、幕府を敵に回すってことだぞ」

弥助の声が震えている。だが、その震えはもはや恐怖だけではない。

「幕府だか何だか知らねえが、あいつらは馬も引けねえ。土も耕せねえ。俺たちが動かなきゃ、都の連中は明日には干上がるんだ」

伝次は焚き火の側にあった一振りの鎌を取り、それを高く掲げた。

「夜明けを待て。坂本の、大津の、そして山城の仲間たちに伝えろ。『徳政』は待つもんじゃねえ、奪い取るもんだとな」


火の粉が夜空に舞い上がる。

将軍不在の空白。くじ引きで決まる権威。疫病と飢饉。

すべての不条理が混ざり合い、この坂本の宿場を起点に、歴史の歯車が狂おしいほどの熱を上げて回転し始めた。

伝次の目に映る赤い火は、もはや焚き火のそれではない。それは、まもなく京都の街を焼き尽くし、古い時代の理を灰にする、民衆の怒りの炎そのものだった。


夜が深まるにつれ、坂本の宿場には一人、また一人と影が増えていった。

伝次の発した熱に当てられたかのように、近隣の馬小屋や粗末な小屋から、飢えに震える馬借たちが吸い寄せられてきたのだ。その数は、いつの間にか五十を超え、焚き火の明かりでは照らしきれないほどの黒い波となっていた。


「……おい、中村の伝次。さっきの話は本当か」

集団の中から、声が上がった。それは大津から流れてきた年配の馬借だった。

「土倉を襲えば、お上の軍勢が黙っちゃいねえ。侍たちが刀を抜いてやってきたら、俺たちの鎌や鍬で何ができるってんだ。命を捨てるだけじゃねえか」

その通りだ、と同意の囁きが広がる。民衆の心に深く刻まれた「武力」と「権威」への恐怖。それは数百年かけて骨の髄まで染み付いた、抗いようのない重力だった。


伝次は、焚き火のそばに置かれた大きな荷台の上に飛び乗った。

視界が開ける。冷たい夜風が頬を叩くが、体の中は沸騰した湯のように熱い。

「命を捨てる? 笑わせるな!」

伝次の喉が、私の意識と共鳴して震えた。その声は、もはや一人の若者のものではなく、時代そのものが放つ咆哮のようだった。

「いいか、みんなよく聞け! 俺たちが持ってるのは鎌や鍬だけじゃねえ。この国の喉元を締め上げる『鍵』だ!」

伝次は京都の方角を指差した。

「京の都に住む貴族も、侍も、坊主もな、自分じゃあ米一粒、薪一本運びやしねえ。俺たちが馬を止めれば、あいつらは三日で干からびるんだ。あいつらが振りかざす刀は、俺たちの血を吸って磨かれたもんだ。だが、その血が止まれば、刀はただの鉄屑だ!」

男たちが息を呑む。自分たちが都を、そしてこの国を物理的に支えているという「物流の力」の自覚。それは、文字を知らぬ彼らが初めて手にする、概念という名の武器だった。

「お前たちが恐れてるのは、あいつらが書いた『文字』だ! 証文に書かれた借金の数字だ! だがな、そんなものはただの墨の跡だ。俺たちが『払わん』と言えば、それはただの汚れた紙に過ぎねえ!」


伝次の意識と「私」の意識。そして、この場にいる「持たざる者」たちの意識が、一つの太い線となって繋がった。


「くじ引きで選ばれた将軍が、俺たちの死に様を決めるのを待つのか? それとも、自分たちの手で、この世の借りを灰にするのか!」

伝次は、自分の腕を傷つけ、流れる血を焚き火に翳した。

「俺たちの命は、誰の持ち物でもねえ。この血の熱さこそが、ただ一つだ! 俺は行く。たとえ一人でも、京の土倉の門を蹴破って、あの呪われた証文をすべて燃やしてやる。俺の馬と共に、地獄の先までな!」


「……伝次」

最初に声を上げたのは、弥助だった。彼はゆっくりと立ち上がり、手にしていた錆びた鎌を固く握りしめた。

「……俺も、行く。娘に、せめてあの世で『父ちゃんは戦ったんだ』と胸を張って言いてえ」

「俺もだ!」「やってやる!」「文字なんぞに殺されてたまるか!」


地鳴りのような咆哮が、宿場を震わせた。

それは、数千年の間、土に這いつくばってきた「個」の叫びが合流し、巨大な「うねり」へと変わった瞬間だった。

「私」は、伝次の瞳を通して、男たちの顔に宿った異様な光を見た。それは狂気ではない。自分たちの運命を、自分たちの手に取り戻した人間だけが放つ、尊厳の輝きだった。


「よし、火を掲げろ!」

伝次の命じた瞬間、宿場中の松明に一斉に火が灯った。

闇に閉ざされていた坂本が、赤々と照らし出される。


「私」は伝次の高揚した精神の波に揺られながら、これから始まる「破壊と再生」の狂騒に、深く身を投じていくことを確信していた。


一度火がついた男たちの顔からは、先ほどまでの迷いが消えていた。

だが、怒りだけで都へ突っ込めば、訓練された侍たちの前に屠られるだけだ。伝次の中にいる「私」は、歴史が証明している一揆の「勝因」を知っていた。それは、馬借という中世最強の「情報ネットワーク」を最大限に活用することだ。


「いいか、闇雲に走るんじゃねえ。俺たちの強みは、この道を知り尽くしていることだ」

伝次は地面に落ちていた枝を拾い、焚き火の前の土に、近江から山城、そして都へと続く街道の図を荒々しく描いた。

「弥助、あんたは腕利きの五人を連れて、今すぐ琵琶湖の西、堅田の衆に伝えろ。あいつらも土倉には煮え湯を飲まされているはずだ。大津の連中には俺が走る。山科の関を越える前に、三千の数は揃えるぞ」

男たちが次々と頷く。

彼らは本来、組織立った兵ではない。だが、日々重い荷を運び、険しい峠を越える中で培われた連帯感がある。誰がどこで馬を休め、どの村にどれだけの隠し米があり、どの役人が賄賂に弱いか。その「生きた情報」が、今、戦の地図へと書き加えられていく。


「合図は、明日の夜明けだ」

伝次は空を見上げた。月はまだ高いが、その輝きはどこか冷たく、決戦の時を促しているようだった。

「比叡山の麓から、京都の東山に向けて、順に狼煙を上げる。最初の煙が見えたら、それぞれの村の寺の鐘を鳴らせ。それが『徳政』の始まりだ。借金の証文を持っている奴、年貢を絞り取られている奴、全員を街道に呼び出せ」

伝次は一人一人の目を見た。

「これは単なる喧嘩じゃねえ。新しい理を作るための祭りだ。相手は文字の力を信じているが、俺たちはこの土の重さを信じている。いいな、奪い返すのは金じゃねえ、俺たちの『命の価値』だ!」

「おう!」

低い、だが地響きのような返唱が宿場に響いた。


男たちは、自分の馬に歩み寄り、最後の手入れを始めた。馬の背を叩き、耳元で何かを囁く。馬たちもまた、主人たちの決意を感じ取ったのか、狂乱することなく、静かに、だが鋭く嘶いている。

伝次もまた、愛馬の首筋を撫でた。


「……伝次。お前、本当に変わったな」

出発の準備を整えた弥助が、隣に並んだ。

「前のお前は、ただ不貞腐れて街道を走るだけの、どこにでもいる若造だった。だが今のその目は……まるで、これから起きることをすべて知っている、神様か何かのようだぜ」

伝次は苦笑した。

「神様なんかじゃないよ、弥助。俺は、ただの『中村の伝次』だ……。」


「私」は、彼の体の中で深く息を吸った。

歴史の教科書には書かれない、名もなき民衆一人一人の、震えるような覚悟。その集積が「一揆」という巨大な現象を創り出す。


やがて、東の空がわずかに白み始めた。

それは、平安貴族たちが愛でた「あけぼの」ではない。古い皮を脱ぎ捨てようとする、混沌と破壊の夜明けだ。


「行くぞ!」

伝次が馬に飛び乗り、真っ先に街道へと駆け出した。

背後からは、数十騎の蹄の音が、濁流となって続いた。

街道の土はもはや乾いてはいない。そこには、新しい時代を渇望する男たちの、ほとばしる情熱が染み込んでいた。

比叡の山影から、一筋の細い煙が天に向かって立ち上る。

続いて、大津から、山科から、次々と火の手が上がった。

民衆の手によって、力強くめくられようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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