第21章 伝次
街道の土は、死んだ獣の肌のように乾ききっていた。
正長元年(一四二八年)、秋。近江・坂本の宿場に力なく響くのは、馬の蹄の音と、疫病に怯える民の啜り泣きだけだ。
中村の伝次は、相棒である連尺馬の首筋を、愛おしむというよりは生存を確認するように叩いた。指先に伝わる馬の体温だけが、この凍りついたような世界で唯一信じられる「熱」だった。
馬の背に揺れるのは、都の特権階級へ届けるための酒や油。だが、それを運ぶ伝次の腹は、数日前の粥の記憶すら薄れるほどに空いている。
「……また、上がったか」
伝次は懐から、手垢で黒ずんだ算用状を取り出し、吐き捨てるように呟いた。
そこには、昨今の飢饉による物価の高騰と、借りた覚えもない「利息」の数字が、無慈悲な墨の跡となって並んでいる。
文字。それは支配の道具だ。
田畑を耕し、街道を駆け、泥にまみれて生きる自分たちの命が、なぜこの小さな紙切れ一枚に縛られ、吸い尽くされなければならないのか。長男ではない伝次には、兄のように「先祖代々の土地」という守るべき言い訳すらなかった。
ふと、耳の奥で、風の鳴る音とは違う響きが混じった。
(……ト……コ……ノ……)
それは、地面の底から這い上がってくるような、不揃いで、ひどく苛立った「不協和音」だ。
今の世の仕組みが、音を立てて軋んでいる。
横を歩く仲間の馬借、弥助が声を潜めて言った。
「聞いたか、伝次」
「ん?」私は聞き返した。
弥助の顔色は土色で、目は落ち窪んでいる。
「京の将軍様が死んでから、もう半年以上だ。次が決まらねえんで、今度は『くじ引き』で決めるんだとよ。神仏の御心だってよ」
伝次は鼻で笑った。
「くじ引き、だと。この世の地獄を救うのが、紙の端っこに書かれた名前一つかよ。笑わせるな」
だが、その冷めた言葉の裏で、伝次は直感していた。
重しが消えたのだ。
この国を抑えつけていた大きな蓋が、将軍の死とともに、ほんのわずかに浮き上がっている。
坂本の宿場を外れ、伝次は数日ぶりに生まれ育った「中村」の土を踏んだ。
村の入り口には、飢えに耐えかねて行き倒れた者の骸が転がり、それを避けるように村人たちが力なく往来している。かつて「命の音」を奏でていたはずの田畑は、ひび割れ、沈黙していた。
実家の古びた家屋に入ると、そこには囲炉裏の火も点けず、ただ薄暗い奥の間でうずくまる兄、太郎の姿があった。
「……兄貴、戻ったぞ」
声をかけても、兄は力なく顔を上げるだけだった。その手には、伝次の懐にあるものよりもさらに分厚い、借金の証文が握られている。
「伝次か……。今しがた、土倉の使いが来た。利息が払えねば、来年にはこの家も、親父から受け継いだ田も、すべて持っていくとよ」
兄の声には、怒りすら残っていなかった。ただ運命に屈した者の、乾いた諦めがあるだけだ。
「仕方あるまい。文字で書かれた約束だ。お上の決めた理には、逆らえぬ」
その言葉を聞いた瞬間、伝次の耳の奥で鳴っていた不協和音が、一際大きく、鋭く弾けた。
「お上の理だと? 兄貴、あんたはあの紙切れに書かれた墨の跡が、俺たちの血よりも重いって言うのか」
伝次は兄の手から証文をひったくろうとした。
「あいつらは、一度もこの土を耕しちゃいねえ。街道の泥を啜っちゃいねえ。ただ蔵の中で筆を動かしているだけの奴らに、なぜ俺たちの命を断つ権利がある!」
「止めろ、伝次!」
兄が必死に証文を抱え込む。
「長男ではないお前には分からんのだ。家を、名を残すためには、耐えるしかないのだ。くじ引きでも何でもいい、新しい将軍様が決まれば、いつか慈悲が……」
伝次は絶望した。
この男は、自分を縛っている鎖を、自らの命そのものだと思い込んでいる。
兄だけではない。この村も、隣の宿場も、文字を知らぬ農民たちが、文字によって作られた「理」という名の牢獄に閉じ込められているのだ。
伝次は無言で立ち上がり、家を飛び出した。
外の空気は冷たく、空には不気味なほど赤い夕焼けが広がっている。
ふと、馬が嘶いた。その目は、狂乱した人間たちの世界を、どこか冷徹に見据えている。
(……ト……コ……タ……チ……)
不協和音が、形を変え、増大し始めた。
現状をすべて破壊し、根底から書き換えようとする、剥き出しの響き。
目の前が白く霞んでいく。
意識が途切れた。
「伝次どうした?」
見知らぬ者が目の前にいた。
「私」は、(……ああ、またか……)と、諦念に襲われた。
だが、思考が追いつくよりも早く、伝次の膨大な記憶と焦燥が、濁流となって私の中に流れ込んでくる。
気づけば「私」は、掌に食い込む馬の手綱を、伝次の意志と共に強く握り直していた。
「兄貴、俺はもう待たねえ。お上の慈悲も、神仏のくじ引きもな」
それは私の声であって、「私」の声ではなかった。「伝次」の魂が、私の喉を借りて咆哮していた。
街道の先、京都の方角から、風に乗って微かなざわめきが聞こえてきた。
それはまだ言葉にならない叫びだったが、伝次と「私」には分かった。
自分と同じ「渇き」を抱えた何万という命が、今、一斉に肺を膨らませ、最初の一呼吸を吸い込もうとしているのだ。
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