第20章 施薬院全宗
激動の夜が明け、博多の湊には、何事もなかったかのような穏やかな潮騒が戻っていた。
南蛮のガレオン船は、秀吉の命により湊の遙か沖へと追いやられ、その巨大な影は朝霧の中に消えかけている。昨夜、地獄のような怒号が響いていた岸壁には、今はただ、打ち寄せられた海藻と、砕かれた鎖の破片が砂にまみれて転がっているだけだった。
私は、潮風が吹き抜ける臨時救護所の筵の上に座り、昨夜救った少女を眺めていた。
彼女は、差し出された白粥を一口ずつ、震える手で運んでいる。泥を洗い流し、清潔な白衣を纏った彼女は、まだ幼い一人の少女に戻っていた。
「……おいしい」
掠れた声で、彼女が初めて日ノ本の言葉を口にした。その瞳に宿ったのは、異国の闇への怯えではなく、生きようとする微かな光。その微笑みは、昨夜私が博った全財産よりも、秀吉が偏愛する黄金の茶器よりも、はるかに重く、眩い輝きを放っていた。
「お前の名は、今日から『琴』だ」
私はふと、かつての人生で愛した人の名を口にしていた。彼女がその名に込められた深い祈りを知る由もない。だが、この日ノ本の土で、再び「人」として生きていくための言霊として、私はその名を彼女に託した。
「コト……」
彼女の小さな返事が、潮騒に溶けていく。私はその響きの中に、遠い昔に聴いた誰かの声や、誰かの歌を聴いたような気がして、静かに目を閉じた。
「……全宗。貴様、昨夜は随分と派手に動いたようだな」
箱崎の陣、静まり返った茶室。
秀吉は、昨夜の狂気が嘘のように穏やかな顔で、私の前に座っていた。手元にあるのは、昨夜彼自身の手で打ち砕かれた器に代わり、新しく用意された名もなき黒茶碗だ。
茶を点てる水の音だけが、張り詰めた空気の中に響く。
「上様の命に従い、湊の賊を掃討し、奪われた民を救い出したまででございます」
私は一歩も引かず、淡々と答えた。秀吉は私の目を見て、ふっと鼻で笑った。
「嘘をつけ。貴様は、わしの怒りを利用したのだ。わしが伴天連を憎むよう仕向け、わしの軍勢を使って、自分の守りたいものを守った。そうだろう?」
天下人の目は、すべてを見透かしていた。彼は、私が昨夜仕掛けた「博打」の正体を知っている。利用されたことへの怒りか、あるいは――。
「全宗、わしは孤独よ」
秀吉は茶を飲み干し、虚空を見つめた。
「皆、わしを恐れるか、媚びるか、出し抜こうとする。だが、貴様のように、わしの狂気さえも薬に変えて見せる男は、そうはおらぬ」
彼はそう言って、膝元に転がっていた器の破片を、私の方へ投げ寄せてきた。
「その命、せいぜい大事に使え。貴様が救ったその『塵あくた』どもが、いつかこの国の宝になる日が来るのか、わしには分からぬがな」
それは、天下人なりの、最大の感謝であり、許しであった。私は無言で頭を下げ、その器の破片を拾い上げた。
私は箱崎の陣を後にし、湊へと歩みを進めた。
懐には懐紙に包まれた器の破片。
(上様……)
先程見せた秀吉の姿が脳裏に浮かんだ。
と同時に、目の前が白い光に包まれ始めた。
(カタカムナヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ)
まただ。
また聞こえる。
何を言っているんだ。
意識が遠のいていく……
ダメだ、まだやることが……
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