第2章 晴山賢一
意識が浮上したとき、最初に感じたのは、冷たい土の感触と、鼻腔を満たす土と草の濃密な匂いだった。
「私」はゆっくりと目を開いた。
白い光、轟音、全身を圧迫した激痛。それらは既に遠い記憶のように消え失せ、残されたのは、静寂と、頭上で広がる眩しいほどの青空だった。
しまった、昼まで寝ていたのか。
目の前には、整然と並ぶ若々しい杉の木立。その隙間から射し込む午後の光が、私の顔を焼いている。そして、足元の土は硬く、冷たい。この匂い、この空気の清冽さは、アスファルトと排気ガスの匂いが染み付いた現代の路地裏とはあまりにもかけ離れていた。
起き上がろうとした瞬間、私は異変に気づいた。
体は、驚くほど軽かった。五十五歳の私を常に覆っていた、肩甲骨の奥の鈍い痛みや胃の不快感が、跡形もなく消え去っている。自分の右手を見た。指は細く、皮膚にはハリがある。定年を前にくたびれ果てた、あの「空虚な器」の手ではない。
「……私の体じゃない」
思わず口から漏れた声は、若く、張りがあり、澄んだ響きを持っていた。
そのとき、頭上から声が降ってきた。
「おや、目が覚めたか。晴山さん。まったく、こんなところで寝ておるから、頭を打って気を失うんだ」
私は慌てて体を起こした。声の主は、顔中に深い皺を刻んだ初老の男だった。男は頭に手ぬぐいを巻き、粗い麻の作業着を着ており、足元には鍬が置かれている。一目で、この土地の農民だとわかる。
男は心配そうな顔をしながらも、鍬を手に持ち直した。
「あんたはここで何をしていたんだね。日が傾く前に家に帰ったほうがいい。奥さんも心配するだろう」
私は立ち上がり、ふらつく頭で周囲を見渡した。畑。杉林。遠くに見える家々は、どれも茅葺き屋根を戴いており、電柱は一本も見えない。見えるのは、清冽な水の流れと、豊かな緑だけ。
「ここ、は……、どこですか?」
私の口から出た言葉は、自分でも驚くほど、洗練された標準語だった。現代の「私」の言葉遣いだったが、農民は特に気にしなかった。
農民は怪訝そうな顔をした。
「何を言うんだ、晴山さん。ここはいつもの畑の脇だろう。本当に頭を打ったせいで、おかしくなったのかね」
「私の名前は……晴山? 私はここに何をしに来たんですか?」
男は鍬を放り投げ、私の顔を覗き込んだ。彼の視線には、本気の心配が宿っている。
「何を馬鹿な!あんたは賢一さんだろうが!今日はいつもの通り、この畑の堆肥の具合を見に来たんだろう。まったく、急にそんな冗談を……」
堆肥。畑。賢一。頭を打った。
混乱した情報の断片が、脳内で激しく衝突した。私は晴山賢一という名前で、この土地の農業指導者か何かであり、堆肥の様子を見に来て、うっかり転んだことになっている。
私は、頭の中で整理がつかないまま、男に尋ねるしかなかった。
「……すみません、頭がまだ混乱しているようだ。私の家は……どこだったか、道がわからなくなってしまった」
「はぁ、困ったもんだ」と農民はため息をついた。
「いいかね。ここから、あの向こうの雑木林を抜けて、水車小屋を過ぎてすぐの、一番大きな家だろう。いつもの道だ。私が送っていこう」
男は、私を「晴山賢一の家」へと案内し始めた。
歩きながら、私は周囲の景色を観察した。道の両脇に広がる田畑は、一見すると豊かに見えるが、よく見ると作物の背丈がまだ低く見える。
農民は、私の無言を頭を打ったせいだと解釈し、優しく語りかけてきた。彼は、この土地の男が持つ独特の訛りを持ち、彼の話す内容は、当時の貧しい生活と、軍部の統制が厳しくなっている現実を垣間見せた。
「今年は本当に困ったもんだ。去年の米も底をつきかけている。軍隊に持っていかれる分が増えてな……あんたが勧めてくれたアラスカ産のリン鉱石を肥料にしたが、このままじゃ……」
リン鉱石。戦時下の物資。農民の苦悩。すべてが、現代の私にとって知識でしかない「歴史」だった。しかし、今の私は、その歴史を肌で感じることになったのだ。
そうして案内された晴山賢一の家は、路地の奥にある一際大きな建物だった。茅葺き屋根に古い木材が使われた、質素だが、この土地で尊敬を集めている者の家だとわかる。
農民が声をかけると、戸が開いた。
「ああ、あなた! 賢一さん!」
私を出迎えたのは、自分より一回り若い、慎ましくも知的な顔立ちの女性だった。彼女は、私の顔を見るなり、安堵と同時に深い心配の色を浮かべた。その表情は、彼女が心から私(賢一)を愛し、信頼していることを示していた。
女性の後ろには、二人の小さな子供が顔を覗かせている。彼らは私を見て、不安げながらも、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「お父さん!」
子供たちが駆け寄ってきた。私は咄嗟に体が動かなかった。この温かい感情、この家族の繋がりは、現代の私が家で感じていた空虚な疎外感とは正反対の、濃密な愛だった。
「どうしたの、こんなに遅くなって。それに、服に土が……」
女性は私の腕を取り、家の中に促した。
農民が、申し訳なさそうに説明する。
「奥さん、賢一さんが畑の脇で気を失っておって。頭を強く打ったようだ。少し、話がちぐはぐになっておる。医者を呼んだほうがいいかもしれん」
女性は私の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「そうね、きっと頭を打ったのよ。大丈夫。中に入って、温かいものを飲んでください」
私は、その優しさに、足が竦んだ。
この見知らぬ家、見知らぬ家族、見知らぬ人生。彼らは、目の前の「私」を、晴山賢一という名の、愛すべき夫であり父であると信じて疑わない。
私は、彼らに「私はお前たちの知っている賢一ではない」とは言えない。言っても信じてもらえないだろうし、何より、この家族の温かい繋がりを、私の手で壊すことなどできなかった。
部屋の隅に置かれた鏡を、私は見た。映っているのは、若々しい、情熱的な瞳を持った男の顔だ。
現代の「空虚な器」としての私は、ここで終焉を迎えた。私は、この瞬間から、晴山賢一になった。
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