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トコノウタヒ  作者: しゅう


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第18章 施薬院全宗

箱崎の浜に停泊する、ポルトガルのガレオン船。

闇夜に紛れ、私は「検疫(病を未然に防ぐ)」という医師の特権を盾に、その黒き怪物の胎内へと足を踏み入れた。

案内する南蛮人の水夫は、慣れぬ日本語で「病人はいない、神の加護がある」と嘯くが、私の鼻はその嘘を瞬時に見破った。船倉から這い上がってくるのは、潮の香りを塗り潰すほどの、濃厚な死臭と排泄物の臭気だ。


「……降りる。医師として、見過ごすわけにはいかん」

水夫を押し退け、梯子を下りて最下層の船底へ。そこは、絶望の泥濘ぬかるみだった。


「ガシャリ……」

闇の中で、鎖が鳴った。

視界が慣れるにつれ、そこに詰め込まれた「品物」の正体が浮かび上がる。

裸同然の姿で、互いの足を鎖で繋がれた数百人の日本人。彼らは皆、痩せ細り、虚ろな目で宙を見つめている。

彼らは火薬一樽、絹の反物数本と引き換えに売られた。このまま異国の地で、一生を奴隷として終える。それが、この黄金の国の裏側に隠された、剥き出しの真実だ。


「……あ、あ……」

一人の少女が、私の裾を掴んだ。

その瞳を見た瞬間、私の胸の奥で、何かが激しく弾けた。


私は彼女の痩せた腕を取り、脈を診るふりをして、その小さな手のひらを握りしめた。

言葉は通じない。だが、手のひらから伝わる震えが、私の魂に「音」として響いてくる。それは、どんな名文よりも重い、生への渇望。

少女の脈を診た。

(この子の体力がもう限界に近い。あと数日で死ぬ。船出に耐えられるはずはない。)


「……待っていろ。必ず、日の下へ連れ戻してやる」

私は懐の帳簿を、闇の中で指先に覚えさせた。

取引の数、商人の名、そして宣教師たちが「神の愛」の陰でこれを見逃しているという、動かぬ事実。

この地獄の旋律を書き換えるには、もはや私一人の力では足りない。

あの「破壊者」の力が必要だ。


翌未明。私は箱崎の豪華な仮宮に戻り、秀吉の寝所にいた。

秀吉は、戦勝の疲れからか、寝苦しそうに寝返りを打っていた。私はその枕元で、静かに、だが最も鋭い言葉を選んで、彼を目覚めさせた。

「上様。日ノ本の主として、ご自身の庭がどれほど汚されているか、ご存知でしょうか」

「全宗……。夜分に、何を……」

秀吉が不機嫌そうに目を開ける。その眼光は、眠りの中でも天下人の鋭さを失っていない。

私は、昨夜見た船底の光景を、一言一句、秀吉の「プライド」を切り刻むように語った。


「バテレンたちは、上様の慈悲を笑っております。上様が統一されたこの国で、我が国の宝である民を、家畜のごとく買い叩き、異国の海へ売り飛ばしている。これは上様への侮辱であり、日ノ本の神仏への冒涜にございます」


秀吉の表情が、一変した。

最初は驚愕、次に戸惑い、そして……一気に、火山が爆発するような怒りへと。

「……何だと? 儂の、この儂の目の前で、我が国の民を売っておるというのか?」


秀吉は跳ね起きた。その瞬間、部屋全体の空気が、物理的な圧力を帯びて歪んだ。

「ガシャン!」

枕元にあった、あの一服の茶を愛した美しい器が、秀吉の手によって壁に叩きつけられ、粉々に砕けた。

「全宗! 奴らを呼べ! コリャードを、ガスパールを! 今すぐ、儂の前に引きずり出せ!」

秀吉は裸足のまま、黄金の広間へと躍り出た。

「この国は儂の国だ! 儂の民を、誰の許しを得て、どこの誰に売るというのだ! 宣教師ども、神の愛だと? 笑わせるな! 奴らは救済を語りながら、我らの魂を根こそぎ盗もうとしておるのだ!」


黄金の屏風を、秀吉は抜き放った刀で一閃した。金箔の破片が、火花のように夜の闇に舞う。

それは、天下人としての狂気であり、同時に、この国を一つの「形」に守り抜こうとする強烈な自己主張だった。

「バテレンは追放だ! 船を止めろ! 一人も出すな! 鎖を断ち切れ!」

「すぐにバテレンどもに五つの問いを叩きつけろ!」


秀吉の咆哮が、静まり返った博多の空を震わせた。

その背後で、私は静かに平伏していた。

秀吉の狂気、それこそが、この地獄を浄化する唯一の炎。


(私は今、この破壊者の怒りという名の不協和音の博打を撃った。)


夜の闇が明ける頃には、歴史は決定的に動き出す。

全宗という医師が放った一言の毒が、天下人を覚醒させ、この国を数世紀にわたる閉ざされた、だが守られた静寂へと導くための「伴天連追放令」へと結実するのだ。

私は砕けた器の破片を一つ、掌に握りしめた。

読んでいただきありがとうございます。

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